My sweet home

安心して寝られる気がしなくて、記事を書くことにしました。
私は14歳で統合失調症を発症したと推定診断を受けました。でも実際に受診したのは35歳になる直前。中一二学期から登校拒否、定時制夜間部の高校を七年かかって卒業、半年後に父が亡くなり、受診するまで十二年あまり引きこもりでした。受診後に主治医からデイケアを勧められ、通所。約四年通って疲れはて、卒業。その後はまた引きこもりに戻り、住んでいる公団の移転新築に伴って転居するまで約五年、家にいました。数ヶ月の清掃アルバイトを経て、今の作業所に通所することになりました。これまでの人生で、一人で外出する機会は少なく、自分の暮らす町のこともよくわからず、また、道を覚えるのが苦手で、作業所の公園清掃に行くにも、一人では辿り着けません。
外の世界、社会のことはいつもおぼろげな感覚でいます。
今の作業所が決まるまでに出会った、相談員の方が、今から思うと素晴らしい方で、その方のお陰で私の、そして母のケアの安定があります。その方に紹介された計画相談の方との出会いにも恵まれました。
主治医の先生にも恵まれました。
私はラッキーだった、と思います。
私自身、何もしなかったつもりはないです。
努力とか一生懸命とかが苦手ななりに、できるときはそれなりに勇気を出してやってきたつもり。。。
それは、普通、一般、の基準からはかけ離れてはいるでしょう。
ぐうたら寝ていることも多いです。やる気のないことの方が多いです。
一人でいたいことも多いです。
仕方ない。
一般、普通の暮らしは私にはできないのだから。
私は障害年金で暮らすなかで、クレジットカードの借金が払えなくなり、任意整理をしました。お金の管理が出来なくて、夜中に衝動的にネットで買い物したりしてきました。
この夏、ようやく今までをふりかえり、お金と生活を整える決心ができました。
私は木の芽どきに精神状態が悪化しやすく、特に今年はひどかったです。キシネンリョは症状のようなものですが、今年は本当に死ぬつもりでした。理由はなかったです。飛び降りる元気が沸かなかったのですが、でももしかしたら、本当に死んじゃう人は死にたいとか死のうとしたとか言わないのかもしれないですね。盛夏になり、私は何故か元気になりました。薬があっても、春は眠れずたべられず、起き上がることも難しかったのに。
ここ10日以上、私は元気です。訪問の看護師さんにも会えるし、作業はしてないけれど、作業所に午後から行きました。来月くらいからは朝から行けそうかな、と思っています。
そういう私とは裏腹に、離れて暮らす弟は、鬱が今、悪化しているようです。弟は心臓病でもあります。
だから私と公団で暮らす母は弟が心配でたまらず、その心配、今後への不安を私にぶつけるのです。
私のことを薄情とか、冷たいとか言う。私が弟のお世話をする気がなく、母の没したあとで、公団に呼び戻して暮らす気がないから。
しばらく前、母が弟とこの公団で弟のお世話をして暮らしたいらしいので、私は生活保護になって、家を出てもいいというつもりがありました。実際に、公団の事務所に母と行きました。事務所の方は、一度出た弟を戻すのは難しい、お姉さん出ちゃうんですか?と言っておられました。でも、母の意向なら仕方ない。私はそれなりに覚悟もしてました。でも、結局は、弟本人が拒絶して、以来、私も家を出るという気持ちは失いました。
また、いずれにせよ、この先、弟と同居する気持ちは無いです。
弟と私は、弟が16歳ごろまでは、けっこう仲は良かった。ふとしたことがあり、突然彼は、いい加減にしろよ、といいはなって、私を拒絶しました。以後、特に用事でもない限り、私に対して口を開きません。同居していたころは、部屋に私がいるのに自分が去る際電気を消したり、突然前触れもなく友人を連れてきたり、お風呂上がりにドアを開けたり、嫌がらせもしてきました。でも、母に言わせれば、それは全て私のせいで、私だけが悪いのです。思春期の男の子なのに、いい年の女がパジャマ姿で髪を振り乱していたから、なにもかも悪いそうです。
だから、弟が私にどんな態度だろうと、悪くない。
私だけが悪いのです。
私に悪い点がないとは言いません。私は弟に謝り、歩み寄ろうとしました。何回もそうしました。
弟はそのたびに拒絶しました。言葉で拒絶し、私を睨み付け、死ねばいいのに、とも言いました。
だから、私は歩み寄るのをやめました。
無駄だとわかったから。
死ねとまで言われて、それ以上、私が膝を屈する謂れはないから。
母にはこうしたことを伝え、私の気持ちも伝えています。
でも、女親の男の子への甘やかしには歯がたちません。鬱だから。心臓病だから。男の子だから。一人だから。可哀想可哀想可哀想。
鬱になったときには、それも私が彼の思春期にパジャマで髪を振り乱していたから、そのせいだ、と言われました。弟に起こる不運不幸はなんでも私のせいなのです。
母の妊娠中のことは、忘れたいくらいです。
私はきょうだいなんて欲しくなかった。まして、男の子なんて。男の子は乱暴で怖い、と思っていたからです。
そういう私の気持ちは確かに彼に悪影響があったとは思います。
でも私は母からお前はひとりっこだから、女の子でも甘やかさない、厳しくするんだ、お前の為だ、と言われてきたのです。
男の子が生まれたら、母は夢中で、まだ彼がろくに口もきかないうちから、男の子は優しいわーーと感動していました。まだ彼が優しさなど発揮しないうちから。
そして私の家庭内での地位は下げられ、弟と弟の世話をする母のサポート要員としてみなされるようになりました。
でもそれは親の勝手です。私は抵抗していうことをきかなかった。母の私だけへの厳しさは変わらず、弟の都合と機嫌で、私との約束はいくらでも反古になった。
こんなことは、年の離れた姉と弟、ではたぶんありふれているのでしょう。私には禁じられていたさまざまなことが弟には簡単に許され、弟が悪さをすると、どうしようどうしようとすがってくるのも、女親がやりがちなことなのでしょう。
母はそもそも女が嫌いな人です。
性的なことを忌まわしく思う人です。
私が女の子っぽい言動をとることも、女の子らしさを求めることも嫌います。
自分は性的ではないかのように。
子供を生んだ以上、そんなことはありえないのに。
私が女の子らしさを望んでいるのを知っていて、髪を短くさせたり、ショートパンツを履かせて男の子っぽくさせたり、男子がほとんどのサッカークラブに入れたり、そういうことをしてきました。私の健康のためだそうです。
私は12歳から二十二年間、髪を切りませんでした。短くされたくないからです。
女の身体に生まれつき、女だと自認していても、女であることを阻まれつつ、女としての義務は果たすよう要求される。
家庭内でこそ、私は男女差別をされました。
男に媚びろ、へつらえ、仕えろ、と望まれました。でもエロティックであることは許されません。エロスと無関係に男に媚びるって、どうやるの?
別に母は私に愛がない訳じゃない。
私と母は共依存の関係です。
私も別に、母に愛がない訳じゃない。
愛があっても、親は子供にいくらでも残酷になります。かわいいから。手離したくないから。平気で自分の要求を通す。
そして、女親は娘を憎み、嫉妬します。私の親はそうです。
私が父に可愛がられたのが気に入らない。
私が満足しているのが気に入らない。
私が幸せなのも、本当は気に入らない。
だからそのような兆候を感じると、私を貶め、足を引っ張り、気持ちを挫きます。
それを指摘すれば、お前はおかしい、甘えている、もともとそうだった、ヒステリーだ、被害妄想だと非難する。
今回も、そうです。
私がここしばらく元気になり、満足そうにしているから、裏腹な状態の弟が可哀想で、気に入らず、八つ当たりしてきたのです。
疲れています。
弟に何かあるといつも必ず母は私に八つ当たりする。
たまに帰省する弟のお世話につかれて八つ当たりする。
私は母が死ぬまで逃れられない。
だから、今でも私は反抗期。
できるだけなにもしないようにして、母にお世話を受けるよう努めている。
高齢だから、私も母のケアはそれなりにしています。
でも弟のことで八つ当たりされたら、従わない。
共依存とは恐ろしく徒労があります。
まとまりない長文になりました。疲れたので打ち止めにします。
読んでくださった方がもしいらしたら、ありがとうございます。感謝。

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