川崎 -プロスポーツ不毛の地から脱却-
プロスポーツが根付かない街と呼ばれ・・・
神奈川県川崎市は、横浜市に次ぐ県内第二位の人口を誇る都市です。
東京と横浜の間にあることで、東京や横浜へ通勤する人も多く、郷土意識を持ちづらい土地柄でした。
企業城下町の顔を持ち、そのため多くの企業チームが活動している地域でもあります。
アマチュアのみならず、プロスポーツとの関わりは横浜よりはるかに古く、高橋ユニオンズが川崎球場を本拠地とした1954年に遡ります。
しかしプロスポーツが根付くことはなく、大洋ホエールズ、ロッテオリオンズ、ヴェルディ川崎と多くのプロクラブが一度は川崎市をホームタウンとするも、根を下ろすことなく他の都市へ移転していきました。
公害、ギャンブルなどのイメージにより、青少年に夢を与えるプロスポーツにはふさわしくない街とのレッテルを貼られることさえありました。
全国区のクラブを持ちながらも、地元実業団の夢に賭ける
Jリーグが開幕したときは、間違いなくヴェルディ川崎がリーグの主役でした。
野球の巨人のように全国区にファンを持っていたため、「川崎のクラブ」という意識は希薄でした。
実際、ヴェルディは、東京に本拠地を構えたかったところ、東京でJリーグの規約を満たすスタジアムがなかったため、川崎をホームにした事情がありました。
そのため、Jリーグ開幕当初から東京への移転希望を隠そうとせず、地元川崎から反発を買うこともしばしばでした。
同じころ、川崎にはプロではなく実業団クラブがいくつかありました。
東芝、富士通、NKK、いずれも川崎を代表する企業です。
その後、NKKサッカー部は廃部し、東芝サッカー部は札幌に移転しコンサドーレ札幌となり今に至ります(サッカー部のみの移転であり、東芝は資本参加せず)。
ヴェルディの地元軽視に不満があった地元の商店街連合会は、アマチュアで唯一川崎に残っていた富士通サッカー部の応援に繰り出しました。
富士通もそれに応えるように、1996年に富士通川崎と地域名を名称に加えました。
1996年11月にはさっそくヴェルディ川崎と富士通川崎のフレンドリーマッチが開催されました(結果はヴェルディが5-0で勝利しプロの貫録を見せる)。
この時の富士通川崎の監督が城福浩氏であり、現在はヴェルディの監督をされているのが、運命の巡り会わせを感じます。
愛を運んでくれたのは水色のサンタクロース
そして1997年に富士通もプロ化を表明し、川崎フロンターレに生まれ変わりました。
フロンターレが力を入れたことは、ヴェルディが軽視してきた地元との関係づくりです。
スタッフが地元の商店街に営業に回るのはもちろんのこと、選手も地元のイベントに積極的に参加しました。
クリスマスイブには、クラブカラーである水色の衣装をまとったサンタクロースに変身し、児童施設にいる子供たちにプレゼントを配りました。
当初は「他のクラブと同じように、いつか川崎から出ていくんだろ」といった声をかけられることもあったようですが、地道な活動を続けた結果、市内各地の商店街にフロンターレのフラッグがはためくほどになりました。
地元の小学校と共同で算数ドリルを作成するなど、フロンターレの地域貢献活動は多岐に渡ります。
このドリルには選手にちなんだ設問などが用意されており、子どもが楽しく学べる教材になっています。
かつて川崎市民に川崎を表現する色を尋ねたところ、公害のイメージからグレーと答える人が多かったそうですが、いまではフロンターレの水色と答える人が多いそうです。
プロスポーツの力は、ネガティブな街のカラーすら変えることができたのです。
フロンターレには、ワールドカップにも出場した中村憲剛さんという偉大なプレーヤーがいましたが、彼が自身の引退セレモニーに呼んだのは、著名人ではなく地元の消防団や一緒に清掃活動を行っていた地域住民でした。
フロンターレがいかに地域に溶け込んだ存在だということがわかるエピソードです。
2016年からは、バスケットボールのプロリーグBリーグが開幕し、川崎を本拠地とする川崎ブレイブサンダースという川崎第二のプロクラブも誕生しました。
川崎市のプロスポーツが根付かないイメージは、完全に過去のものとなりつつあります。
宇宙一輝く星の正体は・・・
今年から開幕するバレーボールのSVリーグにも、川崎の街をホームタウンとするNECレッドロケッツ川崎が参戦します。
フロンターレの地域密着活動は、もともと川崎市民の誰もが持っていたはずの川崎への愛着を誇りに変えてくれました。
それはブレイブサンダースにも確かに受け継がれています。
レッドロケッツのスローガンに「宇宙一輝く星を目指す」というものがあります。
先人であるフロンターレが大切にしてきたものを考えれば、宇宙一輝く星は決して遠い場所にあるのではなく、すぐ近くにあるのではないでしょうか?