☆好きでいたい夜

なにでもない話をつらつらしますの回


様々な団体が、公演延期になったり中止にしたり、新たなアイディアを出したり、大きいところはインタビューを受けたり、バッシングを受けたり、している。
これまで劇場を体験してこなかった人々にとっても知名度のある人たちから先にバッシングの対象になっていて、あー、きっついぜ、と思う。
テレビに出たり、有名演出家についたり、誰もが知ってる所に引っ掛かってそうしてようやくフーテンではなく役者なんですね、と思ってくれるんじゃなかったのかい。なあ世間様よ。
有名税だからバッシングもあるでしょとか言い出したらぶん殴りに行きたくなるよ。演劇の人間ほど「他人に理解をもって、持とうとして口に出す」ことを諦めない人間はいねえよ。くそ、おいこら。

「演劇の人間」と「ショウビズの人間」が同じ1人の人間だとしたなら、その人は、人格障害と言って過言でないほど振り幅がある。
と思うのは、私の演劇、ショウビズ、という言葉の定義が違うからなだけなんですが

今、演劇に関する人間の内側で世界を理解しようとしているのは、モノを売るためにために血も涙もないフリをする、夢想だけ大声で拡散するショウビズの人格じゃない。人がいてモノを動かしている息遣いや汗を知っている、掌のマメを知っている、泥臭い演劇の人格だ。多分。
とかいって、なんかうまいことカネを作ろうとするために、言葉が紡げる人もいるだろう。すげーよな。今のご時勢を武器に商売にする人はすごい。

サロン系の方々はその気が強い気がする。
ま、でも、無償で受けるインタビューとかはやりたいお商売事じゃないっしょ。番組を賑やかすために言論を切り取られたらなおのこと、その人の本心からの思想じゃないってことくらいわかるだろ。わかってほしいもんだよ。ああ。

わたしは共感性羞恥やHSPに近いところがあるのか、よくこういう時に人の動向を見てダメになったりズタボロにされてしまう。3.11の時も酷かった。毎日Twitterやテレビをチェックして、Skypeで人と連絡を取りながらぽろぽろ泣いて、放射能汚染や地震が怖くて家から出ない選択肢を取ったり。安心安全の東京暮らしだったのにな。
だけど、何も持ってなくとも、いま皆ダメージすごいよね、きっとさ。
頑張ろうねという言葉が本当に、染みる。

公演延期や中止は、今回の禍に関わらずこれまでの人生で何度か立ち会っている。
さみしいな、とか、悔しいな、とは思うけれど、物語を立ち上げて呼吸してきたから一応、そこに関わる1人1人に物語と過去未来と欲求があって、現在の意見があって、混じり合わない気持ちがあるってことは、ようくわかっている。つもり。

今回のこれは、やるせないぜーが先に立つので、「ああこれはもう仕方のない事なので先へ進むしかない、感じるな考えろ」と自分に鞭打っている感覚で、毎日を過ごしている。過ごせるようになった。最初の2週間くらいは無為に過ごしてしまった。
私は著名な方々より全然、学がなくて、ふらついて空想に生きてるようなもんだから、尚更かも。意見や想像の後ろ盾がないのはよくない。安心するために科学や歴史や制度があるのにな。

好きなライブハウスが消え、好きな人達が団体を解体したりしている。雑居ビルに入った小さなバーや、得体の知れない性癖の人間が集まるイベントも、今は静かに呼吸している。
飲んでいて隣り合わせになる近場で働く海外のお姉さん、朝方に酒にやられた私に声をかけてくる車で送迎したがるおじさん、深夜歩いていると居るから何だかんだで話が盛り上がっちゃうホストさん、皆元気かな。
意味のわからないコミュニケーションも良しとされる夜の街が私は好きだよ。興味のない広告と必要ない明かりに照らされた雑踏を、なにでもなくふんわりと歩くのが、私はどうしようもなく好きだ。刹那的なコミュニケーション、なんでしたのかわからない初めまして。何年経っても構わないから、ネズミ達が行き交う夜の街が戻ってきますように。

こんなとこまで人生歩いてきちゃって、(まだまだ歩き足りないんだけど)だから、芝居をやめる人や仕事を変える人なんて山ほど見てきた。
児童劇団の頃の後輩はたまに会うし精力的に続けている子がいるけど、先輩がたはそこまでお会いしないし、なんなら同期はみんな芝居をやめた。私だけが残った。
専門学校の先輩は、ずっとやるだろうと思った人達は出会った時から今までやってて、ずっとやるだろうと思った同期はやめた。芝居の専門だったけど、芝居をやっているのは一握りだ。
学生が終わってからも、この人は面白いと思った人が芝居から足を洗った。
かくいう私も、2度ほど「やめるぞこの業界」という時はマジであって、バンドマンになったり無になったりしたけど、それでも何だかんだと呼び戻されたり戻ったりして、ここにいるわけだ。

様々な理由がある。
でも戻ってくるかもしれない。
戻ってこなくとも、生きていて楽しそうな瞬間があればいい。やる人はやるし、やらない人はやらないのだ。必要とされてないわけじゃなくて人間として見るからそう思うのだ。(わからんけど。必要でなかったり至らなかったら消える一方なのですがそれでも)芝居じゃなくても楽しいことたくさんやろうぜ。
馬鹿みたいに笑って踊り狂ってたバンドマン時代が私の糧になってるように、私が関わった時間がなにかの足しになってりゃいいんだけどさあ。

私はまだ、まだ芝居をやってて、やるのだろうし、残念ながら飽きないでいる。また居なくなるかもしれないけど、その時もしばらく落ち込んだ後には馬鹿話して過ごすんだと思う。
やらなきゃいけないことなんて人生であるんだろうか。国民の義務くらいなもんじゃないのかな。そんな追い詰められなくても世の中は我々を見放してないし、残念なことに、そこまで見ちゃいねえや。堅苦しい見栄は捨てて、でもプライド持って、おおらかに生きても意外と生きていける、はず、、、だと、いいな。弱気

なんであれ、
わたしは星澤という名で、芝居をしていて、今後も続いていくし、ひとりの人間なので、いろんなことがあっても全部抱えて生きていくし、芝居に関してはきっと進んでいくはずだから。
これは誰かへのメッセージではなくて、自分に立ち返って、先達でいなくちゃならん、先達に追いつこうと走り続けていくという鼓舞なのです。
ここまで来い、絶対に追いつけないだろうけどな、と言う先輩方の背中を忘れられない。私もそうならなければと鼓舞する。続けることが一番難しいね。ああ、みんな、元気かな。

全部混じり合って、夜が更けていく。

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