ある人手の物語

例えば、雪が降りしきる中で寒さに震える人がいるとして。
街中で手袋もなく、手がかじかみながら白い息を吐き出しながら、やってこない待ち人を待ち続けているような人がいるとして。

その場で声をかけることもできるだろう、ホッカイロや温かい飲み物を渡すこともできるだろう。
あるいは、とりあえず温かい場所に入ろうと言うこと、ストーブをつけて部屋をあたためておくこともできる。
そうすると、身体がほぐれて気分が良くなる。こわばった表情も柔らかくなるだろう。あたたかい環境の中で待っていてもいいんだ、とも思えるだろう。

いや、私には待つべき事情があるんだ。これまでもそうしていたから。外で待っていないと怒られる。私は温かくしてはいけない、寒空で待つのが礼儀だ。そう言って、再び寒い街頭で待つことを選ぶ人もいるだろう。
せっかく温まってきたところだったのに…!と折角の好意を無碍にされたと思うかもしれない。なぜ温かな場所から離れたがるのか、理解できないかもしれない。

私もかつては、寒さにうちふるえる人だった。風邪をひいて熱を出しても、あたたかな場所に入ることを知らない人だった。また、自分がしんどい状態にあっても、ヘルプを出せない人であった。
抱えている仕事が大変な状態になってようやく、周りが気づき、状況を把握され、ひとまず温かい場所に避難させよう・仕事は引き取ろうとなって、自分も周囲も大変な思いをして状況が収束されていくような。

そんな状況だった私もようやく、冬の朝に寒いなぁと思いながらも、暖房をつけてお湯を沸かし、白湯を飲んだあとに、厚手の靴下やレッグウォーマーをつけて、厚ぼったいトレーナーを着て、しっかり身体を温めるということができるようになってきた。
とはいえ、身体を冷やすような食べ物を控えたり、そもそもの冷え性をもたらす運動不足を解消したり、反り腰になって全身に負担のかかる姿勢を整えたり、とまだまだやることはたくさんある。

誰でも彼でも出迎えられるわけではない。私の手に負えない人もいるだろう。
たまたま私のもとを通りがかった人も、昔からの友人もいるのかもしれない。一言で片付けたら「縁」のようなものなのだろう。
たまたま通りがかった人が、寒さに震えているなら、寒さの中に居続けることで身を守ってきているなら、温かいマフラーや居場所を。

あたたかさを提供するわけではない。私がたまたまあたたかい場所にいることができている、あるいは温かさを感じられる道具や考え方を分け与えてもらっているだけ。
だから、そのあたたかさを分かち合うだけ。共有にこだわらず、分有すること。
そうすることに何の意味があるの?少なくとも、ここを訪れた人にとっては、意味があるの。

そう書きつけて、私のあたたかさの原体験の1つ、お風呂から出る。まだお湯は暖かいままだ。

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