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自分が助かることが誰かを助けることだとしても、自分が助かったことで助からない誰かもいるということを常に忘れないでいるための忘備録。

相変らずコロナですね。
わたしはというと、この前バイト先の飲食店で、「まさか5月に収束すると思わなかったわ~」という話し声が聞こえてきたり、朝7時からダンベルで筋トレしてるおじいちゃんを見かけたりだとか、なにかしらで多様性を感じる毎日です。いかがお過ごしでしょうか。

おじいちゃんはさておき、緊急事態宣言の解除=終息という考えもあるのか、なるほど、と思いました。色んな考えの人がいて、世界は面白いですね。

今日書くのは、色んな人がいて面白いけれども、コロナ以後がずっと「すべての人が困る時代」だったらどうなっちゃうんだろうという妄想をお話しします。

当事者じゃない人がいない時代へ

主に東浩紀さんの以下の発言から、妄想してみようと思います。

#ゲンロン友の声 】国に補償を求める芸術家をどうしても「ダサい」と感じてしまいます https://genron-alpha.com/voice20200508_01/ @genroneditさんから

「国に補償を求める芸術家をどうしても「ダサい」と感じてしまう」という質問者のメールに対して、東さんなりの回答をしています。

さて、ご質問についてですが、ぼくは決して彼らを「ダサい」とは思いません。しかし一緒に運動をすることもしません。なぜならば、ぼくは、自分の活動は公共の役にたっていると自負してますが、同時に税金で守ってくれと頼めるものでもないと思っているからです。

個人的にはあずまんのこういうところが好きです。なんでだ。なんか、かっこいいな、それ、って思うからです(笑)
お前がただ好きなだけじゃんって話ですが、この、「敵でもないしし味方でもない」存在を否定したり攻撃したりもしないし、いちいち相手を変えようともしない態度がいいなと思うのです。

わたしはあずまんは公共マインドの人だなと思っているのですが、わたしの定義での公共マインドとは、「私的利害をいったん脇に置いて、共同体全体にとって良いことが何かどうかを考えることができる人」のことを言います。
超簡単な説明をすると、原発賛成か反対か、ということを考える時に、もしあなたが原発を稼働することで利益を得ていたり、収入を得ていたとしても、そのことを考慮に入れず、社会全体にとってそれがいいかどうかで原発への賛否を考えるのが、公共マインドです。

なので、あずまんが公共マインド的視点から、自分の活動は税金で守ってくれなくて大丈夫よ、と言っているわけです。

ちなみに、公共マインドについては、誰が最初に言いだしたのかよく覚えていないのですが、ひとまずは大澤 真幸、木村 草太共著の『憲法の条件 戦後70年から考える』の本に書いてあるので、知りたい人は本を探してみてください。

さてさて、公共マインドを持つことが大事だなとわたしは思うのですが、一方で、すべての人間がそれを持つのを目指すのはむずかしいなとも感じています。

ポイントとしては、「私的利害をいったん脇に置けるかどうか」なわけですが、1億総中流な時代が過ぎ去った今、裕福じゃない人が大多数の時代において、私的利害を脇に置く=誰もが経済的死や孤立に繋がりかねないならそれって無理じゃない?という問題はあります。つまり、私的利害を脇に置いても自分がひとりでは死なないセーフティーネットがある前提で、公共マインドは発揮されるものなのです、多分。
私的利害を脇に置いて、コロナの感染拡大を防いだほうがいいと思っても、お店を閉めると補助を貰えたところで経済的に苦しい、生活が成り立たないっていうお店がいっぱいある中で、収入がなくなってもご近所づきあいがあるから!とかだったらいいけど、そうじゃないなら、社会全体のために粛々と自分の命を差し出すようなものですから、それはなんか違うなと思う。

問題は、置けるほどの心的余裕、経済的余裕がないこと、経済が機能しなくなった時に共同体としての機能がないこと。

自己責任で孤立せざるを得ない状況はよくないです。

話をあずまんに戻します。

いまは当事者の時代です。当事者が声をあげるのが善とされる時代です。
だから言論人もアーティストも「おれたちは困っている」と声をあげ、保護を堂々と求めるのがいいということになっている。けれど、ぼくは古い世代の人間だからか、どうもそういうのに美学的に違和感がある。言論人やアーティストは、ぎりぎりまでやせ我慢して、せめて仲間の支援くらいで困難を乗り切り、他人のために働くほうがカッコいいなと思ってしまう。

今が「当事者が声をあげるのが善とされる時代」であるというのは、そうだな、と思う人のが多いんじゃないかと思います。賛否両論はあると思いますが、例えば#me too運動が盛り上がったのも、「声をあげるのが良いことだ」という考えが根っこにあるからだと思います。権利とは勝ち取るものだ、というのは、欧米由来の考えな気もしますが、なんと日本にも根付いている(?)のですね。

さて、話を戻します。

東さんは、国家の保護も大事だとしたうえで、真っ先に自分を守るために国家の保護を求めた人たちに対して、うーんって感じるらしいです。国家が保護するかどうかの選択は民主主義の原則に即すならば主権者であるはずの市民になるわけですが、ところで、民主主義が機能する成員の数ってのは2万人だと言われてます。これは社会学者の宮台真司さんが時々言ってることで、その2万人というのは「人間がぎりぎり顔を覚えていられる限界」なのだそうです。この、顔がわかる、なんか知ってる、ってのがミソだと思ってます。でも今は、おなじ地域に住む人がどんな人かも知らないのに、県外の人とか、海外の人とか、喋ったこともないけど一方的に知ったり知られたりする時代です。わたしは、まずは自分の為に動くことが大事で、それが転じて人の為になるんだと信じていますが、「世の為人の為」とか「仲間」ってなったときの人の顔って具体的にどんな顔が浮かぶのか?ってことがかなり重要なんじゃないかなと思ってます。


「世の為人の為」はどんな顔?

はて、「俺たちは困っている」と声をあげる人々は、自分だけが助かるために声をあげているのかというと、仲間のためだったり、それが世の中のためにもなると信じて声をあげていると思うのです。ただ、国家に補償を求めるとなったときに、いかんせん国家という存在が抽象的過ぎます。

わたしは、まだ自分のユニットで2回しか作品を作ってません。これからどんどん作るぞー!となったタイミングでコロナが来たので、実績もあるわけでもないし、毎回見てくれるファンがいるほどまだ作品を作ってないので、何もせず黙っていようかなあ、演劇作るなんて無謀だったのかしら…としょげたりもしました。

でも、思いだすと、ありがたいことに「あなたの作品に感動した」、と言ってくれた人もいたし、「次東京でやる時は観に行くから教えて」と声かけてくれた人もいるし、たった2回しか作品作ってない自分ですら、欲してくれている人というのがいるのです。ありがてえ。なので、作品を作るのは自分のためですが、見たいと思う人たちがいるんだから、やめるわけにもいかないなあと思うのです。

誰のために、誰に対して声をあげるか、というのが大事な気はしています。


劇場は社交場

愛知県芸術劇場がわたしとても好きだったんですが、何故かというと、知り合いに会えるからです。大抵はひとりで劇場に行きます。でも、ロビーで知ってる顔を見かけて、2、3挨拶したりします。あと、学生の頃インターンをやっていたので、劇場の人とも知り合いです。久しぶりです、とだけ挨拶します。観終わったあとは、みんな盛り上がったりしているので、知ってる人をつかまえて感想を話したり、元気だった?みたいなことを確認し合ったり、次はどんな公演するの?って話をしたりします。

その、ゆるーい繋がりがとても好きでした。行けば知ってる人に会える、っていう安心感が。前回お話したことですが、わたしは人と話すのが上手なタイプではありません。が、作品のことならたくさん喋れます。要は、世間話がてんでできないんですね。できない自分でも、そこは受け入れてもらえます。わたしには演劇の師匠がいて、演劇の師匠といっても、コンテンポラリーダンスの人なのですが、あっちこっち現場に連れてってくれたり、劇場に連れてってくれたりしてくれました。わたしは非常にシャイだし、自分で自分がよくわからないので、人に紹介されても、「わたしは何をやってる人なんだ?」と人に説明することができないので、自己紹介は苦手というか、お互い誰かとかどーでもよくない?って感じなのですが、作品の話してよ、とか言われたらまだできました。

公共劇場だと25歳以下は1500円とか2000円とかで観れたりするので、よく観に行ってました。からだの調子が悪くなってからは、椅子に1時間以上座りっぱなしなのがキツくて、全然行かなくなってしまったのですが、ちょっとおしゃれして街に出掛ける、みたいなのが、自分にとっての楽しみになってました。作品を観に行くことよりも、劇場に行って人に会いに行くことが楽しみだったのです。

劇場って、ちょっとした社交場なんです。

フリーターでお金がない今は、社交場に行くのになんでお金がこんなかかるんや…って感じなので行ってないのですが、行ってないことで人とのつながりが絶たれていることは地味に辛いなあと思います。


お金がなくても生きたい

どこもお金がないのだから、わたしのとこに寄越せ!ではなく、経済を止めるな!でもなく、度々経済が止まっても生きられるシステムにしようって話にはあんまりならないので、資本主義のでかさ改めてすごいなーって思いました、今回。

知り合いで、クラウドファンディング始めた人がいるのですが、団体の規模が大きい分、コロナによって被った一年の損害がかなりの額なので、目標金額も相当巨額な額でした。これ、来年もコロナの波が来たり、別の問題でできない、ってなったらどうなるの?と聞いたら、それはその時考える、と言われて、まあそうよな、とは思ったのですが、一つの会社とか、団体とかが、自分たちのやりたいことをやるだけでも、こんなにお金がかかるってことが、本当に正解なのかしら?と疑問に思いました。

0円演劇とか、やりたいです。


みるほうも、やるほうも、限りなく0円。

絶対やりたい。