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2021 対州馬ひん太応援プロジェクトにおけるお礼状原稿


この度は、「対州馬ひん太応援プロジェクト」にご賛同いただき、誠にありがとうございます。

 我が家には永久保存版にしている一枚のDVDがありますが、それが映画「奈緒子」です。
西浦監督の家としてロケが行われたのが、私と妻が教員として壱岐の島に赴任時に住んでいた勝本町の教員官舎でした。
官舎といっても、平屋建ての古い住宅で、湯の本という島唯一の小さな温泉地にありました。
正直言って粗末な建物でしたが、湯の本湾を望む小高い丘の上に建っており、眼前の玄界灘には夜ともなれば、眩しいほどの漁火が輝き、夏ともなればカエルの大合唱で、日本の原風景のままという感じの場所でした。
その官舎時代に私たち夫婦の初めての子どもとなる長男が生まれました。
島ということでやはり医療施設が脆弱で不便なことも多かったのですが、周囲は町立幼稚園や小さな港町、温泉街があり、一緒に散歩をするには絶好の場所でした。
ちなみに皮膚があまり丈夫でない長男のためもあり、毎晩のように入りに行った温泉のひとつが後に春馬くんが訪問した平山旅館でした。
島は本土に比べ風当たりが格段に強く、壱岐の家々というのは小さな古山や林の南側に建てることが通常なのですが、一方で島外者に対し排他的なところもあり、何十年住んでも「旅の者」と呼ばれます。
この教員住宅もそんな差別的な対象として扱われたのか、雨戸すらついていませんでした。台風の時は、本当に恐ろしい思いがしました。
また古いので大きなムカデなどもよく侵入して、息子が刺されるの
ではないかと気が気ではありませんでした。
そんな有様のためか人気がなく、私たちが退去した後は、入居する者もなく空き家となっていた所に、ちょうどロケの話が舞い込んだようです。
古くて粗末な家であっても、私たち親子にとっては幸せな生活の思い出の詰まったすばらしい家にちがいありません。 
ちなみにこの家に迷い込んできた白い子猫にシロと名付け、長崎市に引っ越す時にも一緒に渡りました。
どんな猫にも怒ったことがなく、一度も「シャーッ」という声を発したことのない素晴らしく性格のいい猫でした。
その家に春馬くんや上野 樹里さん、鶴瓶さんらがいた、「奈緒子」の映像は、今では取り壊されてしまったその家での記憶を遺す、唯一の何物にも代えがたい宝物なのです。
また、その頃壱岐には小さな島にも関わらず、10校もの中学校がありました。そして島では伝統的に駅伝が盛んで、その順位は地区住人のプライドにも関わる重要なこととして扱われていました。
毎年秋に駅伝大会が行われますが、一年中トレーニングをします。しかし、女子生徒を中心にそのトレーニングを嫌がる者が多く、私は苦慮の末、自分がまずきつい練習に参加することでしか生徒達を納得させることができないと思い、それこそグランドはもちろん、壱岐のいろんな場所をで生徒と
一緒に走りました。タイム・レースなどのあとは道端にぶっ倒れるという感じでしたが、見上げた夏空と白い雲は今でも鮮やかな記憶となっています。
長男はその後、中学生になってから陸上部に入部しました。小さな中学校で部員は5,6人しかいませんでした。
顧問は、ほとんど練習には顔を出さない人でした。また、ほとんどが短距離選手だった中で長男はひとりだけ長距離の選手として練習に励みました。長距離はメンタルが大事なので、ひとりでの練習は辛いことも多かったのではと思いますが、黙々と頑張り通しました。
その大会会場となった競技場が「奈緒子」の中でもロケ地として使われた長崎市の競技場でした。
幼い妹をつれてスタンドから走っている息子に「ここで我慢ぞ!」などと声を掛けたこともいい思い出であり、益々映画「奈緒子」に対する想いは深くなりました。
その想いが今、時を越えて私の大切な馬、ひん太と繋がったことは、とても嬉しいことです。
意は尽くせませんが、賛同して頂けたことに対し深く感謝しております。
私は残りの人生をかけて対州馬保存の為に尽くす所存です。
本当にありがとうございました。

            
2021年秋 長崎市   江島 達也 ひん太   』



北側台所
廊下。東側から西側に向かって。
南側室内。
襖で仕切られた居室。
南側テラス。湯ノ本湾を望む。

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