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NHK 映像の世紀 バタフライエフェクト「東京裁判」を観て

現在までの世界史で、最も被害・犠牲規模が大きかった第二次世界大戦。
その終結後、戦勝国である連合国が敗戦国である日本に対して行った「東京裁判」(正式には極東国際軍事裁判)。

そもそも「戦争」が、裁判によって裁かれ得るのか?という大前提は、今なお論議を呼んでいるところである。

これについては、日本の被告側を弁護したベン・ブルース・ブレイクニーが以下のような発言を遺している。
この問題定義こそ、当時の日本がどうだ?とかいうことではなく、未来に語り継がれるべき「言葉の遺産」である。

「戦争は犯罪ではない。戦争法規があることが戦争の合法性を示す証拠である。
戦争の開始、通告、戦闘の方法、終結を決める法規も戦争自体が非合法なら全く無意味である。
国際法は、国家利益追及の為に行う戦争をこれまでに非合法と見做したことはない」
「歴史を振り返ってみても、戦争の計画、遂行が法廷において犯罪として裁かれた例はない。
我々は、この裁判で新しい法律を打ち立てようとする検察側の抱負を承知している。しかし、そういう試みこそが新しくより高い法の実現を妨げるのではないか。
“平和に対する罪”と名付けられた訴因は、故に当法廷より却下されねばならない」

「国家の行為である戦争の個人責任を問うことは、法律的に誤りである。
何故ならば、国際法は国家に対して適用されるものであって、個人に対してではない。
個人に依る戦争行為という新しい犯罪をこの法廷で裁くのは誤りである。
戦争での殺人は罪にならない。
それは殺人罪ではない。戦争が合法的だからである。
つまり合法的人殺しである殺人行為の正当化である。たとえ嫌悪すべき行為でも、犯罪としてその責任は問われなかった。

(以下の発言が始まると、チャーターで定められている筈の同時通訳が停止し、日本語の速記録にもこの部分のみ「以下、通訳なし」としか記載されなかった)

「キッド提督の死が真珠湾攻撃による殺人罪になるならば、我々は、広島に原爆を投下した者の名を挙げることができる。
投下を計画した参謀長の名も承知している。
その国の元首の名前も承知している。
彼らは、殺人罪を意識していたか?してはいまい。我々もそう思う。
それは彼らの戦闘行為が正義で、敵の行為が不正義だからではなく、戦争自体が犯罪ではないからである。
何の罪科でいかなる証拠で戦争による殺人が違法なのか。
原爆を投下した者がいる。
この投下を計画し、その実行を命じ、これを黙認したものがいる。
その者達が裁いているのだ。彼らも殺人者ではないか。 」

2024年4月29日時点でのWikipedia「ベン・ブルース・ブレイクニーの発言1946年5月14日」


ブレイクニ―は、1963年の自家用セスナ機の事故で亡くなっているが、彼の遺した問題定義を後世につないでいくならば、戦争の後に行われるべき事は「裁判」ではなく、「どうすれば戦争を回避できるか?」をポイントに置いた国家間の問題解決方法を国際社会に提示できる国際会議であり、これは国家元首級のメンバーではなく、若い世代を中心とした全世界規模の会議で運営され議論・採択・発信されるべきであろう。



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