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常清高等実践女学校・被爆レンガ塀は、浦上に咲き続ける教育者の魂

明治期において、多くのキリスト教系の学校が長崎に誕生していますが、その多くは外国人居留地に近かった東山手、南山手を創立の地としたものが多いように思います。
しかし常清高等実践女学校は、明治10年フランスより渡日した幼きイエズス会の修道女によって、明治23年「三成女子小学校」の名のもとに浦上の地に創立されました。
その後、明治44年清心女子技芸学校、昭和4年清心女学院、同7年常清女学校、同18年常清高等実践女学校と改称されました。
昭和20年原爆被爆後は同年9月より南山手で授業を再開し、再び浦上に戻っています。
昭和26年に再び長崎信愛女学院と改称されましたが、残念ながら同30年に廃校となっています。

「幼きイエズス会」創立者 レーヌ・アンティエ(フランス)

女性の教育以外に、孤児や老人、ハンセン病患者の世話にも取り組んできた「若きイエズス会」は、幼児教育にも力をいれてきました。
長崎信愛女学院(常清高等実践女学校)廃止後も、明治41年清心幼稚園、昭和9年「常清幼稚園」、昭和24年、現在の「長崎信愛幼稚園」と改称されてきた幼稚園は現在も尚、多くの幼児を迎え入れており、2008年(平成20年)に創立100周年を迎えています。

その長崎信愛幼稚園の北東側のレンガ塀は常清高等実践女学校時代に被爆したものです。
このレンガ塀は被爆後、倒壊していたものを掘り起こして、再建したものです。

被爆直後の常清高等実践女学校の講堂です。爆心地からわずか600mあまりと、至近距離にあった同校は校舎及び付属施設6棟が倒壊、全焼しました。この時、写真に見えるレンガ塀も倒壊しています。

当時、軍需工場となっていた県立盲唖学校(現中華人民共和国領事館)に動員されていた生徒の殆どは亡くなられています。
瓊浦女学院の生徒であった田崎光枝さんの手記によると、
「その夜、一晩中美しいラテン語の讃美歌の合唱がとぎれとぎれに聞こえてきました。夜が明けてみると、学園の運動場の草むらの中に、7~8人の修道女がひとかたまりになって、手を取り合い冷たくなっていた」(『白夾竹桃の下』より)・・・とあります。

常清高等実践女学校の哀しい歴史の1頁ですが、原子野から再び立ち上がった教育者たちの魂は、この長崎信愛幼稚園を始め、熊本や大阪・久留米などにある信愛女学園などに受け継がれている、と信じたいですね。

この77.7mの被爆レンガ塀は、教職者、女生徒たちの鎮魂の碑でもあるわけです・・・

川端 等様より頂きましたコメントを付記させて頂きました。宜しくお願い致します。(管理者)

『 私の母は、長崎市の原爆投下の日は、17歳で常清高等女学校に在学中でした。
たまたま、8月9日に友人が午後から用事があるので、午前と午後の当番(当時兵器工場へ学生動員していたらしい)を交代してほしいと頼まれて、母は午後からのローテーションとなり、電車(石橋電停)に乗るため家を出ようとした時に玄関口で被爆し助かりました。
もちろん、当日は浦上までの街並みは人が近づける状態では無く、翌日に自宅(大浦下町)から歩いて学校まで確認に行ったらしいです。
浦上天主堂の道路向かい側にあった校舎はレンガ以外は跡形も無く、兵器工場だった場所も確認できないほど焼野原だったらしいです。
友人と交代しなければ自分が犠牲になったという事で、身代わりになった友人に対して本当に今でも申し訳ないと後悔しています。
校医だった永井博士も懸命に被爆者を診察看病していた姿は、今も鮮明に覚えているらしいです。
母も今86歳です。
実の息子である私には原爆体験談を40年ほど前に話してくれましたが、孫になる私の子供達や私の妻には一切話してくれません。
語り継ぐ原爆体験者は当然ながら年々減少していきます。
母が健在なうちに機会があれば常清高等女学校OGを開催して、原爆体験談の機会があればと思い投稿しました。ご検討お願い致します。 』 
                       2014年8月8日 川端 等

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2023年7月3日現在。
この「鎮魂の証」とも言うべきレンガ塀は、跡形もなく撤去され、造り変えられてしまった。
園児や歩行者の安全を考えると、致し方なかったのかもしれないが、何だか亡くなった多くの生徒・職員のことを知る機会が亡くなった気がして、どうにもさびしい。

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