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日本帝国陸軍「731部隊」を広く周知させた「悪魔の飽食(森村 誠一著)」の中に人間的な救いを探す

「悪魔の所業」として、関東軍防疫給水部(731部隊)を広く周知させた「悪魔の飽食」。

その内容は、どう控えめにも考えても、ひどい吐き気を起こさせるような残虐行為の数々、中国人などの敵国人に対する、言わば「面白半分の」人体実験を行ったおぞましい記録です。

その真実がどうであったのかを、ここで吟味しようという考えはまったくありません。
青少年に読ませるには、あまりにも残虐すぎて、薦める気にもなりませんが、加害者側も被害者側も、同じ人間であり、その間には怨念や憎しみ、無慈悲しか無かったと考えると、どうにもやりきれないので、同書の中で、あえて「人と人との人間的なもの」が垣間見えた部分だけを抜粋してみました。

しかし、内容が内容であるだけに、興味がある人だけ、読んでもらえればいいと思います。

昭和十七年の秋、7棟監獄三階に在監二年という古強者の「丸太(収監者)」がいた。
これは「二日に三本」といわれる激しい「丸太」消費量の中で驚異的な″最長不倒期間″である。彼の管理ナンバーは909号であった。年齢三十代半ば、身長1メートル75、日英露の三か国語を操る中国人であった。
七三一へ連れ込まれる以前はソ満国境で警官をしていたと本人は言っていた。
「日本語を解する909号は特別班員と囚人の間を取りもつ通訳をつとめ、特別班は彼を丸太の統率役として重宝がっていたようだ。語学の才能が909号を二年も生かしておいたのではないか」元隊員S・T氏の証言である。
七三一において「丸太」は人間とはみなされていなかった。モルモットやノミと同じ実験材にすぎなかったから、囚人と隊員との間に人間的交流の生じることはなかった。
「丸太」の猛烈な消費ペースからも、「丸太」の顔を覚える余裕すらもなかった。
だが、909号のような"牢名主”になると、さすがに特別班員や各班研究員の間に、その存在を知られるようになる。
いかに実験材料といえども、殴りつけて実験を強制するよりも牢名主がいて房内を取りまとめてくれたほうが諸事円滑に進む。
909号は頭の鋭敏な判断力に優れた男であった。
彼は自分が助かりたいために必ずしも日本人に阿ったのではないようである。
どうせ助からない「丸太」であるならせめて在監の間、獄中の生活環境をよくしようと「丸太」の利益を代表して食物や待遇改善の要求を出したりした。こんな909号であったから、囚人たちの衆望を集めた。
909号が一声かけるだけで採血、脈拍検査、検温などがスムーズに行なえる。
隊員も909号には一目おくようになる。
ビーカーに薬用アルコールを浸した脱脂綿を酒代わりに看守の目を盗んで909号に差入れた者もいたという。
あるとき顔見知りの隊員を呼び止め、「あなたは任官のための試験勉強をしているそうですね」と声をかけて隊員を驚かせたこともあった。
身体の自由を拘束されながらも語学を武器にして房内に出入りする隊員たちから情報を蒐集しているのであった。
どんな絶望的環境に閉じこめられても決してあきらめない、単に人間ができているというだけではなく、不屈の信念が909号を支えていたのではなかったのか。
だが彼にも遂に「丸太」としての運命に終止符を打つときがきた。
一九四二年仲秋節の近いころ、909号を赤痢研究を担当する秋貞班が受領した。秋貞班長は元満州医科大学教授で北野政次の部下であった。赤痢研究の専門班は江島班であったが、 一(中略)

こうした実験前段階のある日、909号が顔見知りの秋貞班員に声をかけた。
「大人(ターレン:目上の人に対する敬称)、いろいろおせわになりましたので、これを奥さんにあげてください」
差し出された909号の手にはいつどのようにしてつくり上げたのか一足の女物支那靴があった。
布地を張り合わせただけの簡素な女靴であったが、足の甲に当たる部分に唐草模様の彩色が施されてあった。
「房内の丸太は、こうした細工物が得意で飯を残して糊をつくり、布地は平常繕い物を命じられている女丸太が端布を秘密の物品移動ルートを通して各房に″配給″していたようだ。
私は909号の手からどぎまぎしながら女靴を受け取り、籠の中に隠して特別班に見つからないように宿舎へ持ち返った」
元秋貞班員は回想した。909号は日常、班員にこんなことを訴えていた。
「私はスパイと判定されてここへ連れて来られました。しかし私は無罪です。私には十歳の娘がいます。突然、私が姿を消したのでさぞ心配しているでしょう。早く家に帰りたい。実は毎年仲秋節には娘と一緒に過ごすことにしているのです」
909号の言葉が真か嘘かわからなかったが、 一度七三一に収監されたが最後、生きてそこから出て行けないことだけは確かであった。
909号は自分の運命を悟ってそんなことを言っていたのか、いまとなっては当人の胸に探るすべもない。
赤痢の予坊接種一週間後、七三一で培養した強力な赤痢生菌が投与される。二―三日潜伏期間を経て、激烈な腹痛、下痢、発熱、転帰(病気が進行した結果の死亡。七三一では「丸太」の死をこのように呼んだ。″材木″が死んで人間の死体に還元したということか)が待っている。

″その日″がきた。秋貞班員は909号の房内へ赴くと、まず黄色の液体が入った20cc入りのコップを渡した。
コップの中の黄色液体は豚や牛の胆汁である。豚や牛の胆汁をなぜ飲ますのか。
秋貞班ではあらゆる種類の赤痢菌株を累代培養していた。それらの菌株は、阪大株、満大株、SK株、異型菌株などに分類されていた。
各菌株は培養条件や放置日数に応じて毒力が増悪あるいは減衰する。
秋貞班は赤痢菌の特性をつぶさに研究し、毒力を長期にわたって維持させる方法を開発していた。
強毒力の生菌をそのまま「丸太」にあたえても吸収され難く発病効率が低下し実験の主役たる主変量(丸太)と要因(赤痢菌)との関係を見るために支障をきたす。
それを防ぐために実験に先立ち、胃腸の消化吸収力を促す豚や牛の胆汁をあたえたのである。
赤痢菌の吸収を促進させるための、「悪魔の食前酒」というべきか。
″食前酒″を飲ませた後、秋貞班員は特別班員二名を従えて909号と約十五分間雑談を交わした。
死出の旅路に立つ人と別れの言葉を交わしたのではない。
胆汁を飲ませた後目を放すと、必ず丸太はのどに指を入れて飲んだものを吐き出してしまう。
丸太の間には実験を失敗に終らせ生き残るための知恵が多数の経験によって蓄積され、承継されていた。
胆汁を吐かれると、実験データが狂ってしまう。
そこで、胆汁を無理に吸収させるために、時間を計りながら雑談をしているのだ。
胆汁は苦くて飲み難く、 マルタは顔をしかめて飲んだ」と元秋貞班員は証言する。
たとえ胆汁が甘くおいしい飲み物であったとしても、「丸太」にとって顔をしかめずには飲めなかったであろう。
秋貞班員はそのときどんな話題を儒ったのか。
S・T氏の記憶には残っていないようである。
十五分経過して、ガラス製の小さな容器が渡された。中にはブイヨン(細菌培養に用いる栄養液)で薄めた赤痢生菌が入っていた。
元隊員によると「生菌は精液と似通ったにおいがした」そうである。
909号は生菌入り容器をじっと見つめて「死ぬのか」と一言つぶやいた。どんなに死を恐れた「丸太」でも、生菌入容器を出されると、死を覚悟して潔く中味を飲み干したそうである。
翌日から909号を激烈な腹痛と下痢が襲った。″食前酒″の効果は覿面で生菌経口投与から二十四時間以内に被実験「丸太」は発病した。
909号の便は、軟便から水様、粘血便となった。丸一日おいて投与した新型ワクチンは効果を現わさず909号は激しい下痢のため水分が欠乏し、膿血便を出すようになった。房内に用意したアルマイト製シヤーレに膿血便がたまり悪臭を放った。
秋貞班員が血便で満杯のシャーレを網籠に入れて研究室へ運んだ。
発病後三日にして909号は衰弱しきって″転帰″した。
「死体は硬直の始まらないうちに石川班へ送られました。腹を割いたとき、909号の死体から湯気が立ちました」

「909号からもらった女靴は、宿舎に持ち返ってから、だれにも見られないように焼き捨てました。
あとからおもえば靴の中になにか通信文が隠してあったかもしれない。うっかり満人にやったりしたら七三一の秘密が部外に洩れ、大変な事態を招いたかもしれません。
しかし、あの聡明な、人間の練れた909号は形見のつもりで、万感のおもいをこめて私に女靴を託したのだろうと思うと、いまでも胸の奥が疼きます」
「しかし909号が赤痢菌で死んだのは、こんなことを言うと残酷かもしれないが、まだましだったとおもいます。
なまじ実験に耐えて生き残ったりすると、凍傷実験や毒ガス実験に回されて二重二重に苦しまなければならない」
「丸太」にとって生き残るということは実験の回数と期間が多く長くなるだけで、,最後には必ず″転帰″が待っているのである。
証言した元秋貞班員は戦後三十七年間一度も909号の最期を忘れることができなかったと言って目をうるませた。
「仲秋の名月が近づくと、毎年909号の夢を見てうなされるのです。夢の中で909号に許しを乞いながら布団が汗でびっしょり濡れているのです」
当時十歳だつたという909号の娘は、ある日突然姿を消してしまった父親の帰りをさぞ待ちわびていたことだろう。
仲秋節を必ず父親と一緒に過ごしたという909号の娘は父がいなくなってから、仲秋節の月をどんな気持で眺めたことか。
あるいは909号が元秋貞班員に託した女靴は娘に届けよといぅ祈りをこめた形見であったかもしれない。

新版「悪魔の飽食」森村 誠一著より

「909号」という囚人番号で呼ばれ、2年以上を極限の「地獄」で生きた、中国人のひとりの警察官。

最後、顔見知りの日本兵に託した女物の靴をつくる時、間違いなく奥さんや当時10歳であった娘のことを思ってつくったのでしょう。

この部分を読むと、こんな極限の狂気の中においても、ひとしずくの「人としての関り」があったことが、せめてもの救いです。

尚、文中にも出てきますが、私と同じ姓である「江島」という医師の男の名前がでてきます。
同部隊には九州大学からも教授ら数人が招集されているので、おそらく九大出身車でしょう。 
「江島」は福岡県久留米の発祥の名字だからです。

もちろん私とは、何の関係もない人物なのですが、比較的近い系列の中に、この名があると知った時は、やはりショックでした。








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