プライバシーを追求するあまり、現代建築は日本文化の粋(すい)とも言える、共同スペースのほとんどを捨ててしまい、またセキュリティという名目で、さらに閉塞感の漂う居住空間をつくってしまったようです。
わずかに存在する共用スペースである廊下、通路ですらも、ちょっと私物を置くと、とたんに管理人から注意をされる・・などという話も、今では常識ともなっているようです。
しかし江戸時代から脈々と受け継がれてきた我が国の伝統文化は、共同スペースがむしろ「生活の中心」として人々の暮らしの間にあることで人情の通った生活をつくり上げてきた・・といっても言い過ぎではなかろうと思います。
この伝統文化は、昭和の、ついこの間まで街づくり、建築の中にも生かされてきていたのは間違いがなく、特に長屋づくりの炭鉱住宅や炭鉱アパート街では、その造りが坑員家族達のコミュニティの質を高める重要な要因となっていました。
これは端島にあった最も古いアパート、大正5年完成の30号棟の平面図です。
「ロの字」状になっていて、中央の吹き抜けを囲むように部屋が並んでいます。その吹き抜けの周囲が共同空間であり、ここで住人達は顔を洗ったり、洗濯などの作業をしながら、談笑したりして、付き合いを深めていたわけです。
図の左下部分が共同トイレです。
部屋にもかまどがついていたわけですが、おそらく煙の多く出る焼き魚などは、七輪を用いてこの共同空間でやいたことでしょう。
そして階段をずうと上がって行くと、屋上に出られ、ここで洗濯物を干したり、時化の日に皆で波見物などをしたわけです。
私がかつて住んでいたアパートも共同トイレこそありませんでしたが、屋上は貴重なコミュニケーションの場であり、階段などの通路は皆でわいわい言いながら掃除をしていました。
また、下図のようにアパート間にある広場で、住人だけの運動会なども行われていました。
「写真万葉録・筑豊3 大いなる火(下)」(葦書房)の後書きに、炭鉱長屋、路地について書いた文章があります。秀逸な文章であり、「共同スペース」について、よく説明をなしていると思われるので、一部紹介したいと思います。