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太陽のように温かな母親の人柄が、チャップリンの才能を開花させた ~ 「チャップリン自伝ー若き日々」を読む ④

母ハンナは激しい片頭痛に襲わるようになり、針仕事もできなくなっていたが、ある日、兄のシドニィが新聞売りの途中で、財布を拾ったことで、子ども達二人に生涯消えないような最高の一日をプレゼントしている。
母は敬虔なキリスト教の信者であったが、いわゆる融通性のある人物でもあり、「子どもには、その時にしか価値(意味)の無いお金の使い方」があるということを、よく知っていた。


頭痛がおさまってから、母は財布の中身をベッドの上にあけた。
ところが空っぽのはずの財布がまだずっしりと重い。内ポケットがあったのだ― しかも、そこにはソヴリン金貨(1ポンド金貨)が七枚もはいっている。
わたしたちは文字通り狂喜した。
名刺もなんにもはいっていない。信仰からする良心のとがめも、この場合母にはあまりはたらかなかったようだった。
不通な落し主のことを思うと、さすがにちょっと気はすすまなかったが、それもまもなく、きっとこれは神さまが天国から送ってくださったお恵みにちがいないという母の確信の前に、たちまち消えてしまったのである。
母の偏頭痛がはたして肉体的なものだったか、あるいはただ心理的なものにすぎなかったか、そこまではわたしにもわからない。が、とにかく一週間もするとケロリとなおってしまった。
よくなるのを待って、わたしたちはサウスエンド=オン=シー(テムズ川の河口にある保養地)へ日帰り旅行に出かけた。
母はわたしたち二人に真新しい服を買ってくれた。
生れてはじめて見る海は、わたしをすっかりうっとりとさせた。
輝く陽ざしを浴びながら丘の上の道からおりてゆくと、海はまるで小刻みに震えながら、いまにも襲いかからんばかりに身構えている怪物のように、 一瞬ぴたりととまって見えた。
わたしたち三人は、裸足になって水とたわむれた。生ぬるい海水が足の甲やかかとを包み、足の裏でやわらかく崩れる砂の感じは、生れてはじめて知る喜びだつた。
なんというすばらしい一日だったろう。サフランの茂る砂浜、そこに散らばるピンクやブルーの手桶や木製の鋤、色とりどりのテントやパラソル、笑顔のような小波をわけて軽やかにはしる船、のんびりと砂浜に横倒しになっている船、海草とタールの匂い―それらの思い出はいまだにわたしの心に夢のようにただよっている。
わたしは一九五七年にふたたびこの地を訪れた。だが、生れてはじめて海を見たあのなつかしい丘の径は、跡形もなく失われていた。
わずかに町はずれで、昔風の商店の並ぶなつかしい漁村のおもかげを見出しただけだった。だが、それはかすかなささ
やっきになって遠い音を語りかけてきた――きっと、あの海草とタールの匂いのせいだったにちがいない。
思わぬわが家のゆとりも、まさに砂時計と同様、まもなく落ちつくしてしまい、ふたたび辛い日々が続くようになった。

平成25年刊 チャップリン自伝 ー 若き日々(新潮文庫)P38ー40



映画「THE KID 1921年より」

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