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太陽のように温かな母親の人柄が、チャップリンの才能を開花させた ~ 「チャップリン自伝ー若き日々」を読む ⑤

この書の中で、もっとも好きな一節である。
実に美しい母子の姿が浮かんでくる。
この日の出来事は、チャップリンも兄シドニィも母ハンナも、生涯忘れなかったはずだ。

貧しいことが、けっして哀しいだけではないこと、子どもにとって親の存在がどういう意味を持つのかということを、この一節は教えてくれる。

はじめの数日間、わたしは打ちひしがれたみじめな気分だった。貧民院のときは、母が近くにいると思えば慰められたが、ハンウェルでは母とは十何マイルもへだたっている。
シドニィとわたしは入学審査寮からいよいよ本校へ移され、またここで別々にされた。シドニイは年上の子供たちと一緒で、わたしはもっと下の幼児組に入れられたのである。
まるで別の寮舎で寝起きするわけなので、顔を合わすことはめったになかった。まだ六歳になったばかりで、ひとりぼっちにされたのだから、とにかくみじめだった。
とりわけ夏の夜など、就寝前のお祈りのために、寝間着姿で二十人の仲間たちと寮の真ん中にひざまずき、みんな調子はずれのしゃがれ声で、

曰くれて四方はくらく
わが霊はいとさびし
よるべなき身のたよる
主よ、ともにやどりませ

 を歌うのである。歌いながら、四角な窓越しに、深まってゆく夕闇や、ゆるやかに起伏する丘脈を眺めていると、これはまたまるで関係のないよそごとのようにも思えてくるのだった。
そんなときのわたしは、ほんとに心の底からしょげかえっていた。
讃美歌の意味などわからなくとも、その節まわしと、そして夕闇とが、わたしの悲しみをつのらせるのだった。
しかし、二か月もたたないうちに、うれしい知らせがもたらされた。
母がわたしたちを引きとる手続きをしたというので、ふたたびロンドンのランベス貧民院へ送り返されたのである。
母は院の制服ではなく、自分の服を着て門のところで待っていた。
実はこの日一日だけでも子供たちと一緒にいたいばかりに、退校手続きをとつたのだった。
もちろん数時間を一緒に過したあとは、また学校へ送り返すつもりだったのだ。

貧民院の住人である母にとって、子供たちと一緒に過そうと思うと、こうした非常手段にでも訴えるよりほかなかったのである。
貧民院へはいる前に、わたしたちの私服はみんな脱がされて蒸気消毒を受けていた。そして、やがてプレスもされずに戻されてきた。
貧民院の門を出るわたしたち三人の姿は、みんなヨレヨレの皺くちゃだらけだった。
早朝なのでどこにも行くところがない。仕方なしに一マイルほどはなれたケニントン・パークまで歩いて行った。
シドニィが九ペンスほどの金を固くハンカチに包んで持っていたので、さくらんぼを半ポンド買って、公園のベンチでそれを食べながら午前中を過した。
シドニィが新聞紙を丸めて紐でしばり、しばらくの間三人でキャッチ・ボールをして遊んだりした。
おひる にはコーヒー・ショップにはいって、ニペンスのケーキを一個と一ペニィの燻製ニシンと、それに半ペニィのお茶を二杯と、こうして全財産を使い、みんなで分け合って食べた。
あとはまた公園へもどり、母がベンチで編物をしているそばで、シドニィとわたしはふたたびいろんなことをして遊んだ。
午後になって、わたしたちは貧民院へもどつて行った。
母は、「ちようどお茶の時間に間に合った」と冗談をいった。
貧民院のお偉方はかんかんになって怒った。
もう一度わたしたちの服を蒸気消毒する手間がかかるうえに、シドニイとわたしをハンウェルへ送り返さねばならなかったからだ。
しかし、おかげでわたしたちは、母と会うことができた。

平成25年刊 チャップリン自伝 ー 若き日々(新潮文庫)P45ー46

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