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映画「空の大怪獣ラドン」の中に見る、日鉄鹿町炭鉱(長崎県北松浦郡鹿町町)

この記事の目的は、①かつて鹿町鉱で生活されていた方やその親族の方に当時の様子を振り返って頂きたい②「ヤマは、ひと家族」と言われた温かなコミュニティーが存在したことを地元の方や子ども達に知ってもらい多少でも振興の一助となって欲しい、の2点に尽きます。
そういう観点で読んで頂ければ有難い限りです。

「空の大怪獣ラドン」は昭和31年12月26日に公開された東宝映画です。したがって、これから紹介する旧北松郡鹿町町・日鉄鹿町炭鉱(加勢地区)の風景は、同年の春から夏ごろにかけて撮影されたのではないかと推察されます。

【 平成26年現在でも目視確認できるもの 】

①ボタ山

だいぶ傾斜が緩やかになっていますが、2つの峰の形がまだ確認できます。(現在ここは車道が走っています)

②坑口(東坑・ラドンでロケが行われた場所)

草木に覆われてしまっていますが、しっかりとした造りは健在であるように見えます。(東坑は昭和3年に開坑されています)

当時この坑口から外を眺めると、このように見えたはずです。

【 現在はもう見られなくなってしまったもの 】

①鉱業所風景



山の稜線から現在の同地とおぼしき場所です。かろうじて洗炭・分離施設であるシックナーを確認することはできますが。






もはや何に使用された建物かも判らなくなってしまっています。


②施設内外

入坑口


人車

坑道内部

坑内を走る炭車

北松病院

病院内


日鉄北松鉱業本社

③加勢炭鉱街遠くに加勢会館とバスセンターが見えます。

炭鉱街夜景 屋根に天窓があるめずらしい造りの建物が見えます。

路地裏

現在はかろうじて西肥バス・バスセンターの建物が残されています。2階は職員さんの寮だった時代もあったようです。

あとは建物の前に植えられたであろうカイズカなどの植物が残されているのみです。

④人びと(エキストラとして参加されていた炭鉱マンの皆さん)

この渋味は本物の炭鉱マンでなければ出せませんね。

昭和38年の閉山後、日本中に散らばっていかれた皆さんは、今もお元気でおられるでしょうか。
そしてここ鹿町での暮らしを時々は思い出されることがあるのでしょうか・・・。

ヤマの男たちとその家族が去ってから平成26年の現在で約半世紀。坑口の上に埋め込まれた「つるはし」の社章は錆びつきながらもこの街の記憶をここに記しています。

「空の大怪獣ラドン」は現在、DVDとして販売されております。

当時の大加勢について、ご出身の方より2015年正月にコメントを頂きました。当時を知る記憶・情報でもありますので、失礼ながら記事に加えさせていただきます。ご了承の程、宜しくお願い致します。

『 小さい頃に遊んだ思い出があるところが多く、懐かしく見ています。この大加勢炭鉱の近くに千鳥越球場(旧日鉄の野球クラブの球場だったそうです)があり、昨年10月の国体で改修して2回目の使用でした。昭和44年の開会式には、私も鼓笛隊の一員として出場しました。長崎国体の歌など演奏した思い出があります。この大加勢は、当時はバスの終着点、出発点でして、西肥バスの運転手さん、車掌さん達の宿舎になっていました。現在の勤務校には、この社宅で過ごした人とも一緒に勤務しており、ときどき当時の話を懐かしくしています。今度、この西肥バスの車庫が取り壊されることになったようです。(鹿町在住の友人の話です)ですから、私も取り壊される前に、一度たずねてみようと思っています.現在、小佐々中に異動しましたので、鹿町にも行きやすくなりました。しかし、当時の風景はほとんど無くなってきました。余談ですが、あの前川清さんも、大加勢で生まれたと聞いています。その後、佐世保の相浦に転居、そして花園中学校在住中は、同じ松山町に住んでいた平浩二さんと大の仲良しだったそうですよ。 』


*(説明のためにやむなく資料を引用させて頂いております。目的は、かつてこの地で暮らされていたご家族の記憶を辿る、一助になればという思いによるものです。ご了承のほどお願い致します。今後は現代の世相を鑑みて、ブログとしてのコンプライアンスをより重視してのぞみたいと考えております。2016年7月)

(元記事投稿・2014年10月)


※現在、2022年12月。記事を書いてから8年もの月日が流れている。
再訪してみたいが、「何もかも無くなっているのではないか?」という恐れから再訪できずにいる。


※「チップ」は有難く拝受させて頂きます。もし、この記事が多少でも役に立った、或いは「よかったので、多少でもお心づけを」と思われましたら、どうぞよろしくお願いいたします。贈って頂いたお金は1円たりとも無駄にせず大切に使わせて頂きます。