文字が書きたかっただけ

冬が終わって,夏に移り変わっていく大きな季節の変わり目(春と呼ぶことが多い)の時期も終盤を迎えようとしている。
終盤か,もう終わるんだね,よかったね! などということは全くなく,ここから梅雨が現れ,「季節の変わり目」くんが消え去っても,私の苦手な夏が襲ってくる。
なんとも生きづらい。
 
久しぶりに文章を書きたくなった。
本,特に誰かのエッセイ,生活や人生の匂いを感じる文章を読んだとき,私も!と書きたくなってしまう。大した文章は書けないのにね。
ものの見方は人の生き方だ。それが文字に写し取って見える形で保存されたものなんて,とても素敵だ。これほど素敵なものもそうそうないでしょう。過言か。
 
思考を文字という形にして,保存する。
これのせいで人生がおかしくなっちゃうぐらいにはこの行為が好きで,上手にできないとわかっているくせに(できなくて悲しくなるくせに),性懲りもなくこうして文章らしきものを書いている。
 
そういえば,過去の私は,「文章を書くこと」についてひどく執着していた,と思う。
文章を書かなくなったら,わたしたりえないとまで考えていた。一種のアイデンティティだったみたいだ。
最近は,文章も書かないし,自分がなんなのかよくわからないからふわふわとしている。
 
 
せっかく書き始めたのだから,何かを語りたいと思ったのだけれど,語れるものが何もないぐにゃぐにゃすかすかぽよぽよ人間なので不可能で困っている。
 
「文字を書く」ことについてだらだら書こうか。
 
 
「文字を書く」のには,でっかく言うと手書きとタイプの二種類がある。
わたしは手書きが好き。最近はパソコンばかり使っているし,これもパソコンで書いているわけだけど。
 
手書きの良さというと,「気持ちが伝わる」とかそういう方向が多い気がする。(手紙とかね)
私は情報の多さと雑多さが気に入っている。
 
日記を断続的につけているとおもしろい。
ペンの種類,色,太さといった道具の選び方,筆記線の強弱,粗さ,字のきれいさといった無意識の部分の気分がたくさん現れているように感じる。
内容よりも線が多く物語っちゃってることもあるぐらいだ。
 
しかも,ワードで書く時みたいに気に入らんから消して書き直すことをしない。一発書きで,気に入らないところは線で消したり,かっこで言い換えを書いておいたり。
後から読んだときに,ここの表現で揺れたんだ,とか,この言い回しが気に食わなかったのはなんでだっけな,などと思いを巡らせることができる。
(ワードでも残しとくとか,手書きでも消すとかいうこともあるでしょうけど,私の場合ということで堪忍)
 
前述のとおり,私は「思考を文字という形にして保存する」のがとっても好きだから,一様に決められたサイズの文字がずらずら並ぶよりも,情報がごちゃごちゃおもしろいことになりやすい手書きは好きなのだ。
 
私の手書きは,見たらわかる通り,本当にごちゃごちゃして実用性のかけらもないので,
じぶんで記録を残すなら(そして実用性を放棄するなら)手書き,実用性を考えるならパソコンなのかな。
 
それはそれとして,「活字」が好きである。
印刷されて整列した文字たちを愛してやまない。
文字が印刷された紙を束にして,製本したものが,大量の棚にぎゅうぎゅうと詰まっている図書館,そんなの楽園に決まっている。
一人が書いた文章が,同じように印刷されて,たくさんの人に読まれる。すごいことだ。
しかも,ずっと残る。
 
フォントも好きだ。同じ「あ」でもさまざま工夫が施された文字たち。
特に明朝体が好き。おすましさんでかわいいね,くらいの明朝体。優美なものも勿論好むのだが,自分の文章とつり合いが取れていない気がしてしまうので。
最近,絶対フォント感が欲しくていろいろとみてみようという気になっている。
 
そして,書いていて思ったのだけど,紙が好きなのかもしれない。
これは長くなりそうなので,また今度。
話がよく分からない方向に取っ散らかるのはいつものことだ。なおらないらしい。(なおしたい)
 
皆さんも手書きをしましょう。
読んでいただきありがとうございました。 
 
(ドイツ語縛りで日本語をどかどか投下したくなってしまった人間の逃げ道の産物でした。)
 

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