見出し画像

宇部詩人◉永冨衛さんシリーズ➀

中原中也の「思ひ出」-煉瓦工場への道のり

①きっかけは立ち話
 大学時代のボクは詩人気取りで、上衣の右ポケットに中原中也(1907~37年)、左ポケットに1958年にノーベル文学賞候補者となった西脇順三郎(1894~1982年)の詩集(文庫本)をそれぞれ忍び込ませ、エセ文学青年ぶって街やキャンパスを闊歩(かっぽ)していた。文芸サークルの誘いにも断っていた。サークルを上から目線で見ていたわけではない。

 メンバーはいずれも文学や法学のつわもの揃い。文学に無縁の農学専攻のこの身、しかも我流で通している文章作法に不安がない訳ではなかったからだ。入部する以前、すでに気後れしていたのが正直なところだ。

 中也詩集はかっこうつけて持ち歩いていただけで、とりわけて関心があったわけではない。ただ山口の同郷、国語の教科書に中也の詩が登用されていた程度の興味しかなかった。あれから四十数年後、中也にまさか取りつかれようとは。

18歳ころの中原中也(写真提供:中原中也記念館)



 事の始まりは2021年9月下旬。当時務めていた宇部日報(23年2月退職)の同僚から届いた、1通の社内メールの問い合わせに心が動かされた。山口市の中原中也記念館の知り合いの学芸員から「中也の詩『思ひ出』に出てくるのは桃色れんが工場ではないかとささやかれている。風景は宇部の港をモデルにしたのではないか」といった連絡を受けたという。

 ボクが宇部日報の文芸欄担当なので、情報を持っているかどうか、なのだ。青天の霹靂(へきれき)である。なんですって! 聞き捨てならない! まずは中原中也記念館に問い合わせてから真相を解明していくのが先決だ。

 池田誠さん(学芸担当課長補佐)相手に、「思ひ出」を「宇部の風景をモデルにしたのでは」とささやいた中也の詩に詳しい大阪大名誉教授・哲学研究者の上野修さん(山口市)のお二人から、会話を再現してもらうことにした。

 同年12月上旬、国宝瑠璃光寺五重塔(香山公園)そばの住宅地の一角、上野さん宅で池田さんと待ち合わせた。風合いのある古い洋風をほうふつさせる佇まい。厳しい冷え込みの中、薪(まき)ストーブで迎えていただいた。

 山口現代芸術研究所(YICA=イッカ)主催で2020年秋、「中原中也、永遠の風景」をテーマに実施された「アート・ウォーキング」の事前打ち合わせでの一幕だった。

 上野さんは中也の好きな詩の一つとして「思ひ出」を挙げ、「山口の風景のように思えてならない。煉瓦工場はどこなんだろう」と投げかけた。打ち合わせ終了後、上野さんはインターネットに掲載されていた写真付きの宇部市のれんが工場跡を見つけ、池田さんに報告した。所在地は西岐波村松の海辺。偶然にも、ボクが日課としているウオーキングコースだった。

 上野さんの〝発見〟に強い関心を持ち、その、れんが工場跡を探し当てた池田さん。「今も残っているれんが工場跡があるとは驚きだった。まさに『思ひ出』の詩と重なる風景だった」と実感した。中也が岩場に腰を掛けて、たばこを吹かしてぼんやり沖を眺めている姿を思い浮かべたという。

 最初に中原中也記念館から届いた「桃色れんがでは?」の発想。その存在はもちろん認識していたけれど、炭鉱の町だからこそ、生産できたとはつゆ知らなかった。いわゆる石炭を燃やして残る灰(石炭がら)と石灰を混ぜて乾かす製法。石炭の副次産品の一つで今風に言えばリサイクル製品である。

 詩「思ひ出」は第1詩集「山羊の歌」に次いで、中也が亡くなり半年後に出版された第2詩集「在りし日の歌」に所収。4行を1連とする14連の56行。長詩である。国語の教科書に使用されている「一つのメルヘン」「サーカス」「汚れつちまつた悲しみに……」などに比べると、認知度は低いのが実情だ。


昭和11年の文学界8月号に掲載された「思ひ出」(中原中也記念館提供)



「思ひ出」には、「煉瓦工場」は13回、「沖」が6回、「岬」は4回登場する。キーワードは「煉瓦工場」だ。どこだろうか? 「岬」は宇部市の南部に位置する岬地区のことかもしれない。

 池田さんは「岬の端に建つ煉瓦工場が時代を経て変貌していった様子を眺める『僕』の思いを重ねて、ルフラン(繰り返し)や擬人法を用いてうたっている」と解説した。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?