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宇部詩人◉永冨衛さんシリーズ③

③急浮上する赤れんが
「思ひ出」を何度も読み返していると気になるフレーズに立ち止まるのだ。3連目の「煉瓦干されて赫々(あかあか)してゐた」の「赫々」の文字が引っかかる。光線の加減にいくら左右されるといっても「赤色」が「桃色」に見えるはずはない。

 ならば、古い赤れんが(以降「赤れんが」と表記)になる。桃色れんが路線で突き進んできただけに、気持ちが一気に頓挫(とんざ)してしまった。振り出しに戻り、取材をリセットしなければならない。中也の「煉瓦工場」のれんがを、「桃色れんがありき」で取材を進めてきた。他の選択肢を無しとしてきたのが誤りの根源だった。

 新聞に連載するわけだから、とんでもないことをしでかすところだったかもしれない。冷や汗と脂汗が同時に吹き出るような心境だった。桃色れんがでヒートした熱を数日間かけて冷ました。

 板垣さんに西岐波村松のれんが工場跡の壁面れんがが、赤れんがであるのを検証してもらった。宇部市の西岐波ふるさと運動実行委員会が1990年に発行した「ふるさと西岐波・地域編・村松」には、「村松、吉田、丸尾原一帯に良質な粘土があり、これを原料として大正後期にれんが工場(赤れんが)が設立された。沿岸には最盛期に4工場もできた。この近辺はもとより遠くは九州、四国、大阪方面まで販路を伸ばし出荷した」との説明がある。

 宇部市東岐波丸尾の吉村富雄さんが2000年に出版した「丸尾の歴史あれこれ」によると、「東岐波の南部から西岐波吉田、村松にかけての洪積台地には良質な粘土があったためか、明治時代になって、屋根瓦や赤煉瓦の需要の増加とともに、それを作る工場が海沿いにあちこちにできた」と紹介。明治期から昭和初期にかけて稼働した砂山(新浦)煉瓦工場跡、吉南煉瓦製造所にも触れて「赤煉瓦を生産した」と明記している。

 この赤れんがは主原料の粘土(赤土)に砂質土を少し混ぜ、成形を容易にするために海砂を振りかけて屋内乾燥(または天日干し)をした。同書には登り窯で焼成前のれんがの乾燥風景、煙を棚引かせる煙突も写真付きで掲載している。セメントの普及で1950年代半ばから60年代半ばにかけてすべて廃業したという。

 宇部市の前身である宇部村が1920年に発行した村勢要覧の村全図には、現在の岬3丁目に東見初炭鉱が載っている。50年以上前の高校時代まで宇部で過ごした澤田耕作さん(兵庫県尼崎市)は「子どもの頃、既にれんが工場は廃止。瓦などを焼くための窯があった」と懐かしんだ。その炭鉱そばで生まれ育った上野恭子さんは坑口の横にそのれんが工場があったと思い出す。石炭がらを活用して桃色れんがを生産したと考えるのが自然だろう。

 粘土を使用する西岐波と東岐波の赤れんがと、宇部特産の赤い石炭がらに石灰を混ぜる東見初の桃色れんがとは、全く異なる製法である。
 吉敷郡西岐波村は1943年、同東岐波村は54年、宇部市に編入合併した。その前に出版された「大正13(1924)年~昭和4(29)年版宇部市勢要覧」には、れんが工場の数は「2」と記載。言わずもがな、宇部市編入合併前の西岐波と東岐波のれんが工場はカウントされていないことになる。

 れんがの視点を宇部市東部地域に移そう。半世紀前に屋根をトタンからスレート製にやり替えた以外は、築造当時の姿のままの赤れんが造りのれんが工場跡(長さ15㍍、幅5㍍、高さ5㍍)が市内で唯一、西岐波村松の海辺に現存する。倉庫代わりの現役である。

 持ち主の米屋牧場は「明治後期に創業し、ここで取った粘土でれんがを作った。そばの入り江から積み出したと伝え聞いている」と話した。周防灘を望むそばの村松海岸には、岩盤を掘削して造られた幅5㍍、長さ30㍍程度の澪(みお)、潮が引くと人工の水路が浮かび上がってくる。
 宇部市が2011年に出版した「ふるさと宇部-宇部市90年の歩み」に、吉村富雄さんが地元東岐波丸尾地区の「窯業の栄枯」をテーマに執筆している。一部を引用する。

「明治初年、丸尾原永ヶ久保に山藤長太郎が黒瓦の窯を開き、続いて瓦谷(かわらや)長兵衛も同地に始業した。瓦谷は昭和十七年八月の台風による高潮で窯を流失し、廃業。山藤瓦工場も昭和三十年に廃業した。明治二十年代の中頃、河野勉吉が黒崎と丸尾の新浦に黒瓦製造場を開き、黒崎工場は、昭和二十年まで操業した。新浦の製造場は明治三十年頃から国分平一が受け継いだが、昭和十七年八月の台風で窯場を損壊・流失し、廃業した。明治三十年に笠井順八を社長として、寺尾惣治や桜田多治兵衛らが協力して丸尾原(鳥屋郷)に『株式会社丸尾原煉瓦製造所』を創立し、大正六年からは寺尾惣治が独立して運営を続け、昭和十一年に廃業した。明治四十一年、原谷宗太郎が丸尾に赤レンガを製造する『原谷煉瓦製作所』を設立。この工場は、『砂山の煉瓦場』または『新浦の煉瓦場』とも呼ばれ、昭和三十年頃まで操業した。大正7年には、丸尾地区の有志により、赤レンガをつくる『吉南煉瓦工場』を設立。昭和十九年からは、『有限会社原谷窯業』の呼称で同四十五年まで操業した」

 この中に登場する笠井順八(1835ー1919年)は小野田セメント(現太平洋セメント)の創業者。セメント事業のほかに赤れんが事業にも触手を伸ばしていたことがうかがえる。

岩盤を掘削して赤れんがを船に積み出しした人工水路「澪」。西岐波郷土史研究会の和田宏司さんが説明(宇部市西岐波の村松海岸)


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