だけだもの
君だけに。あなただけに。ぼくだけの。ふたりだけの。
愛の歌には定番のワードだ。いくらでもヒットソングが思い浮かぶ。つまり、みんな「だけ」が大好きなのだ。ヘッドホン越しに聴けば、うっかり顔が火照ったりもする。
だが、それをステージで熱唱されるとどうだろう。会場内の観客全てを「あなただけ」とすれば、だいぶ価値が薄れる。その中に「だけ」が一人だけ居るのだとすれば、私たちは「だけ」以外か。そして、歌っている人と歌詞を書いた人が違うのなら、「だけ」も違うはずだ。10年前の曲ならば、書いた時の「だけ」と、今の「だけ」も、違うのかもしれない。
それでも人は、好きなように解釈し、自分を当て嵌め、勝手に心を震わせる。音楽は、それでいいのだ。聴く人の自由である。
だが、現実の「だけ」は、どうも苦手だ。
あなただけに言う。あなただけにあげる。「だけ」を示すためだけに、それ以外を切り捨てる人を、信じることは難しい。「だけ」をくれるからあなたのことを好きになるわけではないのだ。見くびらないで欲しい。
だからなのか、「だけ」を異様にほしがる人も、どうも苦手だった。不可解と言ったほうが近いかもしれない。
私が売り続けている「本」という商材には、定価があり、基本的には値引きもない。価値と値段に納得した人だけが、それを購入する。無理強いもしないし、欺しもしない。だが、本には著者がサインを入れるというややこしい習慣がある。サイン会であれば、自分の名前を書いてもらえることもある。それはまさに、この世に1冊しかない、自分だけの本だ。人によっては、価値が大きく変わるだろう。
ただ、サインや為書きは、あればラッキーという、あくまでもおまけなのである。ハート型のピノみたいなものだ。見つけても恋は実らないし(実証済)、入っていなかったとしても、味も値段も変わらない。当たり前過ぎるが念の為言っておくと、交換もできない。
万が一、買った後にサイン本が並んだからといって、消費者は何の損もしていない。
私は、損を主張する一部の人の論理が理解できず、時には謝罪しながら(何の罪?)、恐怖すら感じていた。なぜ欲しかった本を納得して手に入れたのに、その喜びも忘れて、こんなにも悲しむのか。これほど強い怒りを感じているのか。私は何か余計なことをしてしまったのだろうか。
そういう思いがあって、私は自分が書いた本には一切サインをしたくなかった。「今この場でサインをしたらあなたの本を買ってあげる」と売り場で言われたときには、アラジンに呼び出されたジーニーように顎が床まで落ちた。
私にあなただけのための本を作る義務はない。
先日LIVEで、私の愛するボーカリストが言った。
満員のライブハウスで、ひとしきりの歓声が止んだ後、「あなたのために歌います」と。そこには何の嘘もなかった。言葉通りの意味である。
なぜなら、そのハコに歌を聴く人がいなければ彼が歌う意味はない。紛れもなく、ここに立つ私のために歌っているのだ。ただ、「だけ」ではないだけだ。そのことに、一体どれほどの意味があるだろうか。
つまり、本もあなただけのために書かれたわけではないが、あなたが読むのなら、あなたのために書かれているのである。それは絶対に。
言わずもがなだが、私はたくさんのサイン会でやりとりされた、大切な想いを、たぶん誰よりも知っている。店頭に並んだサイン本を、嬉しそうにレジに持ってくる人の顔も、毎日のように見ている。なんていい仕事なんだ、と思う。
だが、気持ち悪さに、何度も逃げ出したくなったことも事実だ。
揺るぎないものを信じる力が湧いた今、それを取りこぼさないように、慌ててここにまとめた次第である。
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