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[本の雑誌創刊45周年記念出版] 『社史・本の雑誌』(6月中旬刊行)ちょっとずつ内容をお伝えしていきます。

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会社だったのかっ!!

「本の雑誌」創刊45周年を記念して、椎名誠『本の雑誌血風録』と目黒考二『本の雑誌風雲録』を「社史・本の雑誌」として合本に! また「付録の本の雑誌」として表紙一覧や和田誠・装丁劇場をカラーで収録し、45年目の特別寄稿や座談会も収録。「雑誌がぼくらの遊び場だった」すべてがここに。読み応えも面白さも満点の社史が箱入りで発売!

■四六判並製2分冊箱入り(分売不可)
■「社史・本の雑誌」672ページ、「付録の本の雑誌」304ページ
■定価6600円(税込)
ISBN978-486011-457-2

「本の雑誌」創刊のころ 社史その1 目黒考二『本の雑誌風雲録』


「本の雑誌」創刊のころ

 その日が1976年の何日だったのか、もう覚えていない。創刊号の奥付から推測すると4月20日前後だろう。春にしては肌寒い日だった。
 当時ぼくが在籍していた出版社に椎名誠から電話がかかってきたのは、たしか午後になってからだ。夕方待ち合わせる場所の確認だった。彼の会社に出入りしていた印刷ブローカーに「本の雑誌」創刊号の印刷を頼んでいたのだが、その日は刷り上がりの日だった。まだ事務所もなく、お互いの会社に置くわけにもいかず、池袋にあるぼくの実家にとりあえず置くことにして、山手通りに面したハタ・スポーツ・プラザの前で待ち合わせ、ぼくが案内するという段取りだった。
 自分たちの雑誌が出来上がってくるのは嬉しかったが、それほど興奮もしていなかったと思う。雑誌をつくるといっても会社をおこすつもりはなかったし、遊びの雑誌である。学生時代から同人誌や個人誌を何誌もつくっていたので、また新しい遊びが始まるという気持の弾みはあったが、まさかこの遊びがその後のお互いの生活を変えてしまうとは、そのとき思ってもいない。
 退社時間がくるまで、ぼくはいつものように仕事をしていた。待ち合わせのスポーツ・プラザに着いたときにはもうあたりはうす暗くなり、向かいの商店街には灯がともっていた。停車していたライトバンに小走りに近寄ったのは創刊号を早く見たいという気持ではなかった。ライトバンの横に佇む椎名らしい人影を見て「あ、待ったのかな」と思い、無意識に足が早まったのだろう。ぼくが近づいていくと椎名が微笑んだ。彼は微笑むと子供のような笑顔になる。「出来たよ」椎名はそう言って、手に持っていた創刊号を差し出してきた。「インクの匂いがする」彼は創刊号を開き、ページの間に顔を近づけた。促されて、ぼくも鼻を寄せた。
 この光景をいまでもはっきり覚えているのは、ぼくにはインクの匂いなどしなかったからである。椎名が喜んでいることのほうがぼくには嬉しかった。その創刊号には数万円ずつ出し合っている。遊びとはいっても、当時の給料の額を考えれば贅沢な遊びだった。その遊びをいちばん気の合った友人としていることが、ぼくを弾ませていた。雑誌そのものは付け足しだろう。いや正直に書いたほうがいい。ぼくは少し気が重かった。
 もともと「本の雑誌」は確固とした目的があって始めた雑誌ではなかった。創刊号をつくったときは責任の分担もまだ決まっていない。ただ椎名もぼくも同人誌はつくりたくなかった。書店に置いて、見知らぬ人に手にとってもらいたかった。となると、誰かが書店に配って歩かなければならない。当時、椎名はすでに流通業界誌の編集長であり、忙しい日々を送っていた。家庭もある。気分はともかく、現実に動ける状態ではなかった。で、創刊号を出す前から書店に配って歩くのはぼくの役目になっていたのである。ぼくは深く考えることもなく、いいよと返事をしていた。ところが実際に創刊号が出来上がってみると、面倒くさいな、という気持のほうが強い。
 どうやって書店に頼めばいいのか、まるで知らなかったのである。ぼくは本の営業のことなど何も知らなかった。いや出版流通も書店のことも何ひとつ知らなかった。客として毎日のように書店に行ってはいたが、ただの本好きであり、商売とは関係ない。おまけに極端な人見知り、街に出るより部屋の中で本を読んでいたほうがいいというような人間だった。そういう自分にはたしてセールスが出来るのかどうか。何年も計画していた雑誌がやっと出来上がったのは嬉しいが、そのことと自分が配って歩くことは別の話で、正直に言うと気が重いほうが大きかった。「本の雑誌」をつくろうと言い出したのは誰なのか、いつなのか、正確な記憶はない。新宿・三越駐車場の横にあった呑み屋「北斗星」でぼくと椎名と沢野ひとしがよく会っていたのは72〜73年ごろだから、そのころであることは間違いない。急な階段を昇ると、居酒屋ふうの店内にはいつも若い客がごったがえしていた。相席になるのが普通で、4人掛けのテーブルに2人で坐っていても、隣りにすぐ見知らぬ客が坐ってくる。若いサラリーマンの多い店だった。「本の雑誌」という誌名が決まったのもこの「北斗星」で飲んでいるときで、こんな雑誌をやりたいねと話していると、椎名が大きなカバンから突然ノートを取り出し、バサッとひろげると考える間もなくスラスラと書いた。「こんなタイトルでどうだ」
 見ると、ノートに大きく「本の雑誌」と書いてある。「いいね、これでいこうよ」ぼくはすぐ賛同したが、酒の席の話である。それ以上の計画は何もなく、それだけで終わってしまった。雑誌をつくるために会っているわけではなかった。いや、初めから書こう。
 ぼくが椎名誠と初めて会ったのは1970年、大阪万博の年である。当時ぼくは一度卒業した大学に聴講生として戻り、本を読むだけの怠惰な毎日を過ごしていた。
 そんなある日、たまり場である学校近くの喫茶店で何気なく新聞をひろげていると、求人広告が目にとまった。1級上の菊池仁が前年入社した会社の求人である。突然、就職することが新鮮であるように思え、すぐ菊池仁に電話をかけた。「お前、本気で働くか」彼が疑わしそうに言ったのには理由がある。新卒で入社した会社を3日間でやめ、聴講生として大学に舞い戻ったのが前年のことで、その退職の理由が「毎日会社に行くと本を読む時間がなくなるから」ということを菊池仁が知っていたからである。紹介するのはいいが、すぐそんな理由でやめられたら彼だって立場がなくなるだろう。「大丈夫ですよ、1年前とは違いますから」ぼくが答えると、菊池仁は、何でもいいから自分の書いたものを持って翌日社まで来いと言う。
 その会社は銀座にあった。待ち合わせの喫茶店に行くと、菊池仁が大きな男を伴って入ってきた。「うちの編集長だ」それが椎名誠だった。彼が24歳のときだったと思う。
 SFの話をした記憶がある。1時間ぐらい話したろうか。「来週、試験を受けて下さい」椎名が言った。その試験の内容は忘れてしまったが、尊敬する人物という欄に「河合継之助」と書いたことは覚えている。司馬遼太郎『峠』の主人公である。
 後年聞いたことだが、その会社の重役たちはぼくの採用に対し、不本意であったという。無理もない。いかにもひ弱な文学青年であり、バイタリティも働く意欲もなかった。椎名が強く推薦してくれたおかげで、ぼくの入社は決定したが、椎名の気持の中には菊池仁の推薦ということがおそらくあったのだろう。菊池仁は仕事の出来る部下だったのである。いちばん不安だったのは、その菊池仁だ。「お前、休まずに来いよ」彼は入社の決まったぼくに何度もそう念を押した。このあたりのことを菊池仁は後年になって次のように書いている。

 ある日突然、私に電話してきて「菊池さんの会社に入りたい」と言う。私は悪い冗談だと思っていた。彼はサラリーマンなどできるタイプではなかった。アルバイトで一年ほど勤めていた会社を正社員に格上げされた途端やめたことすらある。そんな彼であったから私は信じていなかった。ところがどうしても入りたいという。そこで思案にあまった私は当時私の上司であった椎名にゲタをあずけた。彼が入社して三日目、私は出社と同時に彼に呼ばれて喫茶店へ行った。そこに待っていたのは彼の「会社をやめたいんですが」という言葉であった。私は答はわかっていたが「なぜだ」と立場上、聞いてみた。「本が読めないんです」ああ、これは悪夢だ。

「どうしても入りたい」と言った覚えはないが、3日目に「やめる」と言い出したのは本当だ。働く気持はある。ところが出社して仕事を始めると、こんなことをしている間に本が何冊読めるだろうかと考えて落ちつかなくなってくる。そうなるともう仕事が手につかない。ああ、この時間がもったいない、と思ってしまうのである。
 椎名に同じ答えをすると呆れたように「キミはいくつだ」と言う。「22歳です」「22歳にもなってそんな子供じみたこと言うな」「でも本が読めないと落ちつかないから」
 若くして編集長になり何人もの部下を使っていた椎名も、こういう理由で退職したいと申し出た部下は初めてだったのだろう。扱いにやや困惑したようで、最後に「わかった。もう何も言わない。ただ1年間だけおれに体をあずけてくれ。1年たったらやめてもいい」と言ってきた。言われたぼくは「体をあずける」という発想が新鮮だったので、思わず「はい」と言ってしまった。
 ちなみに、その後ぼくは8社に入社し、すべて同じ理由で3日目にやめたが、とめてくれたのは椎名だけで、他の会社の人事担当者は異星人を見るような表情でぼくの退職理由を聞いたあと「きのう渡した今月の定期代を経理に返却するように」と言うだけだった。定期を買ってしまったと言うと「じゃあ、いいです」という会社が多かったので、ぼくはいつも池袋から都内各地への定期券を何枚も持っていた。国電の改札口でポケットからカードを出すように定期券を取り出すと「お前、失業しているのになんでそんなに持ってるの」と友人が不思議そうな表情を浮かべたものだ。
 椎名にとめられたので、「1年、1年」と呟きながら、ぼくはその会社に通い始めた。ところが間が悪いことはあるもので、勤め始めて2週間目に大学から通知がきた。教育実習の日取りが決まったというのである。
 実は一度卒業してから教職課程の聴講生として再入学し、1年間学科を勉強したあと、2年目は数週間の教育実習だけというので、それまでの間働いてみるかと勤め始めたのである。その教育実習は秋ごろと聞いていたので、まさかこれほど早く通知がくるとは思っていなかった。
 本気で教師になるつもりがあったのかどうか、実はよくわからない。新卒で入社した会社を3日でやめた日、大学に顔を出したら他のコースはすべて期限切れ、申し込みに間に合うのは教育課程の聴講生だけだったのである。とにかく本を読んでいたかった。2年間免罪符が出来るなら何でもよかったのだろう。親を説得して再入学したわけだが、だったら卒業しないで留年していればよかったのだ。入学金まで、また払ったのだから。やってみなければわからない、という軽率なところがぼくにはある。
 で、椎名に告げた。「教育実習?」
 1カ月の休みをくれと申し出たのである。たぶん、だめだろうと思った。何しろ入社して3週間目に1カ月の休暇をもらいたい、と言うのだ。それも編集の学校に行くとか、仕事に関係のある理由ならともかく、教育実習というのではあまりにバカにしすぎている。我ながら、無茶だな、と思った。おそらく、許可されないので仕方なく退職した、というかたちをとりたかったのではないか。1年間体をあずけると約束はしたけれど、学業への情熱やみがたく社をやめざるを得ない、決して本意ではないが仕方ない、というポーズをとりたかったのではないかと思う。というのは椎名と約束はしたものの、毎日が苦痛であり、大学からの通知を見た途端、これが口実になるとほっと安堵した記憶があるのだ。
 ところが重役会が開かれ、ぼくの休暇願いはなんと受理されてしまった。ずいぶんあとで、重役たちが反対したにもかかわらず、椎名が強く許可を求めて前例のない休暇が認められるにいたったと聞いた。
 そうなると仕方がない。1カ月後、ぼくはまたその会社に戻り、結局10月まで勤めた。その年の秋、「やめたいんですが」と言い出したときは、さすがに椎名も何も言わなかった。
 その会社に沢野ひとしは毎月1回現われた。最初はどういう立場の人かわからなかった。外部の人間にしては態度が馴れ馴れしいのである。長い手足をもて余すように入ってくると、重役に向かって「元気?」などと話しかける。空いている席に坐り、社員と友人のように話し、仕事をしているふうでもない。椎名の編集している雑誌にカットを描いているとは、なかなか気が付かなかった。無駄話をしている時間のほうが長く、おそらくその合間にさらさらと描いていたのだろう。重役の友人が遊びに来ているのだ、と長い間思っていた。
 沢野から突然電話がかかってきたのは、ぼくがその会社をやめて数カ月たってからだ。夜の12時を過ぎていた。「いま池袋にいるんだけど出てこない?」
 それまでぼくは沢野と数回しか言葉を交わしていない。こちらはたった8カ月しか在籍しなかった新入社員であり、彼はその会社に月に1度数時間顔を出すだけのカット描きである。一緒に飲みに行ったこともなく、社内で二言、三言話したことがある関係にすぎなかった。きっと何か大事な話でもあるんだろうと思って出かけていった。
 三業地の呑み屋に入り、数時間飲んだ。その間、沢野は意味のないことを喋り通しだ。「あのね、ぼくの姉さんがね、高校のとき家出したの。それで橋の上からこんなに大きい冷蔵庫をさ、川に投げるんだよ」
 最近は慣れてしまったが、何の脈絡もないこういう話を、そのときは真面目に聞いていた。何か意味があるのだろうと思った。それほど親しくない相手を夜中に呼び出したのだ。たとえ重要ではなくても、何かひとつぐらい用があるはずだ、と考えていた。「出ようか」突然沢野が言う。コーヒーでも飲もう、と言うのだ。終夜喫茶で向き合いながら、そうか酒の席では話せなかったことなのだと思った。ところが沢野はあくびを連発し、コーヒーをさっさと飲むと「出よう」と言う。
 大通りまで来たとき「めぐろクン」沢野が顔を近づけてきた。来たぞ、と身がまえると「じゃあな」沢野は風のように去っていった。
 理解不能な男である、というのが沢野の第一印象だった。
 椎名や沢野とひんぱんに飲むようになったのは、その翌年からだったと思う。それまでの半年間、ぼくはいくつもの会社に入り、定期券だけもらってやめる生活を繰り返していた。娯楽誌編集求む、という求人広告につられ、実話雑誌を発行している出版社に入社したのは、たしか翌年の2月だ。ぼくのような性格の人間には働きやすい職場で、本の雑誌を創刊するまで6年間勤めたが、その会社に入ってから定期的に椎名と沢野に会うようになった。
 椎名とぼくは会えばSFの話をしていた。オールディスの『地球の長い午後』、クレメントの『重力の使命』など語りたいSFはたくさんあり、情報交換にも餓えていた。まだSFがいまのように市民権を得る前で、SFファンジンがたくさんあることは知っていたが、周囲にSFを読んでいる人間は少なかった。SFの話をしているだけで愉しかった。
 どういうきっかけで、退社した新入社員が以前の編集長と定期的に会うようになったのか、実は覚えていない。気が付くと「今晩、沢野と会うんだけど来ないか」と連絡がきて会うようになっていた。
 沢野は3人で会うときは本の話などあまりしないほうなのだが、ぼくの会社にはよく電話をかけてきた。「あの本、買った?」と言うので「買ったよ」続いて感想を言おうとすると、「買ったかどうかを聞いただけなんだよ、じゃあねえ」電話を切ってしまうのである。こういう意味のない電話をよくかけてきた。ハガキも毎週のようにきた。大きく「バーロー」と書いただけだったり、印刷された年賀状をちょこちょこと変えた暑中見舞いを送ってよこしたりした。沢野が「月刊こぐま」を送ってきたのもそのころのことだ。パロディ・コピー誌である。身近な人間を登場させて意味のないセリフをつけただけの小雑誌だが、不思議なおかしさにあふれていた。
 ぼくが椎名に手紙を書いたのは、そうやって会い始めてすぐのことだったと思う。たまたま2週間ほど会えず、話すことがたまっていたぼくは我慢できずに、その月に読んだSF新刊の評を便箋数枚に書き、「SF通信」とタイトルをつけて一方的に送りつけた。すると椎名からすぐ電話がかかってきた。「あれ、参考になるから来月も送れよ」
 会って話せばすんでしまうことなのである。話せないから書いたのだ。しかし翌月も送った。今月読んで得する本損する本、などと勝手に書いた。「こういうの、ニューズ・レターって言うらしいな。ニュースとレターが一緒になってるってわけだろうな」椎名はそう言ったあと、おれにも送れという社の同僚がいることを告げてきた。同じ手紙を2通も書けない、と言うと「コピーすればいいじゃないか」と言う。なるほど、と3カ月目からぼくの「SF通信」はコピー誌になった。この個人誌は、便利そうだからおれにも送ってくれよ、という人が次々に出てきて半年目には10部にもなってしまったが、面倒くさいのでそれ以上はふやさなかった。始めてしまったものは仕方がないが、しばられたくなかった。その個人誌はぼくの興味が移るにつれて、タイトルも「SF通信」「読書ジャーナル」「めぐろジャーナル」と変わり、回数も月刊から隔月刊、季刊、不定期刊と変動し、結局そのうちに自然消滅してしまった。評を書くことより読むほうが楽しかったし、椎名たちと語り合うほうがもっと愉しかった。コピー誌を送るというのは結構手間がかかる作業なのである。書いて、コピーして、ホッチキスでとめて、という作業は何か目的を持っているのなら何でもないのかもしれないが、もともと行きがかりで始めたコピー誌であり、そんなことをしているぐらいなら未読の本を読んでいたほうがいい。
 ちょうどそのころだろう。こういう新刊情報を盛り込んだ雑誌が市販されたらたとえ1000円でも買うけどな、と椎名が言い出したのは。ぼくも情報の送り手であることには疲れていたので、受け手にまわれるならいいなと思った。ところが何度か飲んでいるうちに、その夢の雑誌はいつの間にか自分たちが出す雑誌の話に変わっていた。どうせなら情報だけじゃなく、本にまつわる話も載せたいなどと話し始めると、次々に企画がとび出してくる。それから2〜3年間、その幻の新雑誌はぼくたちの酒のツマミになった。「北斗星」で誌名を決めたのもこのころだろう。
 もし本多健治に話をしなければ、その「本の雑誌」は楽しいおはなしで終わっていたかもしれない。当時、「漫画アクション」の若き編集者で、やたらに好奇心の旺盛な青年だった。面白そうな話には何でも首を突っ込んでくる、バイタリティにあふれた男だった。彼の大学時代の先輩がぼくの会社に勤めていて、月に数度遊びに来ていたのである。彼の先輩は当時ぼくの上司だったので、本多健治が遊びに来るたびに「コーヒーでも飲みに行こうか」ということになる。誘われて一緒に喫茶店へ行き、そのまま夜の街に繰り出したことも何度かあった。
 新宿・区役所通りが職安通りにぶつかる手前に「花」という喫茶店がある。手づくりパンのおいしい店で、当時のたまり場だった。本多健治に「本の雑誌」の話をしたのは、いつものように遊びに来た彼とその店でコーヒーを飲んでいたときだと思う。こんな雑誌をつくりたいんだ、と話していたら、たちまち体を乗り出してきた。「おれにも一口乗らせろよ」
 ぼくも椎名も本多健治が加わってくるまでは、本気でそんな雑誌をつくろうとは思ってもいない。椎名は日々忙しく働いていたし、ぼくは怠惰であった。ところが本多健治にうまく尻を叩かれ、その年の秋が終わるころには創刊号の編集作業に入っていた。
 原稿は3人がそれぞれの職場の同僚や友人に頼んだ。まったくの身内雑誌である。そして1976年の4月末、「本の雑誌」創刊号はひっそりと刷り上がった。

本の雑誌創刊号

本の雑誌創刊号

社史その2 椎名誠『本の雑誌血風録』


 本多健治とは新宿の紀伊國屋書店の近くにあるマンモス喫茶店で会った。目黒と三人だが、いつものスタイルの居酒屋談義とはまったく雰囲気が違っていて、モロに〝ビジネス〟の打ちあわせふうなので、ぼくは少々アセった。
 本多は頭を短く軽快に刈ったスポーツマンタイプの男で、話しかたもテキパキしていた。それまで、酒のまにまにいろんな夢や抱負はほざいてはいたものの、基本的にぐうたらしていたぼくと目黒はこの本多テキパキ攻撃の前で少々浮足だっていた。
「信頼できる書き手をどのくらい集められるか、とにかくそのことを具体的に考えてみましょう」
 本多はコーヒーをテキパキのみながらテキパキ言った。もうその場しのぎで曖昧に「うー」とか「あー」とか言っていられる雰囲気ではなかった。
 観念したのか、目黒はノートを出し、考えられる書き手の名前を記録する構えになった。
 その頃は、「メグロ・ジャーナル」の読者は五十人近くなっていたので、その定期読者の中に書き手の候補がいた。思い浮かぶままに次々に名前をあげていった。
 書き手といっても、つまりはみんな一般人であり、共通していることはみんな読書好きということだけであった。
 読書好きは、好みのジャンルがわりあいはっきりしている。ジャンルごとに〝コレハ〟という人を考えていった。
 一時間もすると、大体のラインナップが並んだ。なるほど、本多のいうようにとにかくひとつひとつ具体的に考えていくと、まだ紙の上ではあったが、たしかに確実にそれらしき形がみえてくる。
 創刊号は十三ジャンルでいくことにした。目黒はミステリとSFを。本多は児童文学。ぼくは巻頭で特集のようなものを書く、ということになった。
 本多に言われたようにノートにこれらを雑誌の目次のように並べてみると、ますます〝具体的〟になってきた。
(もしかするとこれは本当に出せるかもしれない!)という思いがにわかにふくらんできた。なんだか気分が興奮してきた。しかしそれと同時にこれは「エライこっちゃ」となぜか急に関西弁ふうになって慌てた。
 エライこっちゃエライこっちゃと念仏のようにつぶやきつつ、自分の担当する人に電話をし、あるいは実際に会って、創刊誌のめざすものを説明し、原稿を依頼した。
 本多逆算男は、原稿は三週間で書いてもらうことにしよう、と言った。ぼくは一カ月ぐらいあってもいいのじゃないかな、と思ったが、それではまだだいぶ先、という感覚がある。原稿というのは締め切りが一カ月先でも三週間先でも、実際に書きだすのはせいぜい早くて締め切り一週間前ぐらいだから、三週間ぐらいが緊張感があっていい。また逆に二週間では気がせきすぎて断られてしまう可能性がある。〝キメ技日数は三週間!〟と指を三本立てて言った。
「うーむ、なるほど……」とぼくはまた静かに感心しつつ、原稿注文相手に会うと「三週間ですからね」と指を三本立ててするどくつたえた。
 その作戦が当たったらしく、一カ月以内に原稿が集まってきた。原稿の整理とレイアウトはぼくの担当である。
 判型は「めざせ文藝春秋」であったから、同じ大きさのA5判タテ組にした。しかしぼくの編集している
「ストアーズレポート」はそれよりひと回り大きいB5判である。A判サイズのレイアウト用紙がない。本多にそのことを告げると、彼は翌日どこからともなくA5判のレイアウト用紙をごそっと見つけてきてくれた。
 家で夜更けまでかけて一人でレイアウトしていった。各ジャンルごとに沢山の新刊がとりあげられている。その本の写真を入れるのではいかにも当たり前すぎるので、その表紙をトレースして、精密な線画の本のカットでいくことにした。それは沢野に頼んだ。
 トップの記事のイラストは自分で書いた。表紙はその創刊号でとりあげたすべての新刊本のタイトルを、文字だけ並べることにした。
 自分の会社に出入りの印刷会社に印刷を頼んだ。印刷料金は目黒とぼくとで折半して出すことにした。一人十万円であった。少々難しい問題が出てきた。創刊号を何部印刷するか、という問題である。
 ベースになっている「メグロ・ジャーナル」の読者は増えたといっても五十部足らずである。この五十部はハケるだろうが、しかし、
「五十部なんてヤレのうちですからねえ」
 と、印刷会社の男は困ったような顔で言った。ヤレというのは印刷するとき、インキののり具合や刷り具合の調子をみるための試し刷りで機械を動かすのだが、この時のテストで出る、実際には使えない刷りはじめのものをいう。
 つまり五十部の印刷などというと、ガーッと機械を動かして漸く少し調子が出てきたかな、というところでハイおしまい、ということになってしまう、というのである。
「名刺だってフツー百枚は刷りますもんね」
 うーむ、と思った。目黒に電話した。
「それもそうだなあ。じゃあ思い切って二百部といくか」
「二百部じゃ印刷屋はきっとうーむというなあ……」
「うーむ」
 目黒も唸っている。
「じゃあ三百といくか!」
「よおし」
 やや鼻息を荒くして印刷屋に電話した。
「さ、三百部やっちゃいます!」
「三百も五百もいっしょですよ!」
 印刷屋はまるでクールだった。しかもしぶとい。
「じゃ、じゃあ四百!」
 ぼくは独断でそう叫んだ。
「もうひと声!」
「え、まだダメなんですか!?」
「四百っていう数はハンパじゃないですか」
「ハンパ?」
「紙のとりかたがハンパなんですよ」
「じゃ、その上は」
「そりゃ五百でしょ」
「五百!」
「ええ。五百いきましょ、五十も五百も印刷料金としたらたいした違いないですから」
 もう何がなんだかわからなかった。五十人しか読者がいないのにその十倍もつくってしまってどうするんだ……という冷静な思いはたえず頭のうしろ側でチラチラしていたが、しかししようがない。
「えーい、もってけドロボー!」
 その夜おそく目黒にそのことを電話した。
「五百部できあがってくるぜ」
「えっ!」
 目黒が絶句した。
 それでも、創刊号が刷り上がってくると、多すぎる部数の不安を一時的に吹っとばして、とにかく嬉しかった。とりあえず持てるだけのものを鞄に入れて、目黒と待ちあわせした場所、池袋のハタボウリングセンター裏に急いだ。
 いつものようにあまり感情をオモテに出さない顔で、ズボンのポケットに手をつっこみ、目黒が立っていた。四月も終わりというのに風のつめたい夕刻だった。
「できたぜ」
 ぼくはいきなり十冊ほどを目黒の手にどさりと渡した。
「おー!」
 目黒はまた唸っていた。
「本の雑誌」創刊号は次のような内容だった。

 巻頭─テーマ集中ブックガイド・泣き叫ぶ地球―人類破滅物語のカタログ(椎名誠)
 純文学─〝自問文学〟へのひとつの試み(島津真之)
 中間小説─「よるべなき男の仕事・殺し」─藤原審爾にみる〝温かさと冷徹さ〟(吉田新一)
 中間小説─『北天の星』吉村昭はどうしてつまらないのか(山森俊彦)
 時代小説─絶妙なパロディで読ませる『叛旗兵』山田風太郎(菊池仁)
 まんが─文庫戦争がまんが文化を変えるかなあ……(武本おさむ)
 ミステリー─森村誠一なんてつまらない/〝社会派〟はこんなところまできてしまった(北上次郎)
 SF─きみは広瀬正を覚えているかい?(藤代智彦)
 随筆─啄木への鎮魂歌(石田和彦)
 児童文学─ガキどもよ、この本を読んでくれ(本多健治)
 現代詩─〝少女〟と〝女〟のはざまで(中川洋子)
 ノンフィクション─〝意図〟としてのドキュメント論法について考えさせられた『そして我が祖国・日本』本多勝一(新田啓造)
 政治─『市民社会と国家』浅田光輝にみる民主主義の本質(木本清志)
 山岳小説─円熟作品は結局つまらない『炉辺山話』岡茂雄の知性に評価(小安稔一)
 絵本─絵本と写真を結びつけた新しい科学メルヘン(沢野ひとし)
 奥付(最終ページ)の編集後記はぼくと目黒と本多の三人で書いている。季刊・一九七六年
 春号。四十八頁。百円。

 すぐに「メグロ・ジャーナル」の読者に送り五十部はハケた。それから執筆者や関係者がなんだかんだと持っていってトータルで約百部が消えた。しかし当然の計算ながら四百部が、まだ紙包みを解かれないまま残った。それらの〝創刊と同時にできた在庫〟は、目黒の自宅の一室に置かれた。
 その山を眺めながらぼくと目黒はボソボソ話をした。
「どうする、コレ……」
「うーん」
「どこかそこらの駅へ行って、売るか……」
「よくあるよなあ、私の詩集買って下さい、なんてやつ」
「恥ずかしいよな」
「じゃ、くばっちゃうか」
「タダで?」
「そりゃそうだよ」
「でもすぐさま捨てられたら腹たつしなあ」
「このやろ、捨てるな、なんて殴りつけたりして」
「しかしむなしい会話だなあ……」
「書店に置ければなあ」
「だけど本屋というのは仕入れとか返品とかいろいろ面倒な手続きがあるというからなあ」
「その前に契約なんていうのがあるんだろうなあ」
「うーむ」
 やっぱり唸ってばかりいた。

配本部隊が出来るまで 社史その3 目黒考二『本の雑誌風雲録』


 「本の雑誌」創刊号の印刷部数は500部である。そのうち100部は仲間うちに配ってしまったので書店売りは残りの400部だ。見も知らない人が400人もはたしてこの雑誌を買ってくれるのだろうか、と心細い気持で4月末の日曜日、ぼくは水道橋駅に降りた。カバンに創刊号を詰め、水道橋から神保町、駿河台下から御茶ノ水まで、大通りに面した神田の新刊書店を軒並み歩いてまわるつもりだった。新宿でも銀座でもなく、真っ先に神田を思い浮かべたのは、こういう雑誌の読者がもしいるなら神田だろうという漠然とした考えでしかない。
 行く先々で断わられた。
 それほど簡単に置いてもらえるとは思っていなかったが、まさか全滅するとは考えもしていなかった。丁寧な応対をしてくれる書店員もいたが、大半は鼻も引っかけてもらえなかった。
 あとから思えば無理もない。創刊号は白地に墨1色で新刊書の書名をズラズラと並べただけの、同人誌っぽいつくりだった。彼らが売れそうもないと判断したのもわかるような気がする。
 もうひとつ、書評は著名人の書いたものでなければ読まれないという風潮があった。これは実際にある書店員に言われた。「本の雑誌」は全ページを無名の本好きが執筆していた。そう言われれば仕方ないな、と引き下がるしかない。
 最後に、こういうこともある。取次を経由せず、直接書店と取引する直ちよく雑誌は敬遠されるのである。なぜなら、雑誌を持ち込み、おたくの店で売ってくれないかと言ってくるのは1人だけではないからだ。全部受け入れると、たちまち30誌や50誌ぐらい簡単にふくれ上がってしまう。すると、どうなるか。まず、伝票の山が出来る。
 それぞれの雑誌に納品書が付き、そして請求書がくる。返品書もきらなければならない。どこまで支払ったのか、そのチェックも必要だ。膨大な伝票の山である。ということは手間がかかる。
 取次から入ってくる商品だけに限れば、伝票も手間も少なくてすむ。
 さらに雑誌を持ち込んでくるぼくたちのようなグループの中には採算も利益も度外視し、雑誌をつくれば満足という連中も結構多い。
 書店側からすれば、これは困るのである。なぜなら、精算に来ないからだ。
 創刊号を置いたのはいいが、その後何の連絡もないケースが多いらしい。製作者側からすれば、何らかの理由で続刊できなくなったのだろうから、創刊号のわずかな代金を集金してまわるのはしんどい、ということもあるだろう。むしろ、金を支払わなかったのではなく、請求すべき金をもらいに行かないのだからいいのではないか、と思うのかもしれない。
 しかし、商取引なのである。きちんとしなければ基本的に困る。未決済の書類が書店にたまるからだ。
 こういういくつかの理由があり、特殊な例を除けば、出来れば出版社と─出版社というほどのものではないが、つまりは発行元と─直取引はしたくない、というのが多くの書店に共通する事情なのである。
 こういう現実がありながら、なお直雑誌を置こうというのは、手間ががかってもいいからこの雑誌を売りたい、という意欲が担当の書店員になければとても出来ない。直雑誌のほとんどは、同人誌か、取次が相手にしてくれない小さな版元の雑誌であり、直接仕入れなければ売ることも出来ない。意欲だけでは出来ないが、しかし担当者のその意欲が直雑誌のポイントになっているのも事実である。
 これらのことはすべて後日知った。ぼくも当時は何も知らず、深く考えることもなく、ただ頭を下げてまわっただけだ。偉そうなことを言う資格はない。
 次々に断わられるとさすがに疲れてくる。カバンにつめた80部が肩に重く感じられてくる。「10部置いてってもらおうか」と最初に言われたときは、嬉しさよりも驚きが先だった。なんだか他人事みたいで、そのとき「はあ」と間の抜けた返事をしたと思う。
 とりあえず、ぼくはカバンから「本の雑誌」を10部取り出し、レジのカウンターに置いた。前もってつくっておいた名刺をその上に載せ、「それじゃ、お願いします」礼をして帰ろうとした。
 「ちょっと待って」その店の親父さんが呼びとめた。
 「は……?」「このまま帰るのか」
 「なんでしょうか」「納品書があるだろ」「納品書?」
 恥ずかしい話だが、ぼくは納品書の存在を知らなかったのである。キョトンとしているぼくを見て、親父さんはレジの引き出しの中から、よその版元の納品書を取り出した。
 「こういう納品書をつけてくれなければ困る」「それはどこへ行けば売ってるんでしょうか」親父さんは呆れたような顔で「文房具屋に行けば売ってるよ」
 「この近くにありますか」「すぐ裏にある」
 「じゃあ、買ってきます」出て行こうとするぼくに
 「カーボン紙も忘れるなよ」と声がかかった。
 結局その親父さんに納品書の書き方を教えてもらい、無事納品をすませたが、その書店が「本の雑誌」を最初に置いてくれた書店だった。十字屋書店という。その親父さん、酒井さんには、いまでも頭が上がらない。見るに見かねて一から十まで教えてくれたのだろうが、その後も顔を出すたびに出版のこと、書店のこと、いろいろなことを教えてもらった。話は少し飛んでしまうが、創刊当初、酒井さんをはじめ、こういうふうにいろいろなことを教えてくれた書店の人が何人もいた。
 新宿・紀伊國屋書店に納品するきっかけをつくってくれた村松さんもその一人だ。当時、村松さんは紀伊國屋の日比谷店にいた。ある日突然電話がかかってきた。創刊した年の秋だったと思う。話がしたいと言う。訪ねていって、その日2時間話をした。よその書店で買い、どうも気になると言う。
 「いまのままではたぶん売れないだろうけど……個人的には好きなので、迷っているんですよ」村松さんはそう言って笑った。
 結局、次号から置いてもらうことになり、ぼくはちょくちょく日比谷店に顔を出すようになった。行くたびに村松さんは「まあ、坐りなさい」と笑顔を見せ、いつも2時間ほど出版界のあれこれを話してくれた。
 そういうふうになって1年たったころ、
 「新宿にはどうして入れないの」と村松さんが言ったことがある。
 「本店さんは創刊号のとき、断わられたんです」「でも、うちでこれだけ売ってるんだから、もう大丈夫でしょう。うちの実績を持ってってごらん」
 そういうものかな、と思って翌週本店に行き、日比谷店の数字や他の書店の数字をデータとして提出したら、嘘のように一発で取引が決まってしまった。取引する書店の数がふえたことはたしかに嬉しかったが、いま考えるともっと多くのことを雑談の中から教わったような気がする。
 ぼくは本の営業のことなど何も知らなかったが、酒井さんや村松さんや、そして多くの書店員の話を聞くのは愉しみだった。なるほど、そうかあ、と感心することがあったり、わからなかった意味が、違う人の話を聞いているうちに突如理解出来て、あ、と思うことが何度もあった。聞いているだけで、そういう発見の連続だった。おそらく、彼らは何も知らないぼくに
 「しっかり育てよ」と教えてくれていたのだろう。いま思うと、よく付き合ってくれたものだ、と不思議な気がする。
 現在ぼくのところに、これから雑誌をつくりたいのだが話を聞かせてくれないか、という電話が時々ある。なるべく時間をつくって会い、ぼくにわかる範囲で相談に乗っているが、入稿でドタバタと忙しいときなど、つい無愛想な応対をしてしまうことがある。受話器を置いた途端、いけないな、と反省するが、遅すぎるのだ。「本の雑誌」の創刊当初、1時間も2時間もいろいろな話をしてくれた何人もの書店員をふと思い出す。
 創刊号の配本の話に戻ろう。
 その日は結局、神田を軒並み歩いた結果、十字屋書店と、いまはなきウニタの2店だけが置いてくれた。50店はまわっただろうから、0割4分である。
 ところでその日は日曜日だった。書店によっては仕入れ担当者が休みの店が結構あった。ずいぶんあとになって、その話をすると「なんで日曜日にまわったの」と親しい書店員に笑われたことがあるが、ぼくは会社に勤めていたのである。しかし、前日仕入れ担当者が休みだった店をまわろうと思い、翌日の月曜日もぼくは神田に行った。それほど真面目な会社員ではなかったのだろう。
 無駄足だった。数軒断わられ、裏道をがっかりして歩いていたら、前日寄らなかった書店が目に入った。1店も開拓出来ないんじゃまったくの無駄足になってしまう。入ってみるか、とその店に飛び込んだ。2日目だから慣れが少しある。すると、
 「うちじゃ扱えないけど、この上に行ってごらん。こういうの、扱ってくれるんじゃない」
 と言う。しかし看板も出ていないし、2階に書店があるとも思えない。なんだろう、と狭い階段を昇った。
 「こういう雑誌、置いてもらえますか」応対に出てきた青年はあたりのやわらかい、感じのいい人だった。それまでまわった書店とずいぶん応対が違う。店は3坪もあったろうか、狭い店で、半分が仕切られて事務所になっていた。ヘンな書店だった。話をしているうちにどうやら書店部門もあるが、メインは書店ではないことに気が付いた。取次なのである。それがその後長い付き合いになる地方・小出版流通センターだった。
 長い名前なので以後センターと略すが、このセンターは、小さな出版社の本が流通機構にうまく乗れず手に入りにくいという現状を何とか出来ないものか、という趣旨で発足した組織である。大取次は、資本力もなく、バックもなく、実績もない小さな出版社と、なかなか新規契約をしてくれない。出版社をつくり、本をつくり、取次に持っていって「ハイ、これ全国の書店に撒いてよ」と言っても、相手にしてくれないのである。これは乱暴な言い方だな。テキも商売だから売れそうもない本は扱いたがらないのである。だが、売れる売れないという量の線をどこに引くかという問題があり、1000部しか売れない本も、逆に考えれば1000人の読者がいるということで、その読者には必要とされる本なのである。
 ところが現在の出版流通では、いろいろなことがあって、この種の本は流通しにくい。そこで、センターがこの手の小さな版元の代表となって取次の口座を開き、その口座を借りて版元は取次に商品を入れるというシステムをつくったわけだ。要するに、小さな出版社のまとめ役と思って下さい。
 センターはその前月発足したばかりで、ぼくが顔を出した日、電話が鳴りっぱなしだったのは、その日の朝日新聞の朝刊に紹介記事が載ったからだった。ぼくは新聞を見ずに出かけたので、センターの機構を理解するまで時間がかかったが、応対に出た青年は紹介記事を見て同人誌を持ち込んできたと思ったらしい。その青年が有北隆和で、のちに藤沢西武ブックセンターに移り、現在は友人たちと出版社をおこしている。センターに在籍した当時は機関誌「アクセス」の編集担当で、1年後に同じ編集に入ってきた「ガロ」出身の有川優とその後結婚する。
 彼らが「アクセス」の編集をしていたころ、コラムが空いちゃったんで協力してよ、とインタビューを受けたことがある。高田馬場の喫茶店で会った。仕事が終わったあと新宿の「五い
 十す鈴ず」で飲み、当時ぼくが住んでいた梅ケ丘のアパートまで行って、三人でザコ寝をした。ぼくはこういうことにウトいので、あやしいな、と思いもしなかった。2人が結婚したのは数年後だが、「あのころから付き合ってたの」と先日尋ねたら、有北青年は笑うだけで答えてくれなかった。
 思い出すままに書いていく。
 センターで契約したあと、御茶ノ水駅まで歩いた。駅前の茗溪堂にその足で寄ったのは、前日応対に出たアルバイトらしき女店員の感じがよく、なんとなく脈がありそうに思えたからだ。4階の事務所に行き、カバンから創刊号を1部取り出して見せると、雑誌担当の青年はパラパラと見てから「10部ほどあずかりましょうか」あっけなく言った。それが坂本克彦だった。彼とはそれから1年間、事務的な会話しか交わしていない。
 坂本克彦と親しくなったきっかけは、創刊号から1年たったころ、いつものように営業に行くと、「めぐろさん、時間あります?
 お茶でも飲みましょうか」近くの喫茶店「ジロー」で1時間ぐらい話したろうか。それから顔を出すたびに、いろいろ話すようになった。
 千葉まで2人で営業に行ったこともある。茗溪堂には出版部もあり、山の本を刊行していて、彼はその営業に行くというのである。じゃあ2人で行こうということになった。御茶ノ水駅のホームで10時に待ち合わせたのだが、ぼくは30分遅れた。彼はいまだに酔うとそのことを言うが、自慢じゃないが、もっと遅れたことが何度もあるのだ。その日どんな営業をしたのか、いまとなっては覚えていない。坂本克彦と一緒に、怠惰な一日を過ごしたという記憶だけが残っている。
 記憶といえば、曖昧な個所がいくつかある。「やったよ。創刊号を置いてくれたよ」と報告の電話を入れると、「営業の結果を詳しく聞きたいから来いよ」と椎名に言われ、夕方彼が詰めていた銀座のホテルまで出向いた記憶があるのだ。ホテルの部屋に入ると数人の編集部員が椎名と一緒に仕事をしていたから、まさか日曜日ではないだろう。となると、その日が月曜日ということになる。だとするなら神田歩き2日目であり、それにしては弾んだ声で電話を入れた記憶がおかしい。それにもしその日が月曜日ならば、なぜ前日の日曜日、「本の雑誌」を引き受けてくれた2店の結果を夜にでも椎名の自宅に電話しなかったのだろう。
 こういう曖昧なことがいくつかある。その日曜と翌日の月曜日、創刊号の営業は2日間だけしかまわらなかったと長い間、思っていたが、池袋と渋谷もまわった記憶があるので、あと数日、都内の書店を歩いたのかもしれない。創刊号は5店で販売した、と長い間思っていたが、どうもこの記憶もあてにならない。2号の奥付を見ると、「本の雑誌」を置いてある書店として12の店名が載っている。この中には創刊号が出てから2号が出るまでの間に注文がきた書店もあるので、12店全部が創刊号を売った店ではない。だが、ぼくの記憶の5店だけではないような気もする。
 2号の奥付に載っている書店リストを見ているうちに思い出してきた。5店というのは、ぼくが直接まわり、置いてくれることになった書店で、実はそれ以外にも創刊号を置いてくれた書店が数店あった。前述したように、創刊号はぼくと椎名と本多健治の3人でつくった。刷り上がった創刊号もこの3人で分けている。配本はぼくが担当し、椎名と本多健治は身近な友人に配るという段取りだったが、彼らはそれぞれの知人に営業を頼んでいた。地元の本屋さん、仕事でよく顔を出す本屋さん、何でもいいから頼んでくれ、と依頼していたのである。ぼくがまわった5店以外は、その彼らが開拓した書店だった。
 まだ当時の会社に在籍している人が多いので、残念ながら実名は出せない。実は創刊から初めて事務所をつくるまでの約5年間、ぼくたちのまわりにいた多くの友人たちの力を借りた。謝礼なし、実費も自己負担というのに、多くの友人たちが助けてくれた。「本の雑誌」が売れない間、支えてくれたのは彼らである。
 「本の雑誌」をつくったのはぼくと椎名だが、育ててくれたのは彼らだ。本来なら名前を挙げたいところなのだが、会社をさぼって手伝ってくれた人が多いので、そうもいかない。
 たとえば、第6号の配本だったろうか。どうしてもドライバーが見つからず、運転免許を持っている友人に会社を休んでもらったことがある。ところが銀座にさしかかると、彼の態度がどうもおかしい。目をキョロキョロさせている。
 「やばいよ、会社の近くなんだ」間が悪いことに彼の会社の真ん前に書店があり、そこに配本しなければならない。
 「納品だけだから時間かからないよ、すぐ戻ってくる」ぼくは雑誌をかかえて飛び出した。
 納品をすませ車に戻ると、彼は顔にタオルをかぶせ眠ったふりをしていた。こういうエピソードはたくさんあるが、もう少しあとで書く。とにかく創刊号はぼくが歩いた5店と、他の人が開拓した数店(3店か4店だったと思う)で販売された。1976年の5月のことである。
 数日して、神田の茗溪堂と十字屋書店から電話がかかってきた。あと10部持ってきてくれという。
 へー、と驚いた。お金を出して読者が買ってくれたことが驚きだった。創刊号の定価は100円である。あとで原価計算してみたら、創刊号の原価は1部340円だった。それを定価100円では合わない。7掛けなので1部売っても70円しか入ってこない。つまり1部売るごとに270円ずつ損をするのである。
 なぜそんなことになったのかというと、原価計算をしなかったからだ。前述したように、儲けるつもりはなかった。それぞれ会社に勤めていたし、趣味の雑誌である。定価などいくらでもよかった。製作費を回収出来なくてもいい。ドブに捨てた金ぐらいにしか考えなかったのかもしれない。
 いま考えれば、呆れるほど何も知らなかった。創刊号の営業のとき、最初の書店で「掛けはいくつ?」と言われ、何のことだかわからなかったことがある。書店も商売なのだから販売手数料を取るのは当然である。たとえば出版社は6〜7掛けぐらいで取次に納品し、取次は約7〜8掛けで書店に送品する。書店はそれを定価で売り、それぞれマージンを取るというのが出版流通のシステムだ。そんなことも知らなかった。
 「タダなら置いてやってもいいよ」そう言われて、
 「また来ます」とぼくは返事した。儲けるつもりはなかったし、定価もデタラメだ。だが、タダではまずいだろう、と思った。なんだかよくわからないが、どこかおかしいという気がしたのである。何店かまわるうちに、7掛けが妥当らしい、と判断して以後7掛けに統一し、定価も2号から200円にしたが、創刊号のときはまったくと言っていいほど知らなかった。
 茗溪堂と十字屋書店はその後も10部ずつ追加し、創刊号をそれぞれの店で100部ずつ売った。たった500部の雑誌だから、半分近くをその2店で売ったことになる。
 自分たちでは何ひとつ変わったことをしたつもりはなく、日ごろ酒場で話していたことを雑誌にしただけであり、それに満足のいく誌面ではなかった。いまでも、創刊号を持っていると言う人に会うたびに恥ずかしくなる。創刊号の反応はよかったが、それは内容がよかったからではない。


目次

[社史・本の雑誌]

本の雑誌血風録 椎名誠
本の雑誌風雲録 目黒考二

[付録の本の雑誌]

カラーグラフ
 表紙の本の雑誌
 和田誠・装丁劇場

本の雑誌の45年
 こうして今ものんきに絵を描いている。 沢野ひとし
 発作的座談会 木村晋介
 45年目の風雲録 浜本茂のこと 目黒考二
 ラーメン四十五 椎名誠
 社員鼎談① ベテラン編 目黒考二・吉田伸子・浜本茂
 社員鼎談② 同期入社編 杉江由次・浜田公子・松村眞喜子

本の雑誌写真館

再録・節目の本の雑誌
 「本の雑誌」の10年を語る
 100は本当にエライか?
 「本の雑誌」の酒場の広告
 わしらにとって20年は何であったか
 最後の黄金時代だったかもしれない
 さまよえる編集室25年史
 30周年いろいろあったのだ対談
 無理せず、頭を下げず、威張らず、やっていく。

年譜

社史_函

社史_表紙_1

社史_表紙_2

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IMG_4449のコピー

『社史・本の雑誌』
本の雑誌編集部編
■四六判並製2分冊箱入り(分売不可)
■「社史・本の雑誌」672ページ、「付録の本の雑誌」304ページ
■定価6600円(税込)
ISBN978-486011-457-2

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