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もうSNSがわからなくなりました

SNSってやはり面倒なことが多すぎるのでは?

だいぶ前から色々疑問に思うことはあったわけで、この件が何かのトリガーになったのだとは思えませんが、ある一つの印象的なケースとして、一定期間はぼくの記憶に残りそうだと感じました。

世間の大きさや影響力から考えれば、非常にニッチなケースだけに、全然知らないという人も多くいるでしょう。たしかに、生活圏からの距離が遠くなれば、戦争や震災と同じく、その実態を共有するのは難しいですよね。

第一印象

とりあえず、一通り読んだ感想としては、
「なぜこんなにカリカリしているのだろうか?」
ということです。

酔っ払ってした何か、あるいは店を傷つける行為は過去にも多くあり、それらにおいては相手方に謝罪したり、賠償したりということになって、そのたびに「そんなやつは世間に出すな」というくらい徹底して社会的制裁を被るのは、見ていて不幸な気持ちになります。

今回の件も、泥酔して行った件についての事象なので、あくまで個人に責任を問うのが妥当だと思うのですが、なぜ企業の側に、しかも勤務時間帯でないのに、謝罪等の何らかの対応を求めてしまうのか、そこが理解しがたいところです。「オリジンは関係ないだろう」という意見に対して、「求めているのは事実確認と再発防止である」と仰るのもわからないところです。あくまで勤務時間外なので、個人に対してアルバイト先が何某か行動制限をかけるようなことではないと思います。むしろ、そこに制限がある方は危険な社会であり、そのような企業があるべきではないのでは?

常に録画、つまり監視をする(される)社会であるべきで、その方が幸せに暮らせるのだという考えが、このアピールを支持する方の根底にはあるのだと思いますが、ぼくはそうは思えません。

なぜそこまで敵意を剥き出しにするのだろう

”組織的に計画して嫌がらせをしている可能性”についてアピールされていますが、ぼくにはその根拠たる部分を見出すことができず、なぜそう言えてしまうのかについて理解できません。明確に、務めている企業や店舗内で「やってやれ」という意図や計画が企図されたという内容に結びつく発言があるのかと思ったのですが、それは見ることができなかったように思います。

なぜ、ここまで相手方が務める(といってもアルバイトでしょうが)企業に対して敵対心をあらわにされるのか、それがぼくには理解できずにいます。以前にも、この2店舗の間で何かしらの事象が発生しており、それらが積み重なって今回に至るのでは?と推測しもしました。

構造的原因

単価を安く設定しすぎているから、変な人の割合が高くなってしまうことは自明でしょう。どの業種でも同じです。自ずとクレームも増えてくるし、クレームの内容も低劣になります。おのずと、それらに対応するコストが増えてくるでしょう。そんな対応の一貫として動画を撮影し、中継するなどしているのでしょうけれど、さらにそれが地獄を生んでしまう構造になっていて、それら全般に対して考えるのはとても疲れそうです。24時間営業、無人、繁華街であれば、トラブルのは容易に想定できます。これは偶然ではなく、必然であり、それが起きた場合の対応もある程度想定していたのでは?と思えます。

そういう状況におかれると、自分たちが常に虐げられているという感情をどんどん募らせていく気持ちはたいへんよく分かります。ただ、その上に自分たちが正義であり、悪は徹底して駆逐してよく、友と敵を積極的に作ろうとすることは、まさに今般の戦争案件と同じものをみてしまいますし、お互いにギスギスさせず落ち着いて欲しいと思います。ぼくは問題は戦争を防ぐことであり、やめることだというスタンスなので、被害を受けた側を応援するのであれば、その戦いに油を注ぐのではなく、被害にあって店長側をその上にある企業や構造から守ったり、改善を要望するなどという行動もできそうだと思います。

キャンセルカルチャーからの放火

ある企業が「ブラック」かどうかは定義も含めて色々あるわけですが、「謝罪しても永久に蒸し返すべき」という某社会学者の発言と同様に、「あ、そこって前に〇〇したところだよね、クズじゃん」と、当事者ではない人々が、問題になったことと関係のない内容を利用し、どんどんとキャンセルの波を荒立てる行為は一体なんなんでしょうか?オープンレター問題と同じですね。この事象自体がどうなのかではなく、少しでもオリジン側が悪ければ、匿名でそれを嫌いな人が殴りにく構図で、典型的なキャンセルカルチャーが醸成されています。

過去になにかあったのかも知れないし、なかったのかも知れません。ぼくは正直どうでもいいです。でも、どうでもいいと思わず、むしろそれを永久に蒸し返す人々がいます。中央公論へもキャンセルカルチャーについては書かれましたけど、そういう人々を無視していくしかないと思います。

「謝罪は無意味で、その事案に対して対応し続けることしかない」と主張されるわけですが、これはとんでもないことだと思います。過去は過去、現在は現在で切り分けることが必要です。「過去に〇〇をしているんだから、今回〇〇くらいやっていてもおかしくない」これは完全にヘイトです。

隣人と会話し、理解し、共存する世界へ

あっという間に絶対悪であると認識されれば、とにかく絶対善である側に着くほうが楽で、その方が社会的に得で、そこにはなんの自分らしい意見を展開できない人が、言論人や著名人やインテリの間でもみられなくなってきたというのは、ほんとうに悲しいことだと思います。

SNSを使って、何かしらの訴えを起こすケースにおいて、動画や音声を晒すという行為に出てしまうほど、その瞬間の感情を抑えきれない人が増えている事に恐怖を感じます。また、近未来に対しての抑止として、動画を公開する意図もあるのかも知れませんが、ぼくはそれによってある種のの破壊行為がなくなることはないだろうと思います。

いろいろと恐ろしい世の中だと思いました。なぜ、一瞬の判断で、よく調べもせず、絶対善と絶対悪だと言い切れるのか。なぜ、その場の感情の高ぶりによって、悪だと感じた側を徹底して叩くことができるのか。あるいはそれを利用しようとするのか。

ウクライナの件もそうですが、たしかに被害を受けた。しかしながら、自らが被害者であることを訴えることで親衛隊と無数の付和随行的な人々を動員できれば勝ち組になれますし、相手を追い込むことができます。プロパガンダの典型的手法です。そういうものであると理解すれば巻き込まれないわけですが、巻き込まれる人がいるのは仕方がありません。ただ、それをなぜ相手個人ではなく、企業側にも向けたのかは、やはりわからないところです。「あいつらはきっとやってくるはずだ」と思い込み、隣人と戦うのではなく、共存する方向では考えられないものなのでしょうか?


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