異世界、福岡にて 第1話「転生したら福岡だった件」


 目を開けたらそこは異世界だった。広大な青い空に見渡す限りの田園風景、そこかしこから聞こえるカエルの合唱。どこからどう見ても異世界……ではない。よくある田舎のよくある昼下がりにしか見えない。俺は農作業に入る寸前だったらしく、田んぼの前で立ち尽くしていた。らしい、というのは、俺がそれまでのことを何一つ覚えていないからだ。
 
『――、大丈夫か?』と、誰かの声が聞こえた。いや、これは記憶にべったりと張り付いた何かの残滓だ。誰の声なのか、何を大丈夫かと聞いているのか、全くわからない。

 頭がズキリと痛む。『うまくいくといいな』今度は白い服の端が視界に映った気がした。友人だったのかもしれない。あるいは、同僚だったのかもしれない。どうしてそう思うのかも、今の俺にはわからない。それに直前までその人物と笑い合っていたような、記憶にモヤがかかったような感覚ばかりが頭を占める。相手の名前も顔も思い出せず、夢だと言われればそうかもしれないと頷いてしまうだろう。自分の名前さえ定かではないのだから。はっきりとしたことは少しもわからないが、それでも田んぼの水面にゆらゆらと映る自分の顔が自分ではないことだけはわかった。
 
 俺は誰だ? 気がつくと頭痛は薄れ、何者かの声も聞こえなくなっていた。

「百道くん、どうかしたん?」
 
 背後からやってきたのは、今の俺とそう変わらない年頃の女性だった。麦わら帽子のよく似合う、亜麻色に灼けた長髪がさらさらと風に揺れる。俺を百道と呼んだが、俺自身にその名前に覚えはない。やはり、転生したのは間違いないだろう。あるいは、単に記憶喪失か。
 
「あの……すみません、俺たちは知り合い、なんですよね?」

「ええ? そうやけど……急にどうしたと?」

「いや、どうも記憶が飛んだみたいで。百道っていうのも俺の名前だとは思えなくて。そもそも俺は確か、ここではないどこかにいたはずで……」矢継ぎ早に思い浮かぶ疑問のあと、はたと気がつく。「ところで、ここどこですか?」

「んん〜……?」彼女も不思議そうではあったが、少し考えてから頷いた。「えっと、ここはフクオカにある私のお父さんがやっとる田んぼで、私たちはそのお手伝いしとるんよね。百道くんが働きたいっち言うけん臨時バイトみたいな。これからやろーってときに変なこと言い出すんやもん、やっぱり畑仕事イヤんなったん?」

「福岡……」
 
 俺、福岡に転生したの? ウソでしょ? でも、言われてみれば福岡の方言ってこうだったか。
 そのほかに言われたことは全部頭の中から吹っ飛んでしまった。異世界でもなんでもなく、福岡に転生した日本人なんて何の特別感もない。ただの引越しだ。剣と魔法のファンタジー世界とまでは言わないが、聞いたこともない世界に転生して現代知識で無双、とかしてみたかった。
 
「あっ、お父さーん! 百道くんがおかしくなったんやけどー!」
 
 彼女が俺の背後に向かって手を振りながら失礼なことを叫んだ。見れば、道路側に薄汚れた白っぽい作業服を着た男が立っている。四十代半ばといった彫りの深い顔立ちで、若い頃はさぞモテたであろう渋さがある。俺たちは一旦彼の方へと向かい、かいつまんで事情を話した。オヤジさんとの話の中でわかった事は、まずここが福岡である事と、俺が百道という男だという事だ。それらは事前に聞いていた通り間違いないようだった。
 
 それからオヤジさん――タクさんから、俺自身であるという、この百道という男の話を聞いた。

 百道は、ココロと同じ高校を卒業後にお笑い芸人を目指していたが、養成所に通うわけでもなくいつの間にか「俺には向いてなかった」と諦め、かと思えばユーチューバーをやろうと思い立ち、しかし機材も能力もなく、動画も一つとして完成させていないらしかった。ようするに、一般的な仕事はしたくないが努力もする気はなくて、しかし多額の金は欲しく、汗水流さずラクな仕事を探し続け、それらしい流行りものに飛びついては気力が追いつかず頓挫する、ということを繰り返しているようだった。つい最近はバンドマンを目指していたようだが、曲は完成したこともなく、一緒にやれる仲間もおらず、上手くいっていないためにカネが必要になって、こうして幼馴染のココロに泣きついて臨時バイトとしてタクさんの元に来たというわけだ。
 
 二人から百道の話を聞くほどに頭が痛くなってくる。二十歳にもなってふらふらとしているダメ人間に思えてならない。いや、だからこそ、この二人は百道がおかしな事を言い出したからといって、焦ったりすることなく違和感なく受け入れた、という側面もあるのだろう。
 
 ココロとは小学生の頃からずっと一緒の幼なじみで、オヤジさん共々百道に良くしてくれているようだ。俺自身が百道に対して感じているように、半ば呆れているようにも思える。それでも仲良くしてくれているのは、彼らの人の良さもあるだろうけれど、百道のどこか憎めない人間性がそうさせているのかもしれない。そう思うと、俺に無いものを持つ百道に羨ましささえ感じられた。そして同時に、俺が異世界の記憶を取り戻してしまったことにより――何の間違いか、肝心の元の世界の記憶らしい記憶がないわけだが――、百道という一人の男の人生を一時的にとはいえ潰してしまっていることに申し訳なさを感じた。俺自身に対してではあるが、それはそれだ。
 
「全然覚えとらんか」と、タクさんが浅いため息を放った。

「はい、全然……」

「うーん、オレにははっきりとしたことはわからんけど……ひょっとしたらそれんついてわかる奴ば知っとるかもしれんけん、ちっと行ってみるか?」

「いいんですか? でも、畑が……」

「よかよか、ココロにさせとくけん」

「はぁ〜? 私一人なん?」

「他の友達呼べばいいやんか。母さんもおるけん大丈夫やろ」

「はぁ……わかった、わかったけど」ココロは複雑そうに頭を掻いたが、次の瞬間にはコロッと表情を変えた。「フクオカ行くんやろ? お土産よろしくっ!」

「はいはい」

 軽妙に返事をしたタクさんについていくと、準備があるからと家の前で待たされた。手持ち無沙汰になり、俺はそこらをぶらつくことにした。

 タクさんの家は小高い坂道をのぼった先にあり、広大な田んぼはその坂を降りて道路に面したところにある。田んぼの向こう側にはコンビニが見えたが、店と言えるものはそれくらいで、あとは民家がぽつりぽつりと建っているだけだった。バス停はあったが、誰もいない。それは時間帯のせいか、それとも利用者がいないからなのか。おそらく後者であろうことは、バス停の設置された小屋を見ればわかる。廃墟のようにボロボロだからだ。誰も手入れをしないくらいなのだから、数時間に一度しか通らないのだろうということが窺える。つまりは、ど田舎だ。
 
 何の気なしに道路に落ちていた石ころを蹴った。てん、てん、と軽快な音を出して転がっていく。狙いも何もなく無気力な足から放たれた小石はふらふらと無軌道に跳ね、道路の脇に生い茂る草むらに飛び込んでいくと、何やら白いものにぶつかって動きを止めた。
 
「軍手?」
 
 田舎には軍手がよく落ちているという話は聞いたことがある。だが、こんなにも落ちているのは想定外だ。よくよく見れば、道の先にも点々と落ちているのである。田んぼの端と、作業道具などを置いておく場所であろう掘立て小屋の付近、それと畦道にも一つ、コンビニに向かうための小さな橋の前にも一つ――と、いくらなんでも落ちすぎだ。ポイ捨てでももう少し規則性があるだろう。ただ、ゴミらしいゴミはそれ以外に落ちていない。ピンポイントで軍手だけを捨てる意味がどこにあるのか皆目見当もつかないが、田舎ならよくあることだと言われてしまえばそれまでだ。
 
 ただ、ひょっとしたら変わり者である百道、というより記憶のない俺が置いたのかもしれない。あの二人の話を総合すると、それも有り得ない話だと思えない。だとすると申し訳なくなってきたので、ボランティアのつもりで軍手を一つ拾い上げた――その瞬間、閃光が弾けた。
 
 周りの風景がスローモーションで崩れ去り、真っ白な光に溶け合っていく中、聞こえてきたのはタクさんの怒声にも似た叫び声だった。俺は気がついたら目を瞑ろうとして――ぎゅっと目を閉じて、再び目を開けた時にはオヤジさんの腕の中にいた。
 あれ、と体を起こすとそこは軽トラの荷台だった。いつのまに?
 
「危ねぇ、危ねぇ。大丈夫やったみたいやな」
 
 タクさんは大きなため息を放って、苦笑を浮かべた。タクさんの顔は先ほどと比べて酷く疲れ切っていて、ぽたりぽたりと滴り落ちた汗が荷台に染みを作る。

「今のは……え、何がどうなって……?」

「百道くん、もうちょい遅かったら死んどったけんな。言うの忘れとったけんしょうがなかけど」

 死んでた? タクさんは助けてくれた? いったい何から?

 疑問が尽きないまま、その正体を確かめようと荷台から顔を出してみる。するとバス停は半壊し、黒焦げていることがわかった。まるで爆風だ。その場で爆発が起きたかのようだった。

「な、何なんですか、これ。爆弾でも仕掛けられてたんですか?」

「おう、そうだよ」

「そうですか、やっぱり爆弾ですか……ってこんな片田舎のそこら辺に爆弾があるわけないでしょ! 何言ってんですか! テロリストだってテロの場所くらい選びますよ!」

「百道くんは忘れとるけんな、無理なかね。他んとこはどうか知らんけど、フクオカじゃそんなもん当たり前ばい。軍手なんかに悪い奴らがよく仕掛けとるんよ、爆弾」

「福岡ってそーなの⁉︎」

「そうばい」

 なんて無法地帯なんだ。福岡、ヤバすぎる。
 
「でも、起爆したのって俺が軍手を拾ったから、なんですよね? どうやっても間に合わなかったと思うんですけど……いったいどうやって……?」

「そらコイツのおかげやね」
 
 タクさんは左薬指に付けられた指輪を見せつけた。
 ゴツいダイヤモンドを丸々一つ取り付けられたような指輪だ。少々無骨だが、宝石の価値など今ひとつピンとこない俺でも、大きさだけでいえば数百万という値段が付けられそうな指輪だった。誤解を恐れずに言えば、田舎の人間にはあまり似合わないような代物に見えた。

「結婚指輪ですか?」

「違う違う、これ漂流物《ギフト》なんよ」

「ギフト……?」

「漂流物《ギフト》っちゅうのは、なんも無いところから急に現れる不思議なもんなんよな」
 
 タクさんの話によると、漂流物ギフトと言うのは何らかの物として現れるもので、その全てが装着した者に特殊な力を授けるのだという。タクさんの持つ漂流物ギフトは周囲の時間の流れを遅くする能力があり、自分だけはその中を好きに動けるようになるというものだった。ただし、この能力を使用すると酷く疲れてしまうため、よほどの緊急時にしか使う気はないそうだ。

 端的に言って意味がわからない。俺の知っている日本にそんな超常現象便利グッズはないはずだが、福岡に限ってはそんなものがあったのか、と驚愕するほかない。

「そんで、コイツで百道くんとこの時間の流れを遅くして、この軽トラで百道くん拾ってなんとかしたってわけよ。疲れるけん、あんまやりたなかけど背に腹は代えられんけんな」

 そうだったのか、と納得するには少々不可思議が過ぎるが、それ以外に説明しようがない以上は無理矢理にでも納得するしかない。爆破の範囲はそれほど大きくはなく、半径三メートル程度を吹き飛ばす程度だったが、それでも爆風の余韻はバス停付近に残っていて、プラスチックや何かが焦げた匂いがそこらに漂う。俺は紛れもなく、この人に命を助けられたのだ。

 タクさんの疲れがどれほどのものかは、荷台に流れ落ちる滝のような汗の量を見ればすぐにわかる。三十分ほどノンストップで全力疾走したかのような疲弊感が顔に出て、老け込んでいるようにも見える。あまり漂流物《ギフト》を使わせないよう、下手なことはしないようにしようと心に決めた。

 それからタクさんは軽トラの運転席に戻り、俺も助手席に座り込んだ。軽トラの中は特にこれといったものはなかったが、荷台には段ボールに詰められた書類や、中身の見えない段ボール、それと黒い袋がいくつか転がっていた。道端の軍手に爆弾が仕掛けられていたことを考えると、あまり質問すべきではないのかもしれないが、特に黒い袋の方は気になってしまった。
 
「タクさん、荷台の黒い袋って……」

「ああ、あれ武器ばい」

「武器」

「スナイパーライフルとアサルトライフルが二丁、あと日本刀とかサーベルとかやね」
 
 あっけらかんと言った。福岡に銃刀法はないのか?

「百道くんは記憶なくす前も武器とか使ったことなかけんね、確か。まーでも、なんかあった時にオレが使う用やけん気にせんでいいばい」
「そうですか……」
 
 なんかあった時って、なんかあるかもしれないようなところに行くのか。
 ちっとも大丈夫な方へ向かっている気がしない。記憶をなくす前の百道おれが武器を使ったことがないというのが救いなのか不安要素なのかわからなくなってきた。

「あのー、俺の記憶が飛んだ件について心当たりがある人がいるかもしれないって言ってましたよね。これからどこに行くんですか?」

「そら、魔王のとこよ」そう言ってタクさんは軽快にアクセルを踏んだ。

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