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ミーハー記念日第7回 ドラマの人〜はしのえみさん〜

「ドラマの人」

 大学3年生の頃、高円寺でアルバイトをしていた。その当時、バイトまで時間があまりないときなどによく駅前の立ち食いそばを利用した。
 高円寺の駅周辺にはいくつかの立ち食いそばの店があり、僕はガード下のそば屋に頻繁に通った。天ぷらが特に美味しい店だった。
 この店は何人かの店員さんが交代でやっていて、僕の行く夕方4時から夜7時くらいの時間には、いつも短い白髪頭で口ひげを生やしたおじさんが1人で店に出ていた。
 いつ行っても彼がいるので僕はそのうちに世間話などをするようになった。身の回りにいくつかの不安を抱えていた当時の僕にとって、学校やバイト先など自分の周辺とは全く違うところにいるそば屋のおじさんと話すことは、とてもいい気分転換になった。
 学校のこと、受験時代のこと、東京での生活のこと、故郷のこと、店を訪れる度にぽつりぽつりと話をした。そばは、どんなに時間をかけても15分もあれば食べ終わってしまうので会話はあまり広がることはなかったが、おじさんも僕と同じ年の娘の話を聞かせてくれたりした。
 また、デザインの仕事をやっていくことについては応援してくれていたが、あるとき僕の実家がすし屋であるということを話したところ、彼は天ぷらの仕込みをして下をむいたまま「そりゃあ店を継いだ方がいい。帰って継いだ方がいいよ」と小声で言った。

 おじさんの店ではそばやうどんに、生玉子かゆで玉子を無料で入れてくれるというサービスを実施していた。食券を渡すときに生玉子とゆで玉子のどちらにするかを尋ねられるのだが、僕はいつも生玉子を希望した。
 店に通うようになってしばらく経ったあるとき、おじさんが僕に尋ねることなく、どんぶりにすとんと生玉子を落としてくれたことがあった。僕はそれを見たときひっそりと心を躍らせた。

 しかし大学を卒業してからは高円寺に行く機会はほとんどなくなり、大学卒業から2年程して、何かの機会に3回ほど店を訪れたときにはおじさんがいるはずの時間にいつも別の人が店に立っていたので、彼はもう辞めてしまったのかもしれないと思った。
 ところがその後、もう一度だけ、と思って店を訪れると、そこにはいつものおじさんがいて「お、久しぶりだね」と、つい1週間前に会ったばかりのような軽やかな調子で声をかけてくれた。
 僕は嬉しくなり、先日来たとき店に彼がいなかったことを話し、そして最近の自分の話をした。それから、ちょっと前に入った高円寺駅前の酒場に、アントニオ猪木のサインが飾ってあったことを話すとおじさんは意外なことを言った。
「うちの喫茶店にも芸能人来るんだよ。先週もね中澤裕子っているでしょ、モーニング娘。の。あの娘が来たんだよ」(※2002年当時彼女はグループに在籍していた) この言葉を聞いて僕はまったく面食らってしまった。
 おじさんから「モーニング娘。」の話が出たことにも驚いたが、『うちの喫茶店』という言葉はまったく訳が分からなかった。「ちょ、ちょっと待って下さいよ。何ですか? 『うちの喫茶店』って」
「俺はね、阿佐ヶ谷で喫茶店もやってるんだよ。言わなかったっけ?」
「聞いてませんよー、何で喫茶店やってるんですか‥? 今ここにいてどうやってやるんですか? 本当ですか?」
「本当だよ。夕方まであっちにいて夕方からはうちの奥さんにまかせてるの」
「へえ‥。で、本当に中澤裕子が来たんですか?近くに住んでいるんですかね?」
「違うよ。今やってる何とかっていうドラマの撮影でさ、TV関係の知り合いに頼まれたんだよ。今度彼女が喫茶店で男と別れ話をするシーンがあるから見てよ」
 そんな話をするうちに、僕はこのそば屋に初めて来てからもう4年になるというのに、今まで喫茶店の存在どころかおじさんの名前さえも知らなかったことに気が付いた。彼も僕の名前を知らなかった。
 彼は続けて言う。
「来週もね、姫が来るんだよ」
「姫?」
「ほら、王様のなんとかって番組に出てる姫だよ、ほら、えっと、はしのえみとか言ったかな」
「ああ!‥来るんですか?」
「来る」

 そこまで話したところで僕は「これぞ天のめぐりあわせ!」と思い、すかさず
「あのー、実は僕ミーハーなんですけど会いに行ってもいいですか?」
と言ってみた。おじさんは僕が言ったことについて笑いながら、撮影の予定日と喫茶店の場所を教えてくれた。
 そしてこのとき初めて僕は名を名乗り、おじさんの名前を聞いた。

 それから一週間ほどして、僕は阿佐ヶ谷の中杉通りにあるおじさんの喫茶店に行った。おじさんと、奥さんに挨拶をして、姫の到着を待った。
 しばらくすると、はしのえみさんがスタッフの人たちと一緒に到着したので僕は買ってきた花束を渡し、「姫」のイメージに合わせて選んだハートの描かれた色紙にサインをもらった。それから、お礼を言って自分の席に戻りアイスコーヒーを飲んだ。この日は時間が押していたらしく、サインを求めるとスタッフの方はいらだちを隠せない表情をしていたが、ご本にはそんなことも気にかけない様子で、にこやかにサインを書いてくれた。

 僕はミーハーな活動をするときは事前に誰に言うでもなく一人でこっそり決行する。事前に話をしたところで相手があまり興味を示さずに会話がしらけることが多いからだ。
 サインをもらうということについて価値を感じない人は結構たくさんいて、「それがなんになるんですか?」と聞かれることも多々ある。
 ただ、僕の考えるミーハーな活動において大切なことは、誰と会うかだけではなく、誰と会い、どう関わり、僕の中に何が残るか、ということである。そのとき、格別面白い出来事や会話がなかったように他者からは見えても、僕の記憶に鮮明に残った何かが僕にはうれしい。
 それが本書を書きはじめたきっかけのひとつだった。そして、それは著名人に限らず、生活の中で出会う多くの人たちに対しても言えることだ。
 僕の意見を聞くことなく、生たまごをすとんと落としてくれる。
 そんなことを僕はとてもうれしく思う。どんぶりの中の生たまごは、それ以上でもそれ以下でもないが、僕はなぜかそれをうれしく思う。 

はしの001

はしのサイン完成

※このテキストは2000年頃に執筆し、2005年頃に某出版社から発行される予定だったものです。15章ほど書いた後で出版が中止になりお蔵入りしていましたが久しぶりにnoteにて公開させていただきます。

↓こちらは書籍化の段階でカットになった原稿につけた挿絵です。(了)

はしの002


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