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ミーハー記念日第5回 絵を描く人〜安西水丸さん〜

「絵を描く人」
 
「じゃあ、踏み切りの横の古本屋、あそこに6時半ね」
そう先生がおっしゃったので、僕と目黒(目黒雅也:彼は大学の同期です。ミーハー記念日にはこれ以降ときどき登場するかもしれません)は教室で時間を潰すと約束の時間の少し前に待ち合わせの本屋へ行き、立ち読みをしながら先生を待つことにした。

ここでいう「先生」とはイラストレーターの安西水丸先生を指す。僕と目黒は大学3年の時に先生のイラストの講義を受講しており、4年生になると目黒は安西先生のゼミを取り、僕は別の教授のゼミを取った。僕は安西先生のゼミを取ってはいなかったが教室にお邪魔して先生の話を聞いたりしていた。それで、ある時期から僕たちはよく授業の後で先生にお酒を飲みに連れて行ってもらうようになった。この出来事は僕の大学時代の話である。

僕たちの少し後で先生は店に入って来て本棚を見つめ、そこから2冊を手に取るとレジへ行き、それらを購入した。先生は実に手早く本を選ぶのだった。
その後で、線路を挟んで反対側のよく行く飲み屋へと向った。
何本かビールを飲んで僕がホロ酔いになったところで先生がおっしゃった。
「本田さ、いやぁ、偉いと思ったよ」
「え?なんですか?」
僕は先生に褒められることなど何ひとつ思い当たらなかったのですぐに聞き返した。
「いや、さっきの古本屋で本田の後ろ姿に気が付いたの。でもほら、ブルマか何かの本見てただろ?だから僕声かけなかったの。偉いなーと思って。尊敬できるよね、そういうトコ」
僕は古本屋でエロ本を立ち読みしているのを先生に見られていたのだった。実はこのとき、僕は背後に人の気配を感じ、振り返ると先生が遠ざかって行くのが見えた。それで「ああ、こういう時はそっとしておいてくれるのだな」と思ったのだが、違った。忘れた頃に酒の肴にされてしまったのだ。

しかし、先生と飲むときには僕より目黒の方がからかわれることが多い。
いつだったか映画の話題になった時、黒澤明とヒッチコックを好きな目黒が黒澤映画について語り出した。僕は彼の勧めで黒澤とヒッチコックを何本か観て、両監督についての話を彼と随分話していたので、このとき目黒は先生に向けて熱く語った。
「黒澤ってすごいですよね、やっぱ最近の映画でもあれを超えるのってないですよね」
「うんうん」
熱っぽく語る目黒に先生は相槌を打つ。
それからひとしきり黒澤映画を語った目黒がヒッチコックに話題を変えようとしてこう言った。
「あの、先生、僕は黒澤とヒッチコックが好きなんですけど、ヒッチコックは観たことありますか?」
先生の相槌が止まった。目が点になり、僕の方を見て言う。
「本田、聞いた?」
「はい」
僕はニヤニヤとしながら答えた。
「今まで僕にヒッチコック観たことあるかって聞いたのは目黒が初めてだよ」
にっこり笑いながら先生は言った。

安西水丸と言えば長い間キネマ旬報に連載を持っていて、過去に読者賞を受賞したりしている。「安西水丸の2本立て映画館」等、映画について書いた著書も多い。それにこの当時は「Can Do ぴあ」という雑誌にも映画についてのコラムを連載していた。他にも映画についての文章を色々なところで目にする。その先生に向ってヒッチコックを知っているか、と聞けるのは確かに目黒以外にはなかなかいない気がする。
誰だって何かをする際にはその前にしていたことから次にすることへと頭を切り替える。本を読むときは本に集中するし、料理のときは料理のことを考える。頭の中のスイッチを切り替える。
目黒はそのスイッチがかなり強力なタイプのようで、絵や文章をかいているときは話しかけても一切耳に入らない。何をしていても集中力に欠ける僕とは正反対のタイプである。
話をするときでもそれは同じで、話すことにとても集中するから、それはもう本当に演説の様になる。だからスイッチが入ってしまうと、彼はヒッチコックについてでさえ、自分が誰より詳しいかの様に熱く語ることになる。
そんな勢いのために「先生、ヒッチコック観た事ありますか?」という言葉が飛び出してしまったのだろう。
「今日これから稲越功一さんっていうカメラマンに会うんだけど、その人に言うよ。今日、僕にヒッチコック見たことあるかって聞いた学生がいるって」
苦笑いする目黒を追撃する様に、先生はそんなことを言って彼を思いっきり冷やかした。
また、酒を飲み始めてしばらく話が進むと必ず女の子の話題になるのだが、そこで先生が目黒に向って口癖の様に言う言葉がある。
「まあ、目黒は女知らないからなあ。」
先生は飲みの席での目黒の女の子の話題のほとんどをこの一言で締めくくろうとする。それを受けた目黒が
「ちょっと待って下さいよぉ、そんなことないですよぉ⋯」
と、返したところで間髪いれずに先生が言う。
「冗談だよ、ほら、すぐ本気にする」
「あ、いやぁ、ははは」
また目黒は苦笑する。
このやりとりは飲みの席で何度となく登場する。
同じ日でさえ、しばらく話が盛り上がった所でふいに同じ言葉が並ぶ。

「⋯やっぱり目黒は女知らないからなぁ」
「ちょっと待って下さいよー」
「冗談だよ、本気にするなよ」

何度でも鮮やかに決まる。僕は目黒の事をこれほどまでに手玉に取ることができる人間を他に知らない。目黒を手玉にとって遊ぶ事は容易ではないのである。本気の彼を中途半端に冷やかせば火傷するのは多くの場合相手の方である。
そんな彼も先生との会話の中ではすっかり心を許して笑いのネタになることができるのだった。

先生01

(絵の説明)いつもまずビールを注文するのだが先生と目黒はいち早く日本酒に切り替える。

そんな酒の席だけではなく授業が終わった後の教室でも印象深い出来事は多い。
僕たちが先生の方に近づいたとき、ふいに心の中を読んでいるのではないかと思えるような発言をされることがある。このことについては先生とよく一緒に仕事をしている村上春樹氏や、誰だか忘れてしまったが女性の作家も何かの本に書いていた。少し似ているのでここで村上氏の経験をごく簡単に紹介する。

あるとき、皮の手袋をなくしてしまった村上氏は「新しいのを買わなければ」と思っていた。そんなとき打ち合わせか何かで安西先生と会う(この時は初対面ではない)。そのときに先生が「これ、あげる」と言って差し出した袋の中に入っていたのが、なんと皮の手袋だったという(確かこんな感じの話だった)。
こうやって簡単に書くとなんでもないことに思えるが、あまりのタイミングの良さに村上氏はかなり驚いたようだ。こういった先生との体験談をいくつか目にしたことがある。

さて、僕はといえば別にプレゼントを頂いたわけではないが実にぴたりと核心を突いたことを言われて驚いたことが何度もある。
ある日の放課後、先生と目黒と僕の3人が教室で話をしていたとき、僕はその後バイトがあったので先に帰ることを先生に告げた。
すると先生がおっしゃった。

「僕もね、学生時代にバイトしていたけどそのバイト先の人がまったく気の弱い人で、自分の所じゃ大きなこと言うんだけど、実際仕事になるとクライアント(依頼人)の言いなりでね。『こういう人にだけはなってたまるか』って思いながらやってたよ」

それを聞いて僕と目黒は思わず顔を見合わせた。
普段からバイトについての話を目黒にしていたのだが、僕はバイト先で、先生がおっしゃったのとよく似た状況にいて、僕が「これからバイトに行く」と言っただけで先生の方からそんな言葉が出て来ることに2人とも驚いてしまったのだ。先生は前触れなく核心を突くのでいつもびっくりしてしまう。
それ以前にも目黒が女の子のことで悩んでいるときに先生がサッと現れて、「今君についてこない女は一生後悔するよ」と言ったことがあるのだが、この時も目黒が相談を持ちかけたわけでもなく、話の流れからというわけでもなく、実に唐突だった。
と、ここまででは「偶然」とか「感情が顔に出ていたからだ」とか思われるかもしれない。確かに、顔には出ているのだと思う。だから感じ取ることができるのだと思うが、それにしても核心を突いていすぎてコワイのである。次の話はどうだろう。

これもやはり授業が終わった後のことである。
先生を囲んで何人かで話をしていた時に何の脈絡もなく先生が僕におっしゃった。
「本田、女は肩を抱いてグッと(体が)硬くなったらダメだよ」
僕はこれを聞いて心底ゾッとした。
もしかしたらこの時、僕の顔はひどく紅潮していたかもしれない。そのくらい驚いた。

その頃、僕は目黒とデザイン事務所を立ち上げて活動して行く為に事務所兼自宅としてマンションを共同で借り、共同生活に入るほんの少し前だった。
それまで一人暮らしだった僕は「共同生活になったらなにかと自由がきかなくなることも多いかもしれない」といういやらしい考えがあったので、「その前に」とばかりにあまり親しくもない女の子とお酒を飲んでその娘のマンションへ行った。そして、その日の最終到達点が「肩を抱く」だったのだ。
それが先生の授業の前日のことだった。先生に言われて彼女が確かに「硬く」なっていたのを思い出した。それにしても話の流れでそういうことを僕が言っていたならまだしも全く別の話題から前日に僕の身に起った出来事についてのアドバイスへと飛んでしまったのである。こんな事があっていいのだろうか?ああ、今思い出してもゾッとしてしまう。

先生02

その的確さとタイミングは思わず「先生、覗いてたんじゃないですよね?」と聞きたくなるほどだ。

そんな事が何度かあったものだからすっかりその力を信じてしまった僕は以前先生が風俗について取材して文章を書いていたことを思い出し、それについて聞いてみた。
「先生、そんなに色々見えてしまったら女の子たちの背景にあるものが見えすぎてつらくなかったですか?」
「そこまでわかるものじゃないよ」くらいの返事を予想していた僕に先生はおっしゃった。
「うん。大丈夫なの。僕そういう時は念力切っておくから」
念力!!
先生は自分の力を「念力」とまで呼んで認識しているのだった。しかも「ON」、「OFF」があるらしい。
恐るべし「絵を描く人」。
プロとして絵を描く人の「目」にかかっては人の行動や心の内を見抜くくらいはなんでもないことなのだ。そしてその「目」こそ「絵を描く人」が「絵を描く人」たる最も大きな理由のひとつなのではないだろうか。

※このテキストは2000年頃に執筆し、2005年頃に某出版社から発行される予定だったものです。15章ほど書いた後で出版が中止になりお蔵入りしていましたが久しぶりにnoteにて公開させていただきます。




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