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ミーハー記念日第10回 写真を撮る人〜荒木経惟さん〜

※こちらの文章はまだ挿絵がない状態の不完全のものです。

「写真を撮る人 その2/女を観る人」 

 大学の卒業式の夜にヒロミックスさんと出会い、その9ヶ月後に青山通りのスーパーで彼女に再会したあとで、僕の彼女への想いはかなりのピークを迎えていた。
 結婚してえ。
 でもその頃になっても当然、僕には彼女と再び会うきっかけもなければ、「ス・スシターズ」結成の糸口もつかめていなかった。
 そんなとき、たまたま目に飛び込んできたのがある書籍の新聞広告だった。僕の事務所のテーブルにたたんで置かれた読売新聞の広告欄には荒木経惟「すべての女は美しい」出版記念サイン会の告知が載っていた。
 ああ、と僕は思った。
 その手があったか。アラーキーといえばヒロミックスさんを世に出した張本人とも言えるヒトである。このヒトに直接会えばとりあえずなにか彼女に会うための糸口がつかめるかもしれない、と僕は思ったのだった。
 記載されたサイン会の場所を確かめると僕の住む駅の隣にある吉祥寺のパルコだった。それで、新聞を見てすぐに書籍を買いに走り、なんとか整理番号を手に入れることができた。このサイン会はその他の多くのサイン会と同じく、会場になる書店で事前に該当の書籍を購入し、同時に整理券を受け取り、数日後のサイン会当日に書籍と整理券を持参して作家がその書籍にサインするというシステムだった。
 とりあえず書籍を買った僕はサイン会当日までの数日間のうちに「すべての女は美しい」を読み終えた。そして奇妙なことに、僕がこの本を読み終えたのは東京ドームの巨人対横浜戦の試合会場だった。(ここでこの試合のチケットを紹介)
 僕は野球にまったく興味がないのだが、なぜこの日東京ドームにいたかというと、読売新聞の集金の担当者がたまたまこの日のチケットを僕にくれたからだった。それで、仕事の気分転換をかねて東京ドームを訪れ、中に入る前からビールを飲んでアラーキーの本を読んだのだった。僕のチケットは立ち見の自由席で、座る場所がなかったので試合が始まってからも、ひと気がない、試合の見えない場所で柱にもたれて座り、ビールを飲みながら本を読んだ。
 アラーキーはその著書の中で語っていた。
「すべての女は美しい」
「女が男の才能を引き出す」
「俺は ヨーコによって写真家になった」
 などなど。
 僕はそれらを、自分とは遠い世界の出来事として読んでいた。
 野球場で試合も見ずにビール片手に本を読む僕の横を何組もの野球帽をかぶった少年たちが通り過ぎて行った。
 僕はその本を読みながらときには涙をこぼし、そのすべてを読み終えると試合の結果も気にかけずに6回半ばで東京ドームをあとにした。


 おかま。
 物心ついたときにはすでにそんなふうに呼ばれることが多かった。友人、妹、身の回りの大人たち、必ずしも同じ言い回しではなかったが、みんな、なんとなくそんな意味の言葉を、僕に向けた。しかし、何度言われてもそれに慣れてしまうということはなく、僕はそういった呼ばれ方を気持ちの良いものだとは思っていなかった。おかま、という言葉は僕をいつもゆううつな気分にした。
 おかま! かまお!
 妹は幼い頃、喧嘩をする度にこんな言葉で僕を罵った。
 また、人に会う度に「女の子のようだ」と言われる僕に対して母は小学生時代のあるとき「赤ちゃんの頃に女の子の洋服を着せたのがよくなかったのかなぁ」などと言う妙な発言をして僕を驚かせた。それまで僕のことを一度として「女の子らしい」などと言ったことがなかった母の、この発言からはなにやら、母が「後悔」をしているようなニュアンスを感じ取ることができた。
 僕は別に振舞いや話し方などが女の子っぽいのではなく、ただ単純になんとなく女の子ぽかっただけなので、自分がれっきとした男であるということには自信を持っていた。しかし、もし母の言うように「女の子の服を着る」という後天的な影響に原因によって僕の持つ女らしさが生まれたのだとすると、僕は多くの人に「女の子みたい」と言われることで、さらにそちらの世界に近付いて行くような気がしてとても不安になった。

 このように女の子らしくみられることについてかなりの抵抗感を持っていた僕ではあるが、しかしそれに反発心を持ちながらも「女らしい」と言われることに関して、「満更でもない」という気持ちがあったことも事実ではある。
 僕のことを女の子に重ねようとする者の大多数は圧倒的に中年の女性であり、彼女たちは僕の肌の色が白いことや、唇が赤いこと、まつげが長いこと、また、体が華奢でなで肩であることなどを賛美しながら、僕のことを「女の子みたいだ」と言った。それ故に僕にとっては男が女らしいと言われることが完全に負の意味だけを持つことはなかった。
 ただし、それはあくまで中年女性の視点の場合であり、同級生や大人の男性は僕をおかま的軟弱ものとして扱うのが一般的だった。外見のひ弱さに加え、スポーツがこの上なく苦手なことも手伝い、多くの場で、軟弱者で男らしさに欠けた者として扱われた。

 スポーツが苦手だとそれに関する興味も深まることはないので当然好きなプロ野球チームなどはなかった。
 そればかりか、野球に対しては反発心さえあった。それには次のような経験が影響している。
 小学校での授業中、男性の先生が言った。
「プロ野球選手はおそろしく尻がでかい。尻がでかくなければ野球選手はつとまらない」
 そして、その話をしながらクラスの中で野球が得意な生徒の尻を見てまわった。先生に指名されて席を立った彼らの尻は、先入観も手伝ってか、普通より立派に見えた。ところがどういうわけか、先生は野球がめっぽう苦手な僕の尻にも目をとめた。そして先生に言われて僕が席を立つと、クスクスと笑いが起こった。
 この時、初めて僕は自分の尻が人よりかなり大きいということを知ったのだった。そして、それ以来、僕は「女みたいな歩き方」だとか、時には「モンローウォーク」などと言ってからかわれた。尻をフリフリ歩くのであのマリリンモンローの歩き方に似ているとのことだった(それまでにも家では母が時々僕のことを「出っ尻君」(でっちりくんと読む)と呼ぶことがあった)。
 モンローウォークは特に定着したあだ名ではなく、一時的なものだったが、それでも高校生になってまで、時々女子生徒に「本田、ケツふって歩くな!」などと言われたりもしたので、僕は実際におしりをフリフリ歩いていたようである。

 中学校に入ってからは学生服になったこともあってか、おかまと言われることは減ったが、周りの男子生徒にくらべて生来声が高いことと、さらには声変わりの時期が少し遅かったことも手伝って、合唱コンクールなどではボーイソプラノと呼ばれてからかわれた。
 そんなふうに僕はつねに女の子っぽさをからかわれることが多かったので、思春期を迎えた中学生の頃になると「自分の中に女性がいるのかもしれない」という不安はしだいに大きいものになっていった。



 中学生になった時、僕の両親は僕にひとりの家庭教師をつけた。 
 彼は国立大学で理系の勉強をしている学生で、僕の家庭教師を始めた時、18か19才くらいだった。色白で無駄な脂肪のない体つきをしており、穏やかでやさしい性格だった。
 彼が僕の家庭教師になったきっかけはアルバイト教師斡旋業者の紹介で、僕が当時スイミングスクールに通っていたことが決め手となり、昔から水泳をやっていて高校や大学でも水泳を続けていた彼を、同じ趣味を持つ者として僕に紹介したのだった。彼は僕の通っていたスイミングスクールの卒業生でもあった。
 スポーツが苦手な僕がなぜこの時点でスイミングスクールに通っていたかというと、理由はただひとつ、僕はいつもなで肩であることを頻繁に笑われていたからであった。服を選ぶときにも母は「お父さんに負けないくらいなで肩ね」と言っては苦笑していた。そんな僕はあるとき、「第58代横綱、千代の富士は現役時代に肩を壊し、脱臼癖がついてしまったが肩の筋肉を強化してそれを克服した」という感動的な話を耳にした。
 そしてさらに同じ頃、水泳を始めると肩に筋肉が付き、いかり肩になるという話を聞いたのだった。これは僕が小学校5年か6年の時だった。小学校高学年というと普通、幼年期から水泳を続けてきた子供が、そろそろ勉強のために水泳を辞める時期と一致していた。急に水泳に目覚めた僕に対して両親は驚きを隠せない様子だったがまさか「なで肩修正のため」という理由は告白することができないまま、僕は突如としてスイミングスクールに入門したのだった。
 しかし、現実は残酷だった。初めて水泳を習った僕は初歩の初歩コースから始めなければならず、いつも一緒に泳いでいたのは小学校2、3年生だった。水に入っている時は良いが、準備体操や順番待ちで並んでいる時は体半分僕が飛び抜けていた。一緒に泳いでいる仲間から見ても僕が場違いなのは歴然としていた。しかしプールは自宅から遠く、知人はいなかったし、また苦痛にたえて肩を鍛えた千代の富士のことを思って自分のなで肩矯正のために水泳を続けた。

 少年期の僕が女性的に見えていた要素の1つとも言える「なで肩」を克服するために始めた水泳。しかしそれが、結局のところ裏目に出て思春期の自分を悩ませることになるとは思いもよらなかった。
 家庭教師の先生は、大学の水泳部の練習のあとで僕の家へ来て勉強をみてくれることが多かった。ときには部活と勉強の時間が近すぎて、先生の髪がしっとりと濡れていることがあった。そんなとき、先生はシャンプーのにおいがした。
 そういうわけで、僕は非常につらい想いをしたのだった。初めの1年はなんということはなかったが、中学2年生になる頃には、僕は思いっきりこの高校を出て間もない青年を意識しまくってしまったのである。僕はこのころ既に自慰を覚えていた。確固たる性の目覚めである。
 しかし、先生への想いは直接的な恋心ではなかった。僕には学校に好きな女の子がいて、それまで男性に対して恋心を抱いたことはなかった。それでも僕は先生にドキドキした。これは僕が幼少の頃から「女の子みたい」と言われ続けてきたが故の感情だった。
 そんなことを言われ続けた僕は中学生になった頃には、自分が男であり続けることに自信を失いかけていた。思春期特有の、心身の目覚ましい成長と共に明日にでも自分の中の「女性」が目覚めるのではないか、という不安がそれまでとは比べ物にならないくらい肥大していた。
 そして間の悪いことに、ある時期から先生は家庭教師と平行して、自分が水泳を学んだスイミングスクールで水泳を教えるアルバイトも始めたのだった。僕の通っていたスクールである。そして、スクールの講師は数多く在籍しているはずなのに、先生はなんの巡り合わせか僕のクラスを担当することになったのだった。
 こうして家での教師と生徒としての付き合いだけでなく、ブーメランパンツ一丁の先生と僕との裸の付き合いが始まってしまった。僕は否応無しに先生をより強く意識せざるを得なくなっていったのである。
 僕の部屋での授業中、僕は「先生を好き」という感情を否定も肯定もできないまま、先生がノートにのせる指先に、ぼろぼろのジーンズから覗く大腿に、水泳で鍛え上げられたがっちりとした首筋に胸を高鳴らせた。
 しかし、やはりこれは恋心ではなかった。先生の指先や横顔を見つめながら、僕の鼓動は高鳴ったが、それは「手が好き、横顔が好き」という感情ではなく、「この手を好きになったらどうしよう、横顔が好きで好きでしかたなくなったらどうしよう」という感情だったのである。自分が「女」に目覚めたから高鳴るのではなく、目覚めることを想像して高鳴っていたのだ。
 その証拠に、先生がそばにいないときには先生を想像して胸を高鳴らせるということは一度もなかった。そして、ある時期から僕は先生と僕の間に間違いがないよう、念には念をいれて、なるべく早めに学校から帰り、とりあえず自慰行為を済ませてから先生との授業に臨んでいたのだった。
 もちろん、その自慰行為の最中、僕の妄想の中にブーメランパンツの先生の姿が現れたことは一度としてなかった。そこにいたのはいつも僕の机の引き出しの中に隠されていた「資料」に登場する女の子たちだった(それにしても事前にちゃんとすっきりしてから授業に臨むというのは、今想えば邪念を払って勉学に励もうとする学生のお手本のような行為である)。
 そんな事前の処置の効果もあってか、僕は「女」に目覚めることなく中学時代を通り過ぎた。高校になるとこの件に関しては、中学生の頃よりはずいぶん冷静に自分自身を見つめることができるようになっていた。
 それでもエプロンを着用して両親の店の手伝いをしていると、ときに口の悪いお客さんが皿洗いをしている僕を覗き込んで「なんだ、息子って言ってもおかまじゃねえか」などと言うことがあり、腹を立てたりもした。

 高校ではなぜか僕が入学した年から学園祭で「ミスターレディコンテスト」という男子生徒の女装コンテストが始まり、これは不思議なことに僕が卒業した翌年に廃止になった。
 学園祭の時期になると毎年のように僕はクラスメイトからこのコンテストに出場するように勧められた。彼らはいつも締めきりギリギリまで僕を出場させようとするのだった。
 ときには可愛い女子生徒が、「わたしがちゃんと優勝できるようにしっかりメイクして、衣装もキめてあげるから」などと言ったので心が動きそうにもなった。彼女が私服を貸してくれるならそれを着てみるのも良いかな、などと思ったりした。
 が、しかしそれでも僕は決して出場しなかった。こんなことで目覚めたら、悔やんでも悔やみきれるものではない、と当時の僕は思っていた。そして、本音を言えば、この頃の僕は幼い頃から言われ続けてきた自分の「女の子ぽっさ」に多少の自負を持ちはじめていた。というのも、高校くらいになると中年の女性だけでなく同年代の少女たちのなかにも色が白いこと、まつげが長いことを羨む者が現れ始めたことが主な理由だった。そんな自負がある以上、簡単にコンテストに参加して運動部男子生徒のノリだけの女装に負けるわけにはいかないと思った。
 高校3年、最後の学園祭でも僕はクラスメイトに出場を勧められた。僕は憂鬱だった。しかし高校3年の同じクラスには結構ノリの良い女の子の集団がいて、その中の1人が僕を何度も積極的に勧誘した。
「ねえ、ちゃんと勝たせてあげるから出なさいよ」
「いいよ、出る奴なら他にいると思うよ」
「何言ってるの、大丈夫、勝てるから出なさいよ」 
「やだ、勘弁してよ」
「ふん、なによ、本当は出たいくせに!」

彼女は、決して言ってはいけないひとことを言った。

「本当は出たいくせに」
そうだよ、ああそうだよ、図星さ。そりゃあ俺だって自分がどこまで行けるのか自分の可能性の限界を試してみたいさ。唯一の、僕の目に見える個性を試すチャンスだからね。でも、それだけに僕は出場することができないんだよ。ここで負けたらなにかも失っちまう気がして出られないんだよ!
 と、3年間、一度も考えたことがなかった感情が溢れ出した。しかし、僕はそんなふうに思ったことは決して口にせずに、ただひとことだけ、彼女に向けて言い放った。
「素人大会だろ(傍点)?俺が出る場所じゃないよ」
 それから二度と彼女がこの件に関して僕に声をかけることはなかった。


 アラーキーは、テレビや雑誌で見て僕が知っている彼とほとんど同じだった。漫画のキャラクターのようにコミカルで、楽し気だった。体の太い・細いでなく、輪郭線そのものが太くみえた。あれがオーラと言われるものなのかもしれない。いや、違う気がする、もっと確固たるものだと思う。
 僕の前にサインをしてもらった女性は妊婦さんで、荒木さんはお腹の子供について彼女に訪ねた。彼女は「双児なんです」と答えた。すると荒木さんはにこにこしながら「ARAKISS(アラキッス)」という自身のサインの脇に自分の似顔絵を2つ描いて彼女に渡した。似顔絵は通常は1つだけ描くのだが、双児にちなんで2つ描いたのだった。妊婦さんはそれはそれは、もう、感激していた。
 そして! 僕の順番になった。
 僕が彼の前に歩み出ると彼は
 「あれ?吉祥寺に2丁目はあったっけ?」
 と笑いながら横に付き添っている編集者に訪ねた。編集者は、ありませんよ、と答え苦笑した。ここでいう「2丁目」というのは当然新宿2丁目のことである。このサイン会の数日前に髪を短くし、ベリーショートだった僕はいつもに増してそのように見えたらしい。嫌な気はしなかった。嬉しい、と思った。僕は言った。
「次回までに吉祥寺に2丁目を作っておきます」
 気の利いた言葉も返せずに訳のわからないことを言ってしまった僕に編集者は「作るって・・・」と、突っ込みともつかない突っ込みを入れてくれた。
 荒木さんは笑いながら、
「男にキッスもないんだけどねえ、まあいっか」
 といって僕の本にも「ARAKISS」と書いてくれた。

 おかま、女形、モンローウォーク。出っ尻君に、ボーイソプラノ。
 数々の思春期の苦悩がこの日初めて報われた気がした。いや、実際は別に何も報われてはいないのかもしれないが、とにかくそんな気がしたのだった。
 サイン会の会場では事前にアンケート用紙が配付され「荒木さんへひとこと」という欄があり、僕は「ヒロミックスさんと結婚したいのですがどうしたらいいでしょうか?」というようなことを書いて提出していた。結局荒木さんがそれについてコメントすることはなかったが、とにかく僕はこの日、とても良い気分で家路についた。 
 
「女が男の才能を引き出す」

 と、アラーキーはその著書の中で言った。
 少年時代から十数年が経ち、女っぽいなどと言われることもなくなった僕は、今こうしてこの原稿を描き、それが仕事になっている。それは、才能というほどのものでもないかもしれない。しかし、少年時代の僕を悩ませた僕の中の「女」が、多少なりとも今の僕にとって何らかの力になっている、と考えることはできる。
 そう思うと、少し、自分の過去が愛おしくなる。

※このテキストは2000年頃に執筆し、2005年頃に某出版社から発行される予定だったものです。15章ほど書いた後で出版が中止になりお蔵入りしていましたが久しぶりにnoteにて公開させていただきます。


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