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挽歌

挽歌=葬送のとき、柩を載せた車をひく人たちがうたう歌。 また、人の死を悼んで作る詩歌。 哀悼歌。

人間には「三つの死」があるといいます。

この三つの死、SNSの世界(特に裏垢)にも通じる考え方のように思います。

心臓が止まる時とはアカウントが消える時。
埋葬や火葬をされた時とは、ツイートやDMなどの履歴が消えてしまった時。
そして、人々がその人のことを忘れてしまった時とは同様にそのアカウントが存在したことが人々の記憶から消え去ってしまった時のことでしょう。

僕も最近何人かの死(垢消し)に触れることになりました。

当然の事ながら、アカウントを削除する行為は自らの意思で行われるはずで、その全てが自死に当たる訳です。

運良く息を吹き返して(垢消しを思い直して)死の淵から蘇ってくる人もいれば、そのまま旅立ってしまう人もいます。

当の本人からすれば何らかの事情、都合があって垢消しするのですから、他人が口を挟む権利などないのですが、僕の場合はどうしても喪失感に襲われてしまい、なんとも言えない無常感に包まれた数週間を送ることになってしまいます。

そうこうするうちに埋葬され(履歴が消え)、往時のことを思い出す材料やきっかけが次第に少なくなっていき、遂には思い出すことも無くなり、三つ目の死を迎えることになるのでしょう。

ある場合を除いては。

忘れ去られれば死ぬということは、逆に言えば、わたしたちが語り継ぎ、記憶にとどめているかぎり、死者も永遠に生き続けるということだ。

Lee Unkrich

これは、冒頭に引用した、映画「リメンバー・ミー」のリー・アンクリッチ監督の言葉です。

現実の「死」においては、この死者を記憶に留め、永遠の生を与える行為は世界各地で当たり前に見られ(日本でも精霊流しや迎え火があります)るわけで、人としてはむしろ自然な行いだと思いますが、こと裏垢では少し話しが違ってきます。

死者からすれば三つ目の死も当然に受け入れており(いや、裏垢ではむしろこの第三の死こそが自死の主たる目的であるかも)、永遠の生なんかは求めていないのかもしれませんが、死人に口なし、残された者のわがままとして、何とか記憶の中に残し続けていきたいなあ、と薄れゆく記憶の欠片を拾い集めながら、思っています。

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