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【聖安彦良和信仰】【安彦良和論】2(全5)「機動戦士ガンダム」の芸術家は誰だ!その一

第二章「機動戦士ガンダム」は誰の作品だろうか?

"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."

1 「機動戦士ガンダム」の大成功は「欲望の汚がれ」に満ちているぞ!

この婚礼は欲望の汚がれにみちているぞ
  1. 「機動戦士ガンダム」は「富野由悠季等(監督担当/原作担当)」の作品だろうか?

  2. 「機動戦士ガンダム」は「安彦良和(原画担当/キャラクターデザイン担当)」の作品だろうか?

「芸術」とは「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」を貶め弾圧し「前衛詐欺(屁理屈)」を崇拝し賛美する「敵対感覚(原罪)」への嫌悪の感性である。
前衛詐欺(屁理屈)」を崇拝し賛美する「敵対感覚(原罪)」を「禁忌」とし「信仰」を至上とすることを示している。
「前衛詐欺(屁理屈)」を崇拝し賛美する「敵対感覚(原罪)」とは黒ミサカルト(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)のことである。
「前衛詐欺(屁理屈)」を崇拝し賛美する「敵対感覚(原罪)」は最高善の神に対して「堕天使ルシフェル」がマウンティングすることで大弾圧を起こし侮辱することである。

マウンティング【mounting】
哺乳類の雄が雌の尻に馬乗りになり交尾の姿勢をとる行動。ニホンザルでは社会的順位を確認するために上位のものが下位のものに対しても行う。

『広辞苑 第六版』 岩波書店

2 「機動戦士ガンダム」とは?「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)の安彦良和」or「ガンダム神話(トートロジーと循環論証)の富野由悠季等」

「機動戦士ガンダム(「機動戦士ガンダム」&「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」)の描いた世界は最高善の神を至上とする「Holy Communion」の物語である。
「時の徴」とは「最高善の神の歴史」であり「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」である。
しかし富野由悠季等の描く「機動戦士ガンダム」は「Holy Communion」は存在しない。
それは「ガンダム神話(トートロジーと循環論証)」を形成しているのだ!

※安彦良和のガンダムは「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の受肉した「時の徴」の物語である。

3 ではガンダムの魅力を明確化したい。

これは富野由悠季等の存在によって可能となった作品であるのか?
そうであればそれはガンダム神話(トートロジーと循環論証)となる。
それはガンダムの異常な程の大ブームが神話化(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)されたことによっている。
ただその人気の理由の解明が為されていない。
何故ならこの人気の秘密は「富野由悠季等」ではなく「芸術家安彦良和」の描く「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」にあったからだ。
そこが解明されなければ「機動戦士ガンダム」は神話化(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)され、その「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の作者である安彦良和の芸術家としての評価は貶められ封殺される。
ではこれは安彦良和の存在によって可能となった作品であるのか?
安彦良和は最高善の神との関係で形成される「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」を描いた芸術家である。
それは「Holy Communion」によっている。
「時の徴」であり聖書を示している。
ガンダム神話(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)とは「ガンダム」が神とされた「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」の作品となっている。
ガンダムが神なのだ。
しかし「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を入れる場所を確保した作品は「至高の抽象化の高み」の作品と言える。
「神話」と「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の違いは「プロテスタント」と「カトリックロゴス」の違いであり「商品崇拝」と「芸術信仰」の違いとなる。
庵野秀明等は芸大出身をひけらかし芸術エリートとしてオタク芸術を謳っているが実際は「カルトアニメの神話化(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」であり「カトリックアニメ(Holy Communion)」に対する「敵対感覚(原罪)」を謳うプロテスタントアニメでありアニメ商品崇拝でしかないのだ。
これは新海誠にも同様のことが言えるだろう。
それは「デマゴーグの政治的宣伝コンテンツ」の制作であり「犯罪者」を意味する。

4 「プロテスタントのカースト制の神話(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」と「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の概念の違いとは?

しんわ【神話】
myth; mythology
神話 mythはギリシア語のミュトス mythosに由来し,論理的な思考,ないしその結果の言語的表現であるロゴス logosに対し,事実そのものに関係しながらもその背後にある深い隠された意味を含む「神聖なる叙述」とされる。人間を取巻く宇宙や自然の起源とそのあり方,したがって人間自身の起源とそのあり方を説明したり,規定したりする集団表象であるが,その際必ずなんらか超自然的存在を引合いに出し,それとの関連において解明が試みられる。神話を最初に批判したのはギリシア人であって,神話の非合理性の批判からギリシアの哲学は発生し発展した。伝統的社会のように神話の生きている社会では,神話的伝承ないし儀礼を繰返すことによって一定の重要な呪術的効果が期待される。こうして社会存立の根本にかかわる重要な文化的機能を神話はもっているが,非合理な神話を信じない文明社会では,哲学や科学や政策が神話に取って代る。神話としては宇宙創造神話(→宇宙開闢説)が基本的なもので,そのうえに太陽,月,星に関する神話,雷や風雨,洪水に関する神話(→洪水神話),火の⇨起源神話,祭儀,風習神話,人類発生神話,恋愛,婚姻神話,英雄神話などが展開される。そしてその中心ないし背後にある霊格,霊能に対して人がどういう態度をとるか,そこに呪術的,宗教的なものがからんでくる。神話には現実生活の理想的形態が凝縮された姿で投影されるとともに,逆に現実生活にそれとは意識されずに相当強力な影響を及ぼすこともある。
『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

せいしょ【聖書】
Biblia Sacra; the Holy Bible
⇨ユダヤ教と⇨キリスト教の聖典。キリスト教の聖書は⇨旧約聖書と⇨新約聖書からなっているが,ローマ・カトリック版の旧約聖書はプロテスタントが外典とみなしている書を含むため,多少大きくなっている。ユダヤ教の聖書は,プロテスタントにとっての旧約聖書だけをさし,ユダヤ教とキリスト教とでは,正典の並べ方がかなり異なる。プロテスタントとローマ・カトリックの並べ方はほぼ同一である。
伝統的にユダヤ人は,聖典(旧約聖書)を3つのパートに分けている。トーラー(律法)あるいは⇨モーセ五書,ネビーイーム(→預言書),そしてケスービーム(諸書)あるいは聖文学である。モーセ五書と⇨ヨシュア記の六書には,イスラエルの国がどのようにして成立し,またどのように約束の地を手に入れたかが解説してある。預言書に分類されている個所も,約束の地におけるイスラエル人の物語の続きが語られ,王政の成立と発展,さらに人々に対する預言者たちのメッセージが記されている。諸書は神の摂理の中で起る悪と死について思索する書(→ヨブ記, ⇨伝道の書)や詩的文学,そして追加されたいくつかの歴史書などが含まれている。
旧約聖書における外典には,さまざまな種類の文学が描かれている。外典の目的は,明らかに正典とされているものの間で生じる相違点と,紀元前2世紀までのイスラエルの歴史の狭間を埋めることにあるようだ。
旧約聖書と比べると,新約聖書はキリスト教の聖書の中で占める割合がかなり短くなっているが,キリスト教の広がりを通して,その影響力は多大なものとなっている。旧約聖書同様,新約聖書も数々の書を集めたもので,さまざまな初代キリスト教文学を含んでいる。四福音書は,クリスチャンによって思い起こされた形でイエスの生涯,人物像,教えなどが描かれている。使徒の働きは,イエスの復活からパウロの働きの最後までを扱っている。書簡は,使徒パウロをはじめとする初代キリスト教のさまざまなリーダーたちによる書状で,あらゆる必要と初代クリスチャンたちが抱えていた問題について書かれた教会宛のメッセージである。黙示録は,初代クリスチャンの運動に見られた終末論的文学を大きく取扱った唯一の正典である。
またユダヤ教の聖書,あるいは旧約聖書の原書は,ごく一部⇨アラム語で書かれた個所がある以外はほとんどすべてヘブル語で書かれた。新約聖書は,ある部分だけ最初アラム語で書かれた可能性もあるが,当初おそらくすべてギリシア語で書かれたか,記録されたと思われる。ペルシア帝国が地中海流域を支配していたとき,アラム語はその地域の共通語となり,捕囚に連れて行かれたユダヤ人たちは,そうした言語的理由からトーラー(モーセ五書)を伝統的なヘブル語から共通語へ翻訳しなければならなかった。こうして生れた⇨タルグムはオリジナルのヘブル語の巻物が失われた後も残ることになった。のちの紀元前3世紀中期にギリシア語が主流になると,ユダヤ教の神学者たちは徐々にヘブル語の正典からギリシア語へと翻訳していき,現在ではその翻訳は『七十人訳旧約聖書』(→セプトゥアギンタ)として知られている。最終的に,キリスト教が広まるにつれてさらにコプト語,エチオピア語,ゴート語,ラテン語などに翻訳する必要が出てきた。聖ジェロームは 405年頃,ある部分を『七十人訳旧約聖書』をもとにして翻訳しはじめたラテン語版聖書ウルガタを完成させた。筆工によって変造がなされたにもかかわらず,『⇨ウルガタ訳聖書』は 1000年以上もキリスト教の規範となった。
聖書の資料は,旧約聖書のほとんどの書の著者は判明しておらず,多くの場合編集が個人によってなされたのか,あるいはグループによってなされたのかもわかっていない。にもかかわらず,内部の証拠を丹念に調べた結果,神学者たちはある資料の特徴を把握し,書かれた年代順に並べることができるようになった。基本的な五書の資料を区別し,それらの年代を設定する方法によって,イスラエル文学と宗教的な進展は初めて明確に把握されるようになった。それらの資料の今日知られている名前を年代順に挙げていくと,まずヤハウィスト(J)資料が挙げられる。ヘブル語による主の名前を英語に訳すと YHWH(Jと呼ばれるのはドイツ語の JHVHから)になり,発音するとヤハウェと言うのでそのように呼ばれる。次はエロヒスト(E)資料で,主をエロヒムと呼ぶことから,そう区別される。第3番目は申命記的(D)資料で,他とは異なる特有の言葉や形式が特徴である。第4番目は祭司的法典(P)資料で,儀式の手引きについての詳細についてふれている。
旧約聖書の資料は,ほかにもその後多数確認されている。その中には,今日現存していない最も初期の頃のユダヤ文学の書で,部分的に早い時期に書かれた物語に取り入れられているものも2つほど含まれている。それら『ヤハウェの戦いの書』 Book of the Wars of Yahwehと『ヤシャーの書』 Book of Yasharは,おそらく詩文体で書かれたものと思われる。
新約聖書の資料は,先に興った口伝の伝統とともにキリスト教聖典から構成される原文からなる。初めの3つの福音書は,共観福音書と呼ばれ,同じ資料を共有している。『⇨マルコによる福音書』は『⇨マタイによる福音書』と『⇨ルカによる福音書』の資料として用いられ,後者の2つはQ(ドイツ語の Quelle=資料から名づけられた)と呼ばれ,おもにイエスの格言からなる別の同じ資料をもとに書かれているという意見が現在ではいわれている。ヨハネの福音書は,明らかに独自の伝達方法をとっている。ほとんどの旧約聖書の著者は不明なのに対し,主要な新約聖書の出所は知られており,したがって研究において重要な仕事はもとの直筆原稿にできるだけ近い形で原文を保存することになっている。証拠の主要な資料は,2~15世紀にわたるギリシア語の新約聖書の写本,シリア語,⇨コプト語,ラテン語,アルメニア語,グルジア語など他の言語の初期の頃の訳,初代教会の著者による新約聖書からの引用などである。
それらの資料は,ひとまとめに「証し」と呼ばれる。現代翻訳されているものの中で信頼できる聖書はたいてい,証しがさまざまな読み方を示す折衷主義的な原文をもとにしたものである。そのような場合,文脈と一般的に知られた著者の文体に最も合う読み方をするのが好ましい。原文をこえて口伝の伝統を再現しようという試みは,伝統批判主義として知られる聖書批判の分野である。最近の神学者たちは,伝えられていく過程で付け加えられていったものを取り除いて,イエスがまさに語ったと思われる言葉をよみがえらせようとするそのような方法を試みている。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
『旧約聖書』レビ記第5章,10世紀の律法より部分,大英博物館蔵

それは「機動戦士ガンダム」が「神話(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」の「前衛詐欺(屁理屈)」の批判としてあり「Holy Communion」を受肉した「時の徴」の文学・芸術作品である理由の解明によって明らかになる。
神話(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)は「前衛詐欺(屁理屈)」の「敵対感覚(原罪)」と呼ばれる。
そしてアニメ「機動戦士ガンダム」は地球連邦のエリートの腐敗が根底にあるとされる。
「前衛詐欺(屁理屈)」の堕落した心理を至上にした黒ミサカルト(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)に対しジオン公国を名乗るスペースコロニーがプロテスタントの「聖戦」として「独立戦争」を挑むストーリーだ。
この作品は「前衛詐欺(屁理屈)」の黒ミサカルト(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)の教祖とその教理の相異なったもの同士の対立として一方がジハードを起こし最終戦争を起こすストーリーである。
しかしジオン公国の支配者であるザビ家はジオン・ズム・ダイクンの宇宙移民の「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」のニュータイプ論を利用しそれを自らの教理とするために貶め弾圧し「前衛詐欺(屁理屈)」の黒ミサカルト(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)を形成した。
そのプロテスタントの教理による最終戦争を聖戦としていたが実際はダイクンを暗殺し其の名を騙って後継者崇拝となり「前衛詐欺(屁理屈)」を正当化した存在にすぎない。
それは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」のオタクのオマージュ(印象操作)である「前衛詐欺(屁理屈)」の「敵対感覚(原罪)」なのだ。
だからジオン公国のザビ家は「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」のジオン・ズム・ダイクンの後継者崇拝として振る舞うが実際には「前衛詐欺(屁理屈)」であり堕落した劣等者にすぎない。
ザビ家のジオン公国は特殊詐欺の典型であるのだ。
(※ジオン・ズム・ダイクンが芸術家安彦良和だとしたらザビ家は富野由悠季等と言えるだろう。)
ただジオン・ズム・ダイクンはザビ家の謀略で暗殺されたとされているが実際は不明とされている。
もし明らかにジオン・ズム・ダイクンがザビ家に暗殺されていたと判明したらジオン公国に「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の正当性はなく「前衛詐欺(屁理屈)」の「敵対感覚(原罪)」でしかないのは明確となる。
一年戦争の「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」のジハードの正当性は失われるのだ。
そうすると明らかな「前衛詐欺(屁理屈)」のサタン崇拝者(INNOCENT)はザビ家のジオン公国とジオン軍とされる。
「前衛詐欺(屁理屈)」のジハードで人類の大半は滅び地球も荒廃したからだ。
だから本作品では敢えて曖昧にされている。
安彦良和の「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」においてジオン・ズム・ダイクンの子弟であるキャスバルとアルデシアはザビ家の謀略で失脚し命を狙われている。
まるでキャスバルとアルデシアは亡命したトロツキーのようであり「前衛詐欺(屁理屈)」のスターリンは目の上のたん瘤であるトロツキーの頭をぶち抜いて砕くことを目的としたことと似ている。
しかしアナーキストのエマ・ゴールドマンの自伝「マイ・リビング」においてソビエト連邦は当初から理想とはかけ離れていたと記されている。
其処にはトロツキーに関する記述もある。
「前衛詐欺(屁理屈)」が「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」を抹殺したというより、完全に失脚した「前衛詐欺(屁理屈)」の「政敵」を暗殺した「前衛詐欺(屁理屈)」を至上とした歴史的暗殺事件だったのだ。
だから此処での譬えはキャスバルもアルデシアも「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」のニュータイプではなく、しかし「前衛詐欺(屁理屈)」の「政敵」として狙われた存在なのだ。
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」として狙われたのではなく、「前衛詐欺(屁理屈)」の「政敵」として狙われたのだ。
「前衛詐欺(屁理屈)」の政敵はお互いが「堕落者」である。
それは「前衛詐欺(屁理屈)」のヘゲモニー闘争でありその政敵同士であるからだ。
「前衛詐欺(屁理屈)」の政敵はお互いでありお互いが堕落しているのだ。
しかし「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」は政敵とは言えないのだ。
「前衛詐欺(屁理屈)」は「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」を攻撃する堕落の肯定と正当化にある。
だから「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」は「前衛詐欺(屁理屈)」のヘゲモニー闘争とは縁がないがその政敵に関わらず全ての「前衛詐欺(屁理屈)」に攻撃される。
ここで言えることは「前衛詐欺(屁理屈)」からは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」は攻撃され又「前衛詐欺(屁理屈)」の政敵も「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を攻撃するのだ。
ここが微妙な関係となるがザビ家とシャー・アズナブルは政敵である。
そして地球連邦軍とジオン公国のジオン軍は政敵である。
(戦争は政治の延長であるとクラウゼヴィッツは指摘している。)
そして「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を持ったニュータイプの存在はアムロ・レイでありララー・スーンであるのだ。
彼らは「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」を至上とする聖人であり「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」である。
それがニュータイプである。
この発想は安彦良和の「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」によって齎されたのだろうと想像する。
何故なら富野由悠季のニュータイプは超能力者でありそれは「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」ではなく「前衛詐欺(屁理屈)」であるからだ。
※超能力開発「強化人間」
ただ「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を超能力者とするならダビデとなるだろう。
そして宮崎駿の「風の谷のナウシカ」の奇跡は「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の奇跡であり、その映画の巨神兵を「前衛詐欺(屁理屈)」としてオマージュ(印象操作)した人造人間エヴァンゲリオン(人型決戦兵器)は庵野秀明の代表作であるが意味不明な超能力として奇跡神話(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)を描いた。
意味不明な「前衛詐欺(屁理屈)」の超能力なら「前衛詐欺(屁理屈)」の「なんでもあり(ご都合主義)」であり「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の奇跡はできないが「前衛詐欺(屁理屈)」の奇跡神話(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)はいくらでも出来るのだ。
それは誠実さが庵野秀明に欠落しているからだ。
「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の「奇跡」と「前衛詐欺(屁理屈)」の「なんでもあり(ご都合主義)」は違うのだ。
「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の「奇跡」は「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」への信仰であり最高善の神への信仰を至上とする。
だから「なんでもあり(ご都合主義)」とは言えない。
「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」となる。
しかし「前衛詐欺(屁理屈)」の「なんでもあり(ご都合主義)」は「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」に対する「敵対感覚(原罪)」としての全弾圧と堕落を齎す。
それは出鱈目でも破綻でも特殊詐欺でも良いのだ。
「なんでもあり(ご都合主義)」とは「前衛詐欺(屁理屈)」であり破綻作品を言う。
誠実さがない人にはできる技である。
しかしそれが芸術家なら芸術とは不浄のものである。
そして「新劇場版エヴァンゲリオンQ」は酷すぎたのだ。
結局「前衛詐欺(屁理屈)」は「出鱈目OK」であり「特殊詐欺OK」であり「インチキ野郎OK」であるのだ。
このような「前衛詐欺(屁理屈)」を持つ日本人は神に嫌われて当然であるのだ。
滅ぶべき日本人であり生きるべきは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を持った存在である。
それを何と名付けようがそんなものに拘るのは「前衛詐欺(屁理屈)」でしかない。
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」は須らく神がお救いになる。
しかしキャスバルはジオン軍にシャー・アズナブルと入れ替わり入隊する。
後に「赤い彗星のシャー」と呼ばれる英雄(特権階級)となるのだ。

以下3(全5)につづく

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