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【聖アニメ信仰】【魔法少女まどか☆マギカ】〈暁美ほむら〉による〈鹿目まどか〉への最愛信仰の歴史的過程は〈暁美ほむら〉の「内面」に刻まれた『聖痕』として永遠の命(パン)となった。


イマーゴ(真善美の回復)を付け回し敵対感覚〈原罪〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)を狙う魔物に対する「護符」
最高善を躓かせる仕掛けとしての敵対感覚〈原罪〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)はサタン(最高悪)の計略でありアンチキリストの純粋無垢で穢のない欲望という屁理屈(前衛詐欺)である。
それは一見クリーンイメージの人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))が形成する天然邪悪の概念である。
それは人間の悪臭を発散しそれを高価な香水で誤魔化している。
聖なる香水とは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」であり聖水と呼ばれる。
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."
ケネディ大統領はアイルランド系であり『カトリック』であった。


最愛信仰から形成されるペルソナ(暁美ほむら)の物語

まえがき

TBS/MBS系アニメ「魔法少女まどか☆マギカ」は近年のアニメ作品の中では比較的面白かった。
この作品はTBSではなくMBS制作のアニメであるらしい。
何がこのアニメ作品の白眉であるかを端的に指摘すれば「アニメ登場人物」の「アニメーションキャラクター立ち」と「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」の両立が成立しているように見えたからであろう。
しかしそのようなアニメ作品が本当に実在しているとしたらそれは大芸術とされるだろう。
ここで「魔法少女まどか☆マギカ」の検証をすることでその真価を問い、この作品のラディカルな批評を試みたいと考える。

主人公は誰?

このアニメ作品の主人公は「鹿目まどか」であると思われる。
それはこの作品題名が「魔法少女まどか☆マギカ」であるからです。
しかしこの作品を最後まで鑑賞してみると「アニメーションキャラクター立ち」と「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」の両立をしているのは「暁美ほむら」の方であるだろう。

概略

このアニメ作品は幾人かの魔法少女が登場するがそれは過去から連綿と続く「キュゥべえ」の罠に陥った不幸な少女の一人に過ぎない。
この作品は二人の魔法少女のあり方による作品となるだろう。
それは最愛の友人「鹿目まどか」の運命を巡って「暁美ほむら」が「キュゥべえ」との契約で得た「魔法少女」の「能力」である「タイムリープ」を繰り返す筋書きであるのです。
その筋書きではその「タイムリープ」が「鹿目まどか」の運命に強い因果を生じさせることで最終話に「鹿目まどか」が「奇跡」の「救済」を起こす。
そしてこのアニメーションは大団円として終わる。
※続編の映画は蛇足のようなものであるがそれについては後述する。

カトリック(最愛信仰)と世界の支配者

「暁美ほむら」の「アニメーションキャラクター立ち」と「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」が両立した理由は最愛信仰として存在している。
病身であった「暁美ほむら」の唯一の優しい友人「鹿目まどか」が「魔法少女」となることで迎える「悲惨な死の運命」をどうやっても変えようとして行った数々のタイムリープによって可能となった。
それは「暁美ほむら」の「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」が最愛信仰から形成されるイマーゴ(真善美の回復)とされることで成立する。
ただここで重要なのは2つの疑問の回答であるだろう。
イマーゴ(真善美の回復)がカトリックロゴス信仰から形成されるオリジナルとしてあるのか?
イマーゴ(真善美の回復)が「天然邪悪な欲望の個人崇拝」の生け贄(弾圧の対象)とすることで成立する崇拝関係としてあるのか?
イマーゴ(真善美の回復)がカトリックロゴス感覚(Holy Communion)であり、それを弾圧することでデマゴーグは世界支配のための世界観崇拝を政治的に宣伝することが可能となるからです。
それは「知の廃棄」を不可能とする絶対の世界観崇拝とされ、それが世界の支配者のあり方とされます。
それは「知の鵜呑み」という崇拝関係です。
例えば「知を廃棄」をすることは「信仰の入れる場所を確保すること」で「叡智の受肉システム」の在り方となる。
世界の支配者はそれを弾圧し潰すことで世界支配の可能性を考える。
それは「知の廃棄」による「信仰の入れる場所を確保すること」を弾圧し潰すことで可能となるだろう。
そのために政治的宣伝コンテンツによって「知の廃棄」を徹底的に妨害する。
それによって「信仰の入れる場所を確保すること」は妨害され、「人は信仰の高みを抑えられた状態」で政治的宣伝活動のデマゴーグに支配される。
ただ少なくともTVシリーズでは「暁美ほむら」は「鹿目まどか」をイマーゴ(真善美の回復)とする最愛信仰をしている。
それは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」であるだろう。

「暁美ほむら」のタイムリープ〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉

「暁美ほむら」は「鹿目まどか」の悲惨な運命を変え絶対に救済するために「タイムリープ」を繰り返す。
しかし実際には「人生」において「失敗」の「やり直し」は効かない。
そして「失敗のない完璧な人生」は「全知全能の神」でも「無理」であるだろう。
では「人」はどうすればいいのだろうか?
それは失敗したことを素直に反省し悔い改めることだ。
できるだけ同じ失敗はしないことを心がけることだ。
そのような生き方を「隣人愛」というのだ。
それが「信仰」を持って生きることであり、そして「叡智」を得る生き方である。
「人」は「信仰」によって「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」を得る。
「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」は誰にも「平等」なのである。
「叡智」は誰にでも開かれている。

「暁美ほむら」の体験

しかしこのアニメ作品の「暁美ほむら」は諦めず何回も「タイムリープ」を繰り返し過去からやり直す。
それは仕方がないことなのです。
「鹿目まどか」を見殺しにすることは「暁美ほむら」には絶対にできないのです。
そして彼女はまた「失敗」を繰り返す。
彼女は何度も何度も「失敗」を繰り返す。
「暁美ほむら」の「失敗」は「鹿目まどか」が迎える「悲惨な死の運命」を意味している。
「暁美ほむら」は最愛の友人「鹿目まどか」が迎える「悲惨な死の運命」を繰り返し体験することになる。

「暁美ほむら」の「内面」と「外見」のキャラクター形成

「暁美ほむら」は「タイムリープ」を繰り返し、その「最悪の経験」を積んでいく内に彼女の「性格」と「顔付き」に明らかな変化が生じてくる。
それは「鹿目まどか」にとって「残忍な死の運命」であり、同時に「暁美ほむら」にとっても「残忍で絶望的な経験」であった。
それによって彼女が初めて登場した時の「三編みの大人しい少女」のキャラクターから「髪を長く伸ばした冷酷で厳しい表情の少女」のキャラクターに徐々に変わっていくことになる。
「彼女の内面の変化」が「彼女の外見の変化」を起こさせるのだ。
しかし「タイムリープ」しているためそれは彼女以外の登場人物にはわからない。
「彼女の経験(タイムリープ)」としてあるだけの「悲惨な歴史」を彼女以外は知り得ないのです。
誰もが「彼女の存在」を煙たがるようになります。
彼女は「絶対の孤独の中」で「最愛の友人」である「鹿目まどか」を「悲惨な死」から救済するために「一人戦う」のです。
彼女にはそれ以外に道はない。
彼女は諦めるわけにはいかないのです。

「暁美ほむら」の決意

「暁美ほむら」は「最愛の友人」の「悲惨な死」を「体験」しながら、同時にそれを覆すために全てを賭けている存在となった少女である。

「暁美ほむら」の「アニメーションキャラクター立ち」と「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」の両立

これがこのアニメ作品の「アニメーションキャラクター立ち」と「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」の両立でありそれがこのアニメーション作品が高く評価された理由だろう。
「暁美ほむら」は「孤独な歴史」を背負った存在なのです。
ではそこに真のペルソナとしての「信仰から形成されるオリジナル」があるかどうかという「信仰判断」をして見る必要があるだろう。
それはアニメーション作品の「呪術崇拝」から形成される象徴(偶像崇拝)という「原始的段階に近い」と言われるあり方に対しその内面のカトリックロゴス感覚(Holy Communion)から形成される「至高の抽象化の高み」が受肉した叡智ある存在となっているだろうか?
そしてこのアニメーション作品は「ペルソナ芸術」と言える作品だろうか?
そういった疑問を呈する必要があるだろう。
それは「呪術崇拝」から形成される象徴(偶像崇拝)という「原始的段階に近い」と言われるあり方に対し、その内面に「信仰」の入れる場所が確保されているかどうかにかかっている。
「信仰」とは「最高善の神」の至上命令であり、それは「最高善(知の廃棄)」である。
果たして〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉をこのアニメーション作品は表現しているだろうか?
それはいくら「理屈」のようなことを言っても〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉からのカトリックロゴス感覚(Holy Communion)が生じていなければ「叡智(奇跡)」は受肉しない。
「真の理屈」でない者は「屁の理屈」である。
「屁の理屈」は「屁理屈」である。

「魔法少女まどか☆マギカ」の「奇跡」は「真の理屈」であるか「屁の理屈」か?

「暁美ほむら」は「最愛の友人」である「鹿目まどか」を「悲惨な死」から救済するために闘う。
繰り返しやり直し「仮説」と「実験」を繰り返す。
ただ鹿目まどかの救済だけを目指している。
それだけ聞けば「美談」である。
そして「鹿目まどか」も最終話で「暁美ほむら」のタイムリープによって引き起こされた「因果の力」によって「犠牲」となった「全ての魔法少女」の「救済」をする。
それは「奇跡の美談」です。

「魔法少女まどか☆マギカ」の屁理屈

ただ何故だかしっくりこない。
それはここに「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」がないからだろうと思う。
「奇跡」の在り方が可怪しいのだ。
この「魔法少女アニメ」が評価される理由はサイエンスフィクション作品と言えるからです。
しかしサイエンスフィクション作品が破綻する原因は「なんでもあり」の設定にある。
それはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)をジャイアント・キリング(弾圧)したものとなり「なんでもあり」を容認した暴走状態のマンガ作品となる。
そういった暴走状態を神演出とする悪しき風潮はオタク芸術を標榜する庵野秀明や新海誠、岡田斗司夫らがサブカル崇拝として行っている。
しかしそのようなサブカル崇拝はマンガ作品という「なんでもあり」を容認した価値のない娯楽作品でしかないだろう。
その反対に位置するのがカルチャーとしてのカトリックロゴス感覚(Holy Communion)をもったサイエンスフィクション作品である。
「なんでもあり」のマンガ作品を「神演出」とする視聴者や評論家も多々おられることは承知している。
しかしそれは絶対に「芸術」ではない。
マンガ作品に価値はないのだ!
それは「破綻アニメーション作品(サブカル崇拝)」である。

※サブカル信仰とサブカル崇拝が存在することは確かだ!しかしそれは矛盾した語彙の使用となるだろう。信仰であればカルチャーとなるからである。サブカルチャーという名称はカルチャー弾圧としてあるのです。

「破綻作品(オタク)」を「芸術作品(芸術家)」とすることは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」へのジャイアント・キリング(弾圧)である。
それはマンガ作品をサイエンスフィクション作品とすることでカトリックロゴス信仰を弾圧することと同じです。
そして「芸術」へのジャイアント・キリング(弾圧)は「オタクの二次創作」にすぎない。
「コミックマーケットレベル」であるのです。

「鹿目まどか」の「救済」の成功は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の「奇跡」によっていない。
それは〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉による奇跡ではないのです。
それはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の受肉した叡智が齎す救済ではない。
だからこの作品の「絶望」からの「救済」の「描き方」は「真の奇跡」ではない。
「真の奇跡」とは「叡智」によって齎されるからです。
この「作品」の「救済」は「信仰」によってなされていないのです。
言ってしまえば「なんでもあり(屁理屈)」の「超能力」によって起こる「超常現象」が「奇跡」とされ「救済」を齎す「物語」とされている。
しかしそれは「信仰」によるものではなく「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の受肉した叡智によるものでもない。
「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の受肉した「叡智」が「救済」を齎すことが「芸術作品」の絶対条件なのです。
「叡智」がない者が「人」を救済することは出来ません。
それは重要な「黙示ポイント」です。
「奇跡」とは「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」であって「超能力」ではない。
要は全くこの作品には「叡智」が存在していないのだ。
そして「叡智」なくして「奇跡の救済」が起こるという「政治的宣伝コンテンツ」となっている。
そこが「全く駄目」だ。
「真の奇跡」の「否定の宣伝」だからだ。
それがしっくりこない理由だろうと思う。
この作品の最終話に起こる「救済」は「救済」ではあるが「信仰による救済」ではない。
このアニメーション作品が「アートっぽい」だけで「芸術作品」ではないことを証明している。
要は「信仰」は〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉である。
それは「叡智」による「奇跡」を意味する。
それを構築することが「芸術製作」である。
「製作者」はそれを怠っている。
又は製作者に才能がない。
そしてこのアニメーション作品は「タイムリープ」による過去の繰り返しが強烈な因果を結ぶことでありえた力が起こす奇跡である。
しかし「妙な力」を創ったものだ。
それは「超能力」であり「超能力」による「なんでもあり」という「駄作の条件」と一致する。
「超能力」によって「なんでもあり」となるのが「駄作」なのです。

宮崎駿の傑作アニメ「未来少年コナン」の主人公「コナン」の「身体能力」は「超能力」である。

しかし「コナン」は「超能力者」として描かれていない。
そして「超能力」による「なんでもあり」とはなっていない。
そこが「未来少年コナン」の「奇跡」のあり方の「白眉」である。
そこが重要な「黙示ポイント」だ。
「超能力」による「なんでもあり」は完全な「屁の理屈」です。

歴史認識の白眉(サイエンスフィクション作品の成立)

ただ言えることはこの「奇跡」は「屁の理屈」ではあるが、しかし「暁美ほむら」が「最愛の友人」の悲惨な運命を変えようとして経験した「彼女だけの時間」が「彼女の性格」を変えるという「歴史認識」は面白いと思った。
そして「彼女の性格」は彼女の外見の内面に刻まれた「歴史経験」であり「彼女の個人的歴史」である。
その「歴史」が「アニメキャラクター」の「同一個人」の「偶像デザイン」に変化を齎し、「鹿目まどか」への「最愛信仰」を除いて全くの別人となってしまう。
その「暁美ほむら」の「偶像デザイン」を描いたキャラクターデザインは秀逸だった。
この才能は「脚本家」か「キャラクターデザイナー」か「監督」か?
この「暁美ほむら」のキャラクターデザインは「最愛信仰から形成されたオリジナル」と言えるかもしれない。
ある意味ペルソナであろう。
これは「鹿目まどか」がイマーゴ(真善美の回復)の最愛信仰の在り処とされることによって可能となった「至高の抽象化の高み」と思われる状態である。
これは「タイムリープ」をしても「内面」の「歴史」は変わらないという「歴史の普遍性」であり「不変性」である。
それは司馬遷の「史記」に通じる。
「暁美ほむら」の「偶像」の「内面」に「歴史」は刻まれ、そして彼女の「偶像デザイン」までも変えていくという「アイデア」は素晴らしい。
それが彼女の「顔付き」を変え「偶像デザイン」を変えていくのだ。
そしてそれは絶対の孤独として実存する。
それは孤独を背負った人の生き様であるだろう。
その「描き方」はとても良いと思った。
それはこの作品がマンガ作品ではなくサイエンスフィクション作品として成立していることを示している。

※そこに「才能」というか「面白さ」を感じた。私はこの「脚本家」の他の作品を鑑賞してみたが特に感銘は受けなかった。この「キャクターデザイナー」はTBS「ひだまりスケッチ」を偶に見ていたので知っていた。気楽に見られる作品で良かったが「作風」は違う。監督は「作画」と「演出」に上手さはあるが「信仰」は特に感じない。

MBS毎日放送の信仰が大きいと結論づけていいだろう。

imago Dei 〔L.〕
神の似姿〔カトリック教会〕
〈91学術・キリスト教〉

『人文社会37万語対訳大辞典』 日外アソシエーツ

原は1873年(明治6年)4月に受洗したカトリック教徒であり、戦前期の歴代首相の中では唯一のキリスト教徒であった[注釈 3]。ただし、生前の原は自身の信仰について語ることはほとんどなかった。2005年には遺品の一つに刃を閉じると柄の部分に十字架が浮かび上がるハサミがあったことが確認されている[176]

「原敬」ウィキペディア

※原敬はカトリック教徒だった。

二〇二三年四月二十八日(金)お昼前
パレスサイドビル屋上

毎日神社由来
本神社は昭和十四年(一九三九年)十月二十日毎日新聞社機「ニッポン」号による同社主催 世界一周大飛行の完成記念として創建された 祭神は天照大神 産土神日枝大神ならびに飛行の平安完遂を祈願し全国読者から寄進の御神符が奉安されている
同航空機は中翼単葉の双発機で翼長二五メートル・全長一六メートルの純国産 当時の日本航空科学の粋を集めて制作された 全航程五万三千キロ 北太平洋横断無着陸飛行に成功 空の難関といわれた南米アンデス越えの新記録や大西洋横断の快記録など 世界航空史に不滅の光彩を放っている
祭日 例大祭十月二十日 月例祭二十日

毎日神社説明文より

芸術のナザレとは?

「信仰」のある「芸術家」と「信仰」のない「アートっぽい作家」とは決定的に違う。
それは実は大問題だ。
東京芸大へ受験で合格したら芸術家ですか?
武蔵野美術大学へ合格したら芸術家ですか?
新世紀エヴァンゲリオンでアートっぽい絵コンテを書いたら芸術家ですか?
詐欺芸術が多いです。
大学にカトリックロゴス感覚(Holy Communion)ってあるのかな?
大学に「信仰」ってあるのかな?
それを言うのは「大学」が「信仰」の『神殿』であり『聖域』だという「認識」に私は異議を唱えたいからだ。
「信仰」はナザレだ!
ナザレは地名だ。
「人」が生き「猫」が生きる場所だ。
ナザレのイエスとは「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」が受肉した者の「代表者」だ。
ナザレとはイエスの「生きた場所」に過ぎない。
場所の名前がナザレなのだ。
「ナザレ」と「大学」は「対立」する。
「大学」は「特権」を主張するからだ。
「信仰」にも「特権」があるのか!
「ナザレ」と「神殿」は「対立」する。
「ナザレ」は「特権」と「対立」する。

神殿と権威と信仰

福音書でイエスが神殿で暴れた記述がある。
イエスは闘ったのだ。
真のカトリックロゴス感覚(Holy Communion)とは只の場所としてのナザレに降り、イエスの生きる場所に降り、それは人の生きる場所に降る。
それは全ての人の生きる場所と同じ場所に「信仰」は降り、人の生きる場所に「信仰」は降り、「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」はそこで叡智(奇跡)を受肉するのです。
それを示したのがナザレのイエスなのです。

最後に

「暁美ほむら」の「歴史認識」は「自虐史観」とは言えない。
「暁美ほむら」の「歴史認識」は「最愛信仰」故にあった「大切な彼女の歴史」なのだ。
それは「最愛信仰の証明」である。

※続編の映画に関しては、結局は「暁美ほむら」が「鹿目まどか」を完全にコントロールすることになる。この映画の結末は「暁美ほむら」が「世界の支配者」となってしまい、イマーゴ(真善美の信仰)でなく、イマーゴ(真善美の信仰)への弾圧によって支配の欲望はなされる。最愛崇拝となりデマゴーグによる世界支配 となって終わった。それは「歴史」もなく「現実」もなく「ナンセンス映画」だった。製作者の才能の限界かな?「なんでもあり」でしかない「超駄作」だった。

「魔法の天使クリィミーマミ」について一言

無理に創った「続編アニメーション」は「駄作」として失敗する場合が多い。
「魔法の天使クリィミーマミ」の続編映画「ロング・グッドバイ」やテレビ放送された続編「永遠のワンスモア」はなくてよかった。
ファンだから見てしまうがやはり「駄作」としか言いようがない。
結局「続編の失敗の理由」は「本編の奇跡(叡智)」の在り方(カトリックロゴス信仰)へのジャイアント・キリング(弾圧)の作品となってしまうからだろう。
それによって「箍の外れた作品」となる。

「氷菓」について一言

他で好きなアニメは京都アニメーションの「氷菓」だ。
アイスクリーム(I scream.)が好きなのだ。
これも人の内面の歴史の話である。
「ふざけるな!」と叫びたいのだ!
人にはそのような生きていく環境と内面が存在する。
そこがあってあのアニメは良いのだ。

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