透明なグラス

透明なグラスを檸檬の香りでみたした。
たちのぼる泡ひとつ。音もなくはじけて、一歩ずつ死んでゆく。閑やかな午後。
なにもない部屋の床は白く浮かんで、かすかに埃が舞っている。雑踏は息をひそめた。もといた場所へ戻るように、とじたまぶたを覆うように。街から矛盾が消えてゆく。自然の摂理に背を向けて、土瀝青は影を焼きつけた。埋められない孤独をうつしては、救われない魂のうた。

つめたい春風は窓際のレースを揺らしている。
薄青の空を遠く切り取って、穏やかな斜陽はたそがれに向かう。ひとときの午後。
またたきのあいだに過ぎ去った春。朝露に濡れた花弁は地に落ちた。いとしい指先も触れぬまま。細い枝は彩やかに、淡い緑が染めている。数えきれない呼吸の堆積。身動きの取れない生にしがみつくほど、霞んでゆくものは夢のまた夢。日々を消費するごとに一度きりの記憶は薄れる。

月灯りに青褪めた鎖骨は哀しみをたどった。
鳥籠の金糸雀は羽をたたんで、眠りかけた心音に月の光が響いている。藍色の宵。
鍵盤を滑るゆびさきは温度を失くして、いのちさえ奏でるとわのまどろみ。とこしえの韻律は螺旋をえがいて、心臓の底に沈んでゆく。眠りは過去を断絶する。不確かな意識。曖昧なわたし。翡翠の水面に標を置いた。まどう道行の先はひとつ世のつぎ。

透明なグラスを檸檬の香りでみたして、くれないの破片に再生を祈った。

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