近藤 [2008]への批判的注記

最初に言っておくが、私の近藤 [2008]への評価は否定的だ。最初に読んだときから、これは数学の哲学ではないと常々思ってきた。だが、未だに近藤は自分の書くものが数学をめぐっているということを譲っていない。私が本稿を書く理由には、この点での近藤の態度を挫いてやりたい、ということがある。ただし標的選びについては不安もある。近藤 [2008]はもはや古びた論文で、そこでの論点を近藤がなおも維持しようとは思っていないかもしれないからである。しかし、それ以外に私には選びようがないのだ。この論文を読んで以降、こういうことを書く人の文章は私に響くはずがない、という思い込みに私は支配されるようになり、全部を読み通せないからだ。『数学的経験の哲学』という本も、出てるな〜と思って買ってみたものの、ほとんど読み進めることなく放り出してしまった。冒頭における自身の問題関心への導入も全く駄目だと思った。とりわけ数学の哲学を論じようとする者による問題表明としてはあまりに読者の歩み寄りに頼りすぎている。
なのになぜこんな文章を書くのか、と言われるかもしれない。やるに値しないことは、うまくやるにも値しないだろう、と。だがまあ、無職だったときに近藤の授業に忍び込んだときは楽しくやっていたのである。無職となり、社会人として生活することから解放され、数学の哲学を(できているかはともかく)やろうとしている人間と会話をするというのはなかなか働きながらではできないことだったし、刺激にはなった。その勢いで、近藤 [2019] 第二部の草稿を送付され、全然分からないながらに読み、批判し、書き直させることができた。そのことは私にとってはよいことだった。近藤の言葉で言えば「同門」である私を含めた学生たちが、あの議論をスルーしてしまう程度の出来であるというのは耐えがたい。

近藤和敬 [2008]、「数を数えることとはどういうことか―カヴァイエスの『超限順序と連続体』読解」、『現代思想』vol. 36-14 「特集 <数>の思考」所収、pp. 174-194。

§1 pp. 174u-175d
§2 pp. 175d-181u
§3 pp. 181u-191d
§4 pp. 191d-193u
("u", "d" の記号はそれぞれ「上段」「下段」を表す。)

さしあたり私は「数学に関する道具主義者」として振る舞うことにしよう。
無限の問題を、近藤の「弁証論的構成主義」が簡単に乗り越えてしまうことの不可解。ひいては、近藤は実は構成主義者でもなんでもないという疑念。

§1 pp. 174u-175d
このセクションの大部分に私は興味がない。末尾に論文全体の概要が付されている箇所だけが私の興味を惹く。
§2 pp. 175d-181u

§3 pp. 181u-191d
このセクションが数学の哲学になっていないことを本稿で示したい。
§4 pp. 191d-193u






(なおも追記予定)

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