2024年9月30日

2024年9月30日
痛くていい。黒歴史でも構わない。若気の至り、22歳をそこでくくれるかはわからないが、それでも書かなければ。生きていけない。そう思った。

本当はもっと違う言葉を書いているはずだった。
たとえば、卒業研究のための先行研究のまとめの文、たとえばshort用の脚本、公募用の脚本。こんな随筆なんて書いたって将来が変わったりお金が手に入ったりするわけもなく、極めて無駄に近い文章。

でも、パンク寸前だった。
いや、なにかゆとりはある。ゆとりがあるのにパンク寸前、気づかなかった、ゆとりがあるから。
短い人生の中でも何回かパンク寸前になったことはあるが、そのときはいつも何かしらで忙しくしていたり忙しくしていたときの反動のようなもので溢れていた。
今はというと、やらなければならないことを放置して、休んでいた。忙しいはずがとても静かな、たとえば料理をしたり、映画を見たり、youtubeを観たり、そんなこと。でも、本質的には休めてなかったんだと知る。きっと前倒しでやるべきことをやれるひとはそれを知っているからできるんだろうと思う、この歳で実感するのはいささか遅い気がする。

そうして疑似的な休みをしている数時間前、頼んでいた本が届いた。それは今日発売のエッセイ集。やらなければならないことを無視して、読む。

本、というか純度の高い文章はなんて心にすっと入ってくるのだろう。雑念が放り出され集中できる。何篇か読んだところでそろそろ家を出なければと思い本を置く。その時点で元々出発しようとしていた時間の4時間後。出発することはやるべきことだ。でも、やっぱり出られなかった。今度はなにか胸がうずく。涙は出ない。ただ少し苦しくて、笑いもしない。こんなに表情のなかった日は久しぶりだなと気づく。

エッセイ集を思い出す。死んだ先にあるのは無。

私は今、限りなくそれに近づいているように感じた。無を内省化し、自分という人間を諦めたような。諦めきれなくて、少し光がさして、こうして、書かねば、書けとパソコンを開いた。

車窓どころかカーテンを閉め切った部屋で、今私には何が見えているのだろう。
とりとめもない表現でも、ここに記す。


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