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みなさん、こんにちは。
一期生の大木守と申します。
 
卒業後、早いもので40年以上の年月が過ぎました。
最近、大学で行われたイベントをいくつか拝見する機会がありましたが、ベトナム語科が着実に大きく発展していることを実感し、とても嬉しく思っている卒業生のひとりです。今回は、このような投稿の機会を与えていただいたので、ベトナム語科発足当時のことなども交えながら、ベトナムの思い出をお話ししたいと思います。
 
私が大学の門を叩いたのは1977年(昭和52年)です。1975年4月にサイゴンが陥落し、ベトナム戦争が終わって2年後のことでした。私が小学校低学年の頃から、各種報道を通じてベトナム戦争の状況は折に触れて耳にしていました。そして、あんなアジアの小国がどうしてアメリカという大国に勝ったのだろう、という素朴な疑問を抱いていました。私が受験生だった昭和50年頃と言うのは、日本のアジアに対する関心は今から考えられないくらい低いものでした。でも、何となく、これからはアジアが重要な地域になっていきそうだな、といった予感も感じさせる時代でした。
 
大阪外大の入試要項を取り寄せたところ、ベトナム語のクラスが新設されるかもしれないので、ベトナム語を希望する受験生は取り敢えずタイ語学科で受験申込をして欲しい、といったことが書かれてありました。ベトナムについては、開高健を始めいろんなジャーナリストの書物を通じてそれなりの関心があったことや、新しい語科の誕生を経験できるという興味もあって、迷わず受験しました。
 
入学した年度にタイ語学科が改組され、それまでの定員15名を25名に増員し、タイ・ベトナム語学科として新たにスタートすることになりました。
入学後、最初のオリエンテーションでタイ語の富田竹二郎先生が、「君たちはタイ語かベトナム語のどちらかを選択できます。今から一人一人希望を聞いていきます」、と仰って、一人ずつ希望を聞いて回ったところ、一巡目では確か、ベトナム語希望者が2名しかいませんでした(私はもちろん、ベトナム語を希望しましたが)。そこで、2巡目でようやく、タイ語17名、ベトナム語8名でスタートすることになりました。しかし、富田先生が続けて仰ったのは、「ベトナム語は、まだ、先生が決まっていません。ベトナム語の諸君には申し訳ないが、5月の連休明けまで授業はありませんので、その間、自習とします」。拍子抜けしましたが、あの当時は、まだ、のんびりした時代だったのですね。
 
そして、連休明けから夏休み前までの約2ヶ月間、東京外国語大学の竹内与之助教授が毎週大阪まで来られて、月曜日の午後及び火曜日の午前中、出張授業を続けられました。主に漢越語の授業が中心でした。その他に民族学博物館の先生が毎週教えに来られていました。そして、遂に、10月から冨田健次先生が正式に着任されることになったのです。

そこから、先生のご努力で(ガリ版刷りの)テキストを作られたり、辞書を調達されたり(越英辞典。日本語の辞書はまだ存在していませんでした)、着実に勉学の環境は整備されていきました。あの頃、故ホーチミン主席の「遺書」(di chúc)を授業で使われて、ほとんど丸暗記した(させられた)ことが記憶に残っています。この遺書はとても平易な文体で書かれていて、内容的にも主席の人柄がよく表れていました。また、2年生になると、初代の客員教授がハノイから来られ、授業も充実してきました。
 
多くの卒業生の方は在学中にベトナムへの留学を経験されていらっしゃると思います。これは外国語学部の中でもベトナム語科特有の素晴らしい制度だと思います。冨田先生が現地の大学と折衝されたり、いろいろとご尽力された結果だと思っています。在校生の皆さんにはこの制度を是非、有効に活用していただきたいと思っています。と申しますのも、私たちが学生の頃のベトナムは統一されて間もない頃で、まだ国内情勢が落ち着いておらず、外国人に対して国を閉ざしていた時代だったからです。でも、1年生の時に、近畿ツーリストによるベトナムツアーが企画されたことがありました。私はすぐに申し込んで、コレラ他の予防接種も済ませていたのですが、直前になってベトナム政府の許可が下りずに中止になってしまった、という残念なこともありました。
 
ベトナム語科も2年目からは後輩も入学してきて、徐々に賑やかになってきました。また、3年生のときには上本町から箕面へのキャンパス移転も経験しました。上本町のときは、近くにバラック建ての飲み屋街(今はハイハイタウンになっています)がありましたので、授業が終わると先生と一緒に飲みに行くのが日課のようになっていました。先生も私たち学生もまだ若かったのですね。授業で教室にいる時間よりも酒場で一緒にいる時間の方が長いという状況でした。そこでいろんな議論をしたり、人間関係の勉強をしたりと、青春のよい思い出となっています。箕面へ移転してからは、そのような時間が少なくなったのが少しばかり残念だった記憶があります。
 
一生懸命勉強した話が一向に出てこない私ですが、何とか4年間で無事卒業し、金融機関へ就職しました。就職して約9年後、突然、バンコクへタイ語の研修生として派遣されることになりました。1990年のことです。この頃の日本の製造業は、1985年のプラザ合意以降の急激な円高を背景に、生産拠点を海外へ求めざるを得ない状況にありました。一方、ベトナムは南北統一後の長い沈黙の期間があり、経済も疲弊していましたが、1986年にドイモイ(đổi mới)政策を打ち出して以降、魅力ある市場として世界から注目を浴びることとなり、多くの外国企業が調査のために訪れるようになりました。私の勤務していた銀行でも、取引先からのベトナム関連情報のニーズが高まってきたので、情報収集体制を整えなければいけない、ということとなり、バンコクでの1年間の研修を終えた私に白羽の矢が立ちました。
 
そして、バンコクをベースに、ベトナムウォッチャーとして現地出張を繰り返し、当局との人脈構築、投資環境調査、日系企業の進出動向などをリサーチすることとなりました。1991年のことです。ベトナムとの直接の関わりの始まりです。その後、1993年にホーチミン市に駐在員事務所を開設し、そのまま駐在となりました。ベトナムでの駐在生活は1999年まで続きましたが、毎月1~2回のハノイ出張や地方訪問など精力的に動き回りました。大学で学んだことを最大限生かすことのできる環境に感謝しつつ、思う存分活動しました。
 
その中で感じたのは、ベトナムでもタイでも海外の駐在員には外大卒業生が(大阪も東京も語科に関わらず)実に多いということ。そして、このネットワークに助けられたことが何度もあったということです。それから、在校生の皆さんが何人も留学で現地に来られていたことです。まだ、生活環境も十分整っていないベトナムで頑張って勉強しておられる後輩の皆さんを見ると、先輩として何か応援できれば、と、いつも思っておりました。在学中に現地留学ができるとは、本当に恵まれた学習環境だと思います。現役の学生の皆さん、感謝の気持ちを忘れず頑張ってください。
 
私が駐在を始めた頃のベトナムは、世界の中の位置づけとしては、アメリカとは敵対関係にあり、当然国交はなく、経済制裁の対象国でした。また、友好国であった旧ソ連や東欧諸国は1990~1991年頃に相次いで崩壊してしまったので、新たな友好国をつくる必要がありました。ですから、全方位外交のスタンスを取っていました。その中で、アメリカとの国交回復、ASEANの仲間入りを最大の目標に掲げ、1990年代の半ばにこれらを達成しました。そうして、国際社会への仲間入りを果たしていくことになったのです。
同時に、ホーチミン市もハノイもどんどん経済発展の波が押し寄せて、街が変貌していきました。私は幸いにも、その変貌していく様をつぶさに見ることができました。その間、ベトナム政府の苦悩やいろいろな政策も経験することができ、今では、貴重な体験だったなと思います。
 
雑駁な内容になってしまいました。書きたいことはもっとたくさんあるのですが、紙数もかなりオーバー(編集者注:原稿用紙4、5枚が目安ですとお伝えしていました)しましたので、その他の四方山話は、昇龍会など別の機会でお目に掛かったときにさせていただければと思います。
 
私がベトナムと関わって、約半世紀近くが過ぎました。
ベトナムは以前に比べれば、私たち日本人にとってかなり身近な存在になっています。加えて、言葉が出来れば、もっと身近な存在に思えてきます。卒業生の皆さんが現地でご活躍される機会も、これからもどんどん増えてくるでしょう。しかし、いつも謙虚さとベトナムに対するリスペクトを忘れずにいることがとても大切だと、私の拙い経験からも思います。
 
大学の先輩でもある司馬遼太郎は、「この大学で学んだことはその人の人生をきっと楽しいものにしてくれる」といった内容のことを書いておられました。私もベトナム語科で学んだお陰で、その後の人生がとても楽しいものになったと、しみじみ思っています。

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2022年度の更新はこれで最後です。
2023年度も引き続きゆるゆると情報を発信していきますので、お付き合いよろしくお願いいたします!
昇龍会広報一同


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