016-できない、わからないはダメなこと?

 ふと、私が幼稚園の時、幼稚園生向けの家庭学習ドリルに取り組んでいたことを思い出した。時々フラッシュバックするこの光景。ご自愛で感情を癒してるはずなのに、なぜか浮上するそのときの記憶。癒したら消えるんじゃないの? って思ってたし、他の人にもまだあるから出てくるんでしょって言われてすごくムッとしたこともあった。これも「できてないんじゃん」って言われた気がして苦悩になったんだな。このときの出来事が、私の「できる人にならなければ」っていう理想像を作り出した核になったんやなと思った。

 ドリルの内容は、「いしゃ」と「いしや」と書かれた文字と、それぞれのイラストを線で結びなさい、というものだった。
 隣には母親が勉強を見てくれていて、私はこの問題がわからなくて詰まってしまってたら、母がイライラして私の記憶上では、母から「なんでこんなのもわからないの!!!」とできない私に対して、めちゃくちゃヒステリーにキレられてキッチンかどこかに行って放置された記憶がある。
 このときの「なんでこんなこともできないんだ!」って怒られたことで、ずっと悲しみを抱えてることに数年前に気づいて、その感情は昇華したはずなのに、ことあるごとに母が私に投げかけた言葉をあらゆる自分ができないと思った場面で、自分自身に「なんでこんなこともできないんだ!!!!」っていう自己批判を、お母さんが私を扱った通りに自分を扱ってるなーと、同じように繰り返す癖だけが染みついてるな、ともこのとき気づいたのだった。

 このときと今も同じような感覚が芽生えてくるのが、「何がわからないのかわかってない」という自分が出て来たとき。何がわからないのかわからないから、質問しようがない。だから苦悩のままフリーズしちゃってわかってないのに、聞くにも聞けず、わからないまま、できない自分っていう劣等感を生み出して、やるのが嫌になってしまう、っていうパターン、繰り返してるような気がした。
 でも、もっと抽象度あげてみると、別にそれ、自分の人生でやれてもやれなくても問題ないもの、だから多分、わからなくてもいいんだろうなって思うことが多い。本当に理解したいことはそれでも自分からわからないならわかるまで取り組んで行くものだから。

 何がわからないのかわからないとき、これも苦悩の状態だからわからないだけだったんだという事が今分かった。苦悩って本当に視野を超極細にしてしまう。
 このドリルで言えば、私は「石屋」というものが幼稚園の私の概念でなんのことだかさっぱりわからなかったのだ(平仮名で書かれていたから余計になんのことだかさっぱり、だった)。医者は病院に行ったりして、「おいしゃさん」という存在を知っていたけど、まさか石を売ってる店があるなんて思いもつかなかったから、その意味がわからないから問題を解くっていう事ができなかった。私は「いしや」が何かを知りたかっただけなのに、知らないことをキレられた、としか思えなかったんだよね。多分、母は家事をしたいのに私が勉強見てっていうから、家事をやらなければ!っていう気持ちがあって余裕がなくなってイライラしてしまっただけ、の話なんやと思う。

 これ、大人になってからも同じことを繰り返してるなーと思った。整体の学校に産前通っていたとき、かなりハイレベルな学校に行ってしまったため、授業の説明の中に知らない専門用語がバンバン出てくるから、その言葉の意味がまずわからなくて、そこに捕らわれて思考停止しちゃって、先生の説明が全く頭に入ってこないっていうのを日々繰り返してた。単語の意味が理解できないことで止まってしまっていた。これ、石屋のときと同じやな、と。
 単語の意味を理解してないとその説明が全く受け取れない。なんとなくその単語を知らなくても大体のことはイメージで理解できると思っていたけど、専門用語で細かい話すぎて、イメージがつかなさすぎてそのいままでの理解の仕方は通用しなかった。勉強すればいいって話だけど、勉強もどこから手をつけていいのかもわからないレベルの話だった。わかるようになるには、国家試験に合格するレベルまで勉強しないといけない。実際問題、その領域に興味がないので、勉強したいと、思うこともなく、全然、説明された内容は身につくことはなかった。

 私はその学校に通おうと思った目的は、その講座の中のうちの1つのエッセンスが知りたかったから。あの先生のようになりたかったわけではないから、あの講座はあの先生のようになるためのカリキュラムだったようで、それが全く自分の方向性と合わなかったため得る事ができなかった。苦痛になった理由もわからなかったけど、書いてて今納得。しかも、一番受けたいと思ってる講座内容は、見事に私の出産とダダ被りで、結局そこまで得ることもなく終了してしまったという悲しい話(笑)今思えばネタやん!!!受けると覚悟したのに、できなかった自分っていう事で学校にしがみついてたんやなぁ。

 「私の道」と違うことをしようとするとものすごく抵抗感がわくのだけど、その抵抗感が何から来てるのかがわからないと、ただ闇雲に、あのいしや事件の時に作り出した、できない、わからないのはダメだから、できる人にならなければっていう理想像にしがみついて、本質が見えなくなって、興味のないことまで、できてないことをできるようになるための克服、みたいな生き方の選択をしちゃうんだなって思った。そりゃ嫌になって当たり前やね。

 石屋が何か知りたかっただけで自分の生き方とは関係ないことはやっぱり別にやれないから、できないから、わからないからって特に問題はないんだなっていう事がわかった次第。

 わからないも、できないも、しっかり自分が何を知りたかったからいま学んでるのか、の目的を持ててたら大した問題ではないって事だね。

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