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考えごと日記その16 「岩倉具視使節団『米欧回覧実記』をよんで、明治維新を考える」

うへ〜〜ッ。「岩倉使節団『米欧回覧実記』」を読み始めたのだが、冒頭、「船上には46名におよぶ使節団と18名の大使・副使の随従者、43名の華士族・書生など留学生、計107名でごった返していた」とある。

歴史をよう知らんときは、岩倉使節団は岩倉具視を中心にして撮られたあの有名な写真にある5名だけかと思っていた。ところが歴史に興味をもったときに本かネットか何かで、岩倉使節団は100名ちかくの大人数だと知った。

でもボクは2年間のあいだに何グループかに分かれて渡欧し、総勢で100名ちかくになったと勝手に想像していた。なにしろ明治が始まって間もないわけだし、新しい国家を運営しないといけないので、そんなに大勢が一気には行けないと思ったからだ。

ところがだ。107名が一気に渡欧し、2年ものあいだ国家を放り出していたのには驚いた。その中には、岩倉具視はもちろん、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文など、新政府の主要メンバーもいるのだ。

いや、これは、もしも列強がほんとうに日本を植民地にしようとしていたのならば、まさに絶好の攻めどきではないか。現にこのとき、列強は清に兵をおくり、メッタメタのコテンパンにしてるのだ。日本の新政府が国家を放り出しているとなれば、これは列強にとっては日本を滅ぼす絶好のチャンスになるではないか。

では、なぜしなかったのか。それはやはりこのときすでに日本は列強の従属国で、英米の保護を受けていたのではないだろうか。岩倉使節団派遣の2年間、仏国や蘭国など、そのほかどこの国からも日本は攻められなかったのは、英米の保護を受けていたからだと考えたほうが自然のように思うのだが、どうだろう。

そうすると、もし岩倉使節団の費用を英国と仏国が出したとなると、言いかたは悪いが、日本の国家をつくったのは列強だということも言えるようになる。そして岩倉具視や大久保利通は、英米の言いなりだったとも言える。

いやはや、そうなると西郷隆盛が決起した西南戦争にもつながってくるのだ。西郷は自分で希望したのか岩倉の命令だったのかわからないが、岩倉使節団には加わらず日本で留守番をしていた。

これはボク個人的な見解だが、英米に言いなりの大久保利通を苦々しくみていた可能性もあるのだ。よく大河ドラマなどで描かれるような西郷像がほんとうなら、西郷自身は、英米からアドバイスは受けたとしても、やはり新しい日本は日本人で作るべきだと主張してもおかしくない。(←個人的な見解💦)

ところが明治維新をむかえ、いざフタを開けてみたら、新政府はみな英米の言いなりという状況に、西郷は不満をつのらせての西南戦争決起と考えることもできる。どうだろう。(←まだボク個人的な憶測の域なので、のちに訂正する場合あり💦)

よって、以前ボクは西郷隆盛より大久保利通のほうを評価するとフェイスブックに記したことがあるのだが、それを白紙にもどしたい。大久保利通は単に英米や岩倉具視の駒にすぎない可能性があるからだ。

以上のことから、幕末明治維新は英米によってなされた改革の可能性は、ボク個人的には現時点で8割くらいと考える。それに加えて、もしも岩倉使節団のおカネの出どころが英仏だったとなると9割以上、幕末明治維新は戊辰戦争もふくめてほぼ英米の主導によるものとボクは考える。そう考えたほうが、幕末明治維新の数々の違和感がすべて腑に落ちてくるのだ。

いや〜、歴史の沼にハマるいっぽうで抜け出せないッ。歴史ビギナーによる歴史探索はまだまだつづくのであった……。


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