ブラタモリ日記その11 「京都・山科 #234」 (2023.5.20放送)
山科の地名は知ってても、どんなところかは、まるでイメージがわかない。しかし今回のブラタモリをみて、「車石のくぼみ」の確認と「山科本願寺の跡地」に行ってみたくなった。
石山本願寺は有名だが、山科本願寺ってどんなお寺なんだろう。そう思って検索してみたら「山科本願寺焼き討ち」というワードがでてきた。
ま、まさか織田信長と関係が……と思いきや、どうやら少し違うようだ。1532年、大名・細川晴元ほか法華門徒によって焼き討ちになるのだ。このとき信長はまだ生まれていない。
そして翌年の1533 年に、なんとこの山科本願寺の後継として石山本願寺が創建されたというのだ。そうなのか〜。石山本願寺って、山科本願寺のあとを継いだお寺だったのか〜。
その翌年の1534 年に信長が生まれる。時は経ち、36年後の1570年から10年にわたり、石山本願寺は信長と対立し、ついに1580年に降伏。信長の手にわたった直後に出火し、燃えつくされたという。
山科本願寺と信長は直接的には関係してないが、石山本願寺もふくめた歴史としての長い意味で考えると、つながっているといってもいいのかな?
ともあれ、ブラタモリをきっかけに、自分でいろいろ調べるのもまたおもしろいなぁ〜。京都へ行くことがあったら、ぜひとも山科にも足を運んでみたい。
要衛 山科は何を生んだ?
山科は日本の要衛
山科盆地の北東部 → 逢坂山にある逢坂の関 → 平安時代に設けられた関所
これやこの/行くも帰るも別れては/知るも知らぬも/あふ坂の関 蝉丸
ここを行く人、別れる人、それぞれ知っているか知らないかにかかわらず、ここで会う → ここでたくさんの出逢いや別れがある → 交通の要衝
北陸道、東山道、東海道の東日本の主要道路が逢坂の関で合流
琵琶湖を渡って日本海、淀川を渡って瀬戸内海、2つの水運ルートをつなぐ
平安時代はもっと高いところを人が通る → 昔の人にとっては難所
難所とはいえ距離は短い(約300m)
南北両方の高まりが動いて小さな断層が生まれる → 小さな谷がたくさんできる
石垣などに使われている石にくぼみ(車石)
牛車 → 牛に引かせる荷車
江戸時代に牛車専用の車道 → そこに敷かれたのが車石 → ぬかるみに車輪がはまらないようにするため → 京都〜大津間の12kmに敷かれる
もともとは平べったい石 → 牛車が通っているうちに溝ができる
山科本願寺の土塁と堀(日本屈指の規模)
高さ8〜10m、幅30m、長さ75mの巨大な土塁と、横には広い堀
蓮如(れんにょ)→ 本願寺の勢力を拡大させる → 要衝・山科は拠点として最適
戦国時代に大名や宗派に攻撃される可能性があり、防衛のために50年ほどかけて巨大化
山科本願寺の中心部 → 蒸し風呂(サウナ)
茶の湯を楽しんだあとに、蒸し風呂に入るのがステータス
お寺の中に饗宴を楽しむ場所もあって、お寺としては贅沢で豊かな暮らし
土塁と堀が屈曲した「折り」の構造は、正面と側面の両方から攻撃することができる
お城で「折り」が発達する約50年前からすでにあった
武士や大名が山科を行き交うときに、この土塁と堀を目にしてその技術を学ぶ
明治時代にレンガのトンネル → 上を旧東海道線の鉄道が走っていた
日本の旅客用の鉄道開業年
1. 明治5年 新橋〜横浜
2. 明治7年 大阪〜神戸
3. 明治10年 京都〜大阪
4. 明治13年 京都〜大津 ○
日本で初めて山越えに挑んだ鉄道路線
逢坂山に日本初の山岳トンネル
初の山越えに挑むため、イギリスから新たにパワーのあるタンク式蒸気機関車を輸入する
山がちな日本で鉄道を通していく礎
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