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考えごと日記その12 「陸奥宗光」を読んで陸奥の青年期を考える

これまたおもしろいなぁ〜。

幕末明治維新の本当の闘いは「不平等条約の改正」とにらんでいるボクは(←調べてるうちに変わる場合あり…)、その立役者である陸奥宗光を読んでいる。この男がなかなかおもしろいのだ。

だいたい事を成す人物は、勉強も遊びも普通じゃないことが多いのだが、陸奥宗光もそんな人物なのだろう。20歳の陸奥は坂本龍馬と出会い、亀山社中に入る。ただしこのころの陸奥は亀山社中の中でもまだ「その他大勢」のひとりだ。

吉原に通いつめ、遊女らと親しい仲になるのだが、いつも財布の底に小銭をつめて、その上に数枚の金貨や銀貨を敷き、いかにも金持ちだとハッタリをかましてたらしい。

また布団を買うおカネのない陸奥は、あらゆる布団屋からたくさんの見本品を取り寄せ、その見本品から綿をひとつかみずつ抜き出しては理由をつけて店に返す。そしてついには集めた綿を使って自分で布団を作ったというのだ。悪知恵のはたらく男だ。

そのいっぽうで陸奥は、勝海舟塾をはじめ多くの塾にも出入りしてたそうだ。遊びだけでなく勉強にも一生懸命だったようだ。おどろくのは長崎領事館のイギリス人に、長崎・上海を往復するイギリス船に乗組員として乗せてくれ、と懇願したそうだ。

その船で働きながらイギリス人と会話すれば、もっと英語が上達するだろうと考えたようだ。確かにそうだ。机に座って覚えるより実戦のほうがはるかに上達は早い。もちろんそんなことを考えるのは陸奥ひとりだけだったようだ。

そんな陸奥だが、小利口で口がうまくお調子者の性格が災いし、ほかの浪士たちには嫌われていたようだ。勝海舟も「塾中では、小次郎(陸奥宗光)の評判は甚だ悪かった」と語っている。なんとなくわかる。ボクも若いころを振りかえると、小利口でお調子者、そんなヤツいたわ。ボクはそういうヤツが確かにキライだった。

ところが、どうやら陸奥はそこらへんにいるただのお調子者ではなかったようなのだ。上の者へのゴマすりにいそしむ中身がからっぽのお調子者ではなく、自分の考えをしっかりもっているのだ。それは陸奥が龍馬に何度か意見書を出していることからわかる。

このころの龍馬は、すでに薩摩や長州と交流しながら新しいニッポンの姿を模索しているところだ。海援隊(亀山社中)の浪士たちからしたら、龍馬はもはや雲の上の存在なのだ。その龍馬に「商取引を拡大させる方法」「破船のリスク」「海援隊をどう全国展開していけばいいか」などの意見書を提出している。

意見書というのは、往々にして現状に対する不平不満の内容になりやすい。ところが陸奥の意見書はごらんのとおり海援隊の未来を意見しているのだ。スゴいよ陸奥宗光ッ、まだ20歳そこそこの若者のやることとは思えないよ。

そしてそんな陸奥を龍馬が放っとくわけがない。龍馬は暗殺される1年くらい前(1866年ころ)から、陸奥をそばに置くようになる。このとき陸奥は22歳。最初は使いっ走りばかりだったようだが、22歳の若者にとっては、龍馬にあれしろこれしろと使われるだけで胸を弾ませたにちがいない。

その翌年の1867年は船中八策の作成、大政奉還など、龍馬は多忙を極める。龍馬はこれらの活動部門は中岡慎太郎を右腕として自ら進めていく。いっぽう海援隊の経営部門は、どうやら経理を岩崎弥太郎、そして営業や交渉ごとを陸奥に一任してしまうのだ。

この頃から岩崎弥太郎の日記に陸奥の名が頻繁に登場するようになる。そしてなんてったって龍馬本人が交渉相手に、今後は陸奥に一任すると手紙を送っているのだ。23歳にして海援隊の交渉ごとをまかされるという大抜擢。そして大きな責任。それだけ龍馬は陸奥にたいして目をかけてたようだ。

ところがだ。残念ながら長くはつづかない。龍馬が暗殺されてしまうのだ。と同時に海援隊は解散となる(その後、海援隊は岩崎弥太郎によって土佐商会、そして三菱商事となって発展する)。幕末の陸奥は、このようにまだ歴史を動かすような活躍はしていないのだ。

しかし陸奥はこの時期に、坂本龍馬という偉大な男を身近に感じ、そして敬愛する。「情熱」と「判断力」。陸奥は龍馬からこのふたつを学んだそうだ。そしてそれらの言葉を胸にきざんで、明治維新後の「不平等条約の改正」という大仕事に臨むのだった。

ここでひとつ思うことがある。前述したように、小利口でお調子者の陸奥は、ほかの浪士たちから嫌われていた。それは上司にも嫌われておかしくないということでもある。ましてや意見書まで出してくるのだ。あいつは生意気だとか、黙って決められた仕事だけをしろとか、「仕事とは」とかいうお説教とか、上司からそう扱われてもおかしくない。

そんなクソ生意気な陸奥を、龍馬は高く評価する。そして海援隊の交渉事をすべて任せてしまうのだ。もし龍馬も陸奥を煙たがり遠ざけてしまっていたら、はたしてその後の陸奥はあっただろうか。

そう考えると、人は誰と出会い、誰を師とあおぎ、誰に影響されたか。そして上司となった自分は、人とどう接し、人にどう影響を与えられるか。これらはとても大事なことのように思う。自分だけでなく人の人生までも左右するものだからだ。

最後に…

そういえば昔からボクは、よく人から「感謝が足りない」と言われたな……

それだけ人間として小さいということなんだな……

人に対しても……自分に対しても……

思えば反省することばかり、懺悔の気持ちでいっぱいです。

わけへだてなく良い人材を引き上げる坂本龍馬と、それに答える陸奥宗光、見習います。

……

今となってはもう遅いけど…💦


幕末の陸奥宗光


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