#アズリム物語 『だれかの心臓になれたなら』(前)

あのアイドルみたいに、僕は嫌だと叫べたらいいのに。

−−−−嫌だ。

嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。

はじめは怖くて、すくみあがってしまった心。
だけど、これが夢へと踏み出す第一歩ならと。

勇気をもって踏み出したその先に、
待っていたのは、暖かい心で受け入れてくれる人たちだった。

−−−−センパイ

アズリムのことを、大事に思ってくれるひとたち。
アズリムのことを見て、元気が出たよって言ってくれるひとたち。

何をしたら、喜んでくれるかな?
何をしたら、楽しんでくれるかな?
何をしたら、びっくりしてくれるかな?

ママとふたりで一生懸命考える。

うまくいったら大喜びして。
うまくいかなかったら反省して。
気持ちが届いたら、とっても嬉しくて。

元気がでたよって、センパイたちは言うけれど。
元気をもらっているのは、アズリムの方だと思うよ。

はじめはアズリムのものだったはずの夢。
だけどその夢はもう、アズリムだけのものではない気がする。

あのとき、遠くにあった憧れに、
アズリムは少しだけ、近づけたのかな?

だから……

だから、お願い……

†††

「こんな世界」と嘆くだれかの
生きる理由になれるでしょうか

†††

−−−−キラキラしていた

♪ Welcome to ようこそ バーチャルパーク!

超満員のホールに音楽が流れると、地鳴りのような声援が轟(とどろ)いた。

演劇と歌唱のカリキュラムがある私立の学校。今日はその入学説明会。会場に詰めかけた満員の観衆は、これを見るために集まったと言っても過言ではない。

学生たちによるステージのはじまりだ。

学生といっても、普通の学生ではない。

YoutubeやSNSで、もう既に芸能人と変わらないような知名度を持つ人気者が大勢いる。既にデビューをしている人だって何人もいる。ここは、そういう教育をうけるための学校だ。

だから、入学説明会とは名ばかり。入場に年齢制限はあるものの、説明会のチケットをオークションに出せば、プレミア価格がつくような超人気イベントだ。ネット配信だってされている。

学校にある施設とは思えないほど大きなアリーナは、学生たちのステージを見たいというファンたちでごった返していた。

ステージの口火を切るのは『田中ヒメ』と『鈴木ヒナ』

圧倒的な歌唱力で人気に火がついた、今最も勢いのあるユニットだ。

「な、なんで、みんなニンジンふってるの!?」

アズリムは困惑(こんわく)していた。

『ようこそジャパリパークへ』の替え歌『ようこそバーチャルパークへ』がかかると、会場中の観客が、一斉にニンジンを振り出したからだ。

「ヒメヒナのライブでは、サイリウムのかわりにニンジン−−−−ニンをふるのです。さあ、君も」

隣で熱心にニンジンを振っていた観客が、アズリムにニンジンを手渡した。入場口で配られた名札には『マッパ(得意技 : スパチャ)』と書かれていた。

「……あ、ありがと。マッパさん」

ニンジンを受け取ってステージを見上げると、歌はサビにさしかかっていた。

「えっ…あっ……えっ?ウマでてきた……」

このニンジンは、あのウマのエサだったの?アズリムの困惑は加速する。ヒメヒナの後ろに、ウマのマスクを被ったダンサーが登場し、キレキレのダンスを披露しはじめたからだ。

「ばあちゃるー!」と、どよめくような歓声のあと、会場のボルテージが一気に上がった。

「見てみてー!ウマだよ。ほら、ウマ」

「おーすごいね、ウマだねぇ、ウマいねぇ」

「ぱっからぱっからぱっからぱっから」

ステージ上で、ヒメがウマの物真似を披露すると、それを少しあきれたようにヒナが受け流した。

ただアズリムは思った。お前らの後ろに、ウマのマスク被った男がいるんだよォ!そっちに突っ込めェッ!田中ァ!鈴木ィ!と。

「「はいどうぞ ♪」」

ヒメヒナのかけ声で、今度はキツネ耳の女の子が現れた。

「のじゃおじー!」と、歓声があがる。

「彼は、バーチャルのじゃロリ狐耳Youtuberおじさん。略して『のじゃおじ』と言います」

アズリムの隣で熱心に『ニン』を振るマッパが、親切にも解説をしてくれた。

バーチャル?のじゃロリ?狐耳?Youtuber?………おじさん?女の子なのに?アズリムには理解が追いつかなかった。わからなかった。ぜんぜんわからなかった。ステージの上にあるのは、正しくカオスだった。

ふたりは、どこまでも自由だった。

とつぜん反復横跳びをはじめたと思ったら、観客に背を向け遊びだす。おいかけっこがはじまったと思ったら、間奏では好き勝手にお話をはじめる。ヒナがステージで横になると、ヒメがそれをまたいでドヤ顔をする。

普通のアーティストのステージでは見られない景色が、そこにはあった。

−−−−だけど

…楽しい…楽しいっ!

……たのしいっ!!!

ステージにいるふたりの「楽しい」が、飛び跳ねるみたいにここまで伝わってきて、アズリムの心を揺さぶった。

気付けばまわりの誰よりも大きな声を上げ、小さな体をいっぱいに使って、アズリムは『ニン』を振っていた。

♪ ララララ ララララ Oh, Welcome to the バーチャルパーク
♪ ララララ ララララララ 集まれ友達
♪ ララララ ララララ Oh, Welcome to the バーチャルパーク
♪ ララララ ララララララ 素敵な旅立ち
♪ ようこそ バーチャルパーク!

クライマックスに差し掛かると、ステージにはウマのマスクを被ったダンサーたちが次々と現れた。

なにこれ……なにこれ……なにこれ……!

次々と想像を上回る状況がステージに発生する。予想を上回るサプライズ、極上のエンターテイメント。楽しい時間が終わりを告げると、ステージの照明が、ぱっと落ちた。

真っ暗になった会場には、興奮の残り香(が)があって、どよめきはおさまらない。

その時だった。

「yeah……ah……♪」

先ほどとは打って変わって、ヒメのクールな歌声が響いた。どよめきは歓声にかわり、会場の熱気が急上昇する。

「Giga」

ヒナの声で、ステージにスポットライトが灯る。光の中には、黒い衣装を身にまとったヒメヒナがいた。

「「パパパ パララララ ラーーーッ!!」」

鳥肌がたった。飛び跳ねていた。叫んでいた。

悲しい訳じゃない。嬉しい訳じゃない。ただカッコいいだけ。

−−−−それなのに

どうしてだろう、アズリムの瞳から涙がこぼれた。こんな風に涙を流すのは、はじめてかもしれない。

「ヘイ」「ヘイ」「ヘイ」とふたりがクラップをするたび、会場が揺れる。

♪ 子供騙しのマセマティカ
♪ バレてんだってそんなのって
♪ プライドがないや

ヒナの歌声が響くと、アズリムの頭は真っ白になった。

それからのことはよく覚えていない。ただ流れてくる音に身を委ね、魂の奥の方からわき上がってくる何かに突き動かされるみたいに、声をあげ、体を揺らした。

♪ ダッダッダ あたし大人になる
♪ 酸いも甘いも噛み分けて今

♪ 燦々 交わるミライ
♪ もう子供じゃないのわかるでしょ

♪ 時代 機会 待ってくれない
♪ 素手で、捨て身で、生き抜いて上等だわ

だけど……

予感してしまう。この幸せにあふれた時の終わりを。このまま、このまま。いつまでもこのまま、終わらないでと願っても、その時は必ずやってくる。

「「愛ある時代ーーーっ!!」」

この小さなからだの、どこにそんな力が蓄(たくわ)えられているのだろう。どこまでも、どこまでも。まるで澄(す)み切った夜空に流れる流星みたいに、伸びやかな声。

「「フロアが 沸き上がりました」」

ジャンッと、会場の照明が一気に落ちた。

真っ暗になってくれてよかったと、アズリムは思った。こんな涙でぐしゃぐしゃな顔なんて、誰にも見られたくなかった。

体の奥の方に、熱いものがある。まるで心臓がふたつになったみたい。

かわいい、かっこいい、たのしいっ!そのなにかが、叫んでいる。

そんなはずない。
そんなわけない。
だけど、そうかもしれない。

アズリムは、今日ここで、この歌を聞くために生まれてきたのかもしれない。

違うって思うのに。そうじゃないって分かっているのに。

だけど、アズリムの体の奥のほうにある何かが、鼓動(こどう)するみたいに、そう叫んでいる。

だから、あり得ないことを想像してしまう。

もしも、もしもだよ?

そんなこと、ぜったい高望みなんだって思うけれど。

アズリムの歌で、こんな風に思ってくれる人がいたら、それはどれだけ素敵なことだろう。

†††

これは僕がいま君に贈る
最初で最期の愛の言葉だ

†††

『ア』ズマリム

教室の廊下側、一番前の席。

4時間目のチャイムが鳴り終わると同時に、だっと席を立ち、急いで教室を出よ……

「あだっ!」

うとして、となりの机にスネをぶつけた。

「あ、アズマさん……大丈夫……?」

うううっと、うずくまったアズリムに、まだ席に座ったままの、隣の席の子が心配そうに声をかけた。

−−−−は、はじめてしゃべった!!

ずきずきと痛むスネよりも、どきんと跳ねた心臓が、どくどくする。

「あ、アズリムはっ!だ、大丈夫だから」

急いで立ち上がり、歩き出そうとし……

「はうっ!!」

て、今度は反対側のお尻を自分の机にぶつけた。

「だだだ、だいじょうぶだから」

何か声をかけようとしてくれていた隣の子を振り払うみたいに、よろよろと教室の外に向かう。既に教室の出口付近は、昼飯を食べようと友だち同士でどこかへ向かう生徒でごった返していた。

「うーんっ!ぬーーっ!」

小さな体で人ごみをかき分けるようにして、教室の外にでた。一学年上のセンパイの教室へ、はやく行かなければ。

(いっしょに、おひるごはん、たべてください!)

で、いいのかな?でも、コミュ障気味のアズリムに、そんなこと言えるのかな?

「お昼ご飯なんて一緒に食べるのはどうかしら?」とはママのアイディア。そんなの緊張するよと言ったら「だいじょうぶ。リムちゃん、こんなに可愛いんだもん。そんなこと言われたらイチコロよ?」ってママは言ってたけど。

あ……

廊下に出て気付いた。お弁当箱、持ってくるの、忘れた。

ママが朝早くからつくってくれた牛肉のしぐれ煮。ご飯にのせてたべると、アズリムの大好物の牛丼みたいだから、お弁当のおかずのなかでは、一番好き。

アズリムの勇気がでるようにって、甘い卵焼きと一緒に、ママがいっぱいお弁当箱につめてくれた。ふたりのセンパイと、おかずの交換ができたら素敵だなって、アズリムは思った。

人数が半分くらいになって、すこし閑散(かんさん)とした教室にもどって、アズリムは鞄からお弁当箱を取り出した。

急に足が重くなる。今から行っても、ふたりはもう、教室にいないかもしれない。

ぎゅっとお弁当箱を抱きしめる。

だけど、せっかくのママの気持ちを裏切るのは、間違っているような気がした。

うつむいて教室を出て、階段をあがって2年生の教室の前まで足を運ぶ。同じ学校にあるのに、センパイの教室はまったく別の世界みたいに思えた。廊下にいるひとたちは、アズリムなんかよりずっと大人に見えた。

扉から、教室を覗(のぞ)き込むことだって、どれだけの勇気がいるか分からない。廊下のはじっこから、おそるおそる盗み見るみたいに、ふたりのセンパイがいる教室を覗(のぞ)いた。

−−−−いない

そうだよね。そうだ。

きっと、ヒメセンパイとヒナセンパイは人気者だから、お昼ご飯の約束なんて、1年先までいっぱいなんだ。そこにアズリムなんかが割り込もうなんて、おこがましい話だったんだ。

1年生の教室に帰ろう。ううん。今日は天気がいいから、中庭でご飯を食べよう。

ドキドキと、いっぱいの不安。ふたりのセンパイと、どうしたら楽しくお昼ご飯を食べられるのだろうって、ずっと考えていたから、それができなくなって、ちょっと寂しい。でもそれが、きっと当たり前のことなんだ。

ママに心配かけるといけないから、お家に帰ったら、楽しくお昼ご飯できたよ!って笑わなきゃいけない。そうできたら、何も問題はないはず。

何の…問題も…ない。

制服の下に着ているパーカーのフードをかぶって、とぼとぼと、廊下を歩き出したその時だった。

「ヘイ、ジョージ?」

と、声がした。ジョージ?外国のかた?やっぱりすごいね。留学生の人も学校にはいるんだ。

「ジョジ?ヘイ、ジョジ?」

だけどその声は、間違いなくアズリムに向けられていた。こわごわと、パーカーの下から、声のしたほうをうかがった。

「あぅーっ!小さいね。かあいいね。ジョジだね。1年生かな?1年生だね?2年生の教室に何の用かな?あーっ!もしかして、ヒメにランドセル見せに来てくれたのかな?いーねっ!!ペロペロしたいね。ランドセル、ペロペロしたいね。うううぅぅ〜」

まるでマシンガンみたい。風圧でアズリムのパーカーがふっとんでしまったんじゃないかと、錯覚するくらい、テンションの高い、大きな声。

「ねえ、この子困ってるよ?かわいい1年生見つけたら、ランドセル背負わせようとするクセ、やめたら?」

「だって、こんな可愛いんだよ?ランドセル背負うのは、むしろ義務じゃない?正義じゃない?ジャスティスじゃない?ジャースティスっ!!そう、ジャスティスなんだよ!ヒナ!!、!!!」

「そんなヘンタイみたいなこと言うんだったら、お昼ご飯、いっしょに食べてあーげない」

「あぁぁぁ……!ヒナちゃんっ。それだけはどうか、ご勘弁を……ううううぅっ〜」

嘘だよね?

「というかそもそも、ヒナたちとこの子、そんなに身長変わんないよ?この子がジョジなら、ヒナたちもジョジだよ?」

「違うよヒナちゃんっ。身長がどうとか関係ないんだよ。ジョジは魂のありかたなんだよ。たとえ中年のおじさんでも、心がジョジならジョジなんだよっ」

「あはは。なにそれ、中年ジョジってこと?」

「そう!中年ジョジっ!!」

「ヒメの魂は、ジョジっていうより、おっさんって感じするなぁ」

「うー!ひどいよヒナぁ!それじゃあ、田中のおっさんになっちゃうよぉ〜」

「あはは。田中のおっさんだ」

「ヒナがそんなこと言うんだったら、ヒメだっておっさんっぽいこと言うよ?あの可愛いジョジとヒナの身長がさ、同じくらいでジョジってことはさ、ヒナもついに、ランドセル背負ってくれる気になったってことじゃないっ?」

「なりません」

「うぅぅぅ〜、そこをなんとか……」

「は?」

「あ、ヒナちゃ、クチ、『ム』ってするの……やめて……かわいいけど……かわいいんだけど……心が、痛ひ…」

ヒメセンパイと、ヒナセンパイだ……

ふたりはちょうど、アズリムが見ていた方とは違う教室の出口から、廊下に出てきたところだった。

手には可愛らしい青色のナプキンに包まれたお弁当箱と……あれ?ヒメセンパイ、ピンク色の風呂敷に包んであるの……肉まん?なんで?

その疑問が、アズリムの硬直(こうちょく)をといてくれた。

「ひ、ヒメ……センパイ?ヒナ……センパイ?」

喉がカラカラになってしまったみたい。つっかえるみたいにして、なんとかその言葉だけをひねりだした。

「そーですっ!田中ヒメとぉ……」

「鈴木ヒナでーす」

「「しゃきーんっ!」」

と、ポーズをとると、ニコニコと、ふたりはアズリムに向かって手を振る。

「ねえねえ、ヒナ、こんな可愛いジョジが、ヒメたちのこと、知っててくれたよ!!」

「もしかしたら、ライブを見てくれたのかな?入学説明会とか、文化祭とか、超大きいパーティーとか♪」

「頑張ったかいがあったねぇ。ヒナちゃん。あたしゃ、うれしいよぉ。ううぅぅぅ〜」

すごい。知ってる。アズリム知ってるよ。時々、おばあちゃんみたいになるヒメセンパイのクセ。あれからずっと、見てたから。

遠く。遠くにいると思っていた人たちが、いま、アズリムの目の前にいる。まるで動画やライブから出てきたみたいに。

はやく…はやく何か言わなきゃと思うのに、言葉がつかえて喉から出てこない。

「ジョジのお名前はなんていうのかな?」

ヒメセンパイは、すこし身をかがめて、パーカーの下にあるアズリムの顔をのぞきこんだ。

キラキラしていた。ヒメセンパイの目の中に、お星様があるみたいに見えた。

「あ…アズマ、リムです」

「ヘイ、鈴木。この子、かわいい。すぐにお砂場へ連れ込もうぜ」

「アズマリム………アズリムちゃんかぁ!」

「あっ……はいっ!あ、アズリムって呼んでくれると、嬉しい……です」

「ヒナたち2年生だけど、あんまりかしこまらなくていいよ?そういうの、あんまり得意じゃないし。ほら、リラックス。リラックス」

「ほ……ほんと?」

「ぶっはぁあっっー!!、!!!なあ、鈴木ィ、かわいすぎね?今の、フードの下から『ほんと?』ってやばすぎるでしょう?破壊兵器すぎるでしょう!逮捕が必要だぁっ!鈴木刑事ァ!!やっぱり、今からお砂場……」

「うん!ヒナたちに、けーごなんて使わなくていいよ。いつも通りでいいから」

「あ、ありがとう……で、でも、ふへへ…緊張…する」

「えー?緊張なんてしなくていいよぉ」

「で、でも、ヒナセンパイのこと…ずっと見てたから……」

「ほんと?うれしい!」

「あっ……待って……ヒナちゃん、アズリムちゃん……ごめんなさい。無視しないで。ううぅぅぅ〜」

「ヒメが悪いんでしょお?ランドセルとか、お砂場とか、ふざけたことばっか言って」

「ごめんね。ヒナちゃん。おうち帰ったら、シロクマ買ってあげるから許し……」

「許す」

おもわず「はやっ!」とツッコんでしまっていた。

でも、センパイたちにツッコミなんて、もしかしたら、失礼なこと言ってしまったかもしれない。嫌われて…しまうかもしれない。暖かい気分になりかけていた心に、とつぜん不安がもくもくとわいてきた。

だけど、ヒメセンパイはそんなこともおかまいなしに笑顔だった。

「アズリムちゃんは、2年生の教室に何か用だったの?」

どくんと、心臓がとびはねる。言わなきゃ……言わなきゃ……

「どうしたの?」

突然だまりこんでしまったアズリムに、ヒナセンパイが近づいてきた。わぁ……髪サラサラ……顔ちっちゃい……なんか、いいにおい……って、ち……ち、ちかいよ!ヒナセンパイ!!

顔が真っ赤になっているのがわかる。ばっと、飛びのいて、がばっと、頭をさげた。

「ヒメセンパイ!ヒナセンパイ!…っ…おひるごはん…はぁっ…いっしょに、たべてくだひゃひ!」

たったのひとこと。たったのひとことなのに。くらくらとして息切れをおこしてしまう。噛んでしまった舌の先がジンジンとする。かぁっと顔が熱くなって、ほんとうにクチから出てきそうなくらい、心臓がばくばくする。

一瞬の静寂。アズリムには、その時間が信じられないくらい長いものに感じられた。

「……ねえ、ヒナぁ」

「ごめん、ヒナもわかっちゃったかも」

なに?何がわかっちゃったの?ひょっとして、アズリムは何かとんでもないことを口にしてしまったの?だけど、ふたりはアズリムの予想に反して……

「「くっそかわいーーーー!!」」

そう言って、あははと笑い合う。飛び跳ねる。「くっそかわいいんだけど。まじ、やばいっ!」「あぅー!お砂場だぁ!」「それは却下」「ええぇ〜」とふたりで騒いだあと、ヒメセンパイがアズリムの方を向いた。

「ヒメたちを、ごはん誘いにきてくれたの?」

「…め、めいわく?」

「ううん!ぜんぜん!こんな可愛い子とご飯食べられるなら、ヒナはこちらからお願いしたいくらいだよ」

嘘みたい。夢みたい。涙がでてしまいそう。

ずっと、ずっと。

昨日から、ママに「お昼ご飯に誘ったら?」と言われたときからずっと、どうやってふたりにお話しようか、考えていたから。だけど、こんなところで泣いてしまったら、きっと変な子だと思われるから。

「ありがとう!センパイ!」

アズリムはそう言って、優しいセンパイに、精一杯の笑顔で応えた。

†††

街も人も歪み出した 化け物だと気付いたんだ
欲動に巣食った愚かさも 全てがこの目に映る

†††

「ねえママ!聞いて!今日ね、ヒメセンパイとヒナセンパイと、ご飯たべた!」

靴を脱ぐのももどかしくて、玄関の鍵をあけると、アズリムは大声で言った。

「まぁ。それは良かったわね。どうだった?楽しかった?」

リビングダイニングから、エプロンで手を拭きながらママが出てきた。腕には藤(とう)のバスケットを下げている。

「楽しかったっ!!ママのしぐれ煮美味しいって、いっぱい食べてくれた。ヒメセンパイなんて、肉まんにしぐれ煮つめて『牛(うし)まん』にしてたよ。ヒナセンパイは『牛マーン!』って言って笑ってた。あ、あとね、ヒメセンパイが『あーおいちおいち』って言ってたよ。ほんとに言うんだねっ!動画見てるみたいだった!」

玄関に腰掛けてママを見上げる。

クツを脱いでしまう前に、カバンから出したお弁当の包みをほどいて、空っぽのお弁当箱をママに見せた。ママは「良かったわね」と言って、本当に嬉しそうに笑ってくれた。

「じゃあ、今日も動画の撮影頑張らないとね!」

「おーー!今日のアズリムなら、100万再生くらい、よっゆーかも!」

「リムちゃん、あんまりイキるのはだめよぉ?」

「でもでも、楽しかったんだもん!アズリムね、今日のこと、はやくセンパイたちにお話ししたいなぁ」

「その前に、リムちゃんに良いニュースがありまーす!」

「良いニュース?ヒメセンパイとヒナセンパイとご飯食べたことより?」

「ふふふ…どうかなぁ……?」

「えーなになに!ママ、早く教えてよぉっ!!」

「なんとっ!」

そう言って、ママはにっこりと微笑んだ。

「リムちゃんのデビューが決まりましたぁー!!いえーい!ぱちぱちぱち」

「ぱちぱちぱちー♪」と言いながら、ママは腕に提げたバスケットから、紙吹雪をまいた。

「…ぅそ……ほんと……なんで?」

ヒメセンパイとヒナセンパイだって、まだデビューしてないのに。ううん。人気がどれだけあったって、デビューできる人なんて、ほんの一握りのはずなのに。

「ママ、頑張っちゃいました」

と、ママは胸を張る。

アズリムなんて、ほんとうにぜんぜん、まだまだなのに。
だから、ママなんだ。ママが頑張ってくれたからなんだ。

ママは、大人なのに、思っていることをなかなか口にだせない人だ。アズリムから見ても、けっこうなコミュ障だと思う。

それなのに……

きっと大変なこと、たくさんあったよね。
嫌な思いも、いっぱいしたかもしれない。

だけど、アズリムのために、ママは頑張ってくれたんだ。

そう思うと、デビューの喜びよりも先に、涙があふれてきた。

「……っ……っぅ……ぅう……ぇぇええ…」

「り、リムちゃん!どうしたの?紙吹雪が気に入らなかったの?」

「あ、あ、ありがどー、ママぁ……ママっ……っう……ぇぇぇええ…」

立ち上がると、ママの胸に飛び込んだ。やわらかくて、あたたかくて、いいにおいがした。クツはまだ脱いでいなかったけれど、そんなことなんてどうでもよくなるくらい、ありがとう、って思った。

「あーあ、リムちゃんは、本当に泣き虫さんですねぇ」

よしよしと、ママが頭をなでてくれた。そうすると、おなかの奥のほうから、あたたかい気持ちがわきあがってきた。

「‥‥ぐすっ‥‥アズリム、頑張るね。いっぱい頑張るね」

「うん。リムちゃんの夢を叶えるために、ママもまた、いっぱい頑張りますからね」

「……っ……大変だった?」

「うーん、ちょっとだけ?」

「嘘だ。ママ、コミュ障だもん」

「そうねぇ。たしかに大変だったけど、リムちゃんのためって思ったら、ママ、どこまでだってパワーが出せる気がするの」

「ありがとう。ありがとう。ありがとぉ……」

ありがとう。ありがとう。ありがとう。

感謝を口にするたび、言葉が軽くなってしまう気がする。

胸の中にあるいっぱいの「ありがとう」を、どうしたらママに伝えられるのか、アズリムにはぜんぜん分からなかった。

だから、アズリムはいっぱい頑張って、憧れに向かい、夢を叶えて、キラキラして、ママを、センパイたちを、いっぱい喜ばせてあげたいって。そう思った。

−−−−そう、決めたんだ。

「ねえ、リムちゃん、動画配信はじめてみない?」

ママがピカピカのビデオカメラをかまえてそう言ったのは、受験が終わってすぐの頃だったと思う。

「えぇ、こわいよぉ……」

「学校の先輩たちは、けっこうやっているんでしょう?リムちゃんもはじめてみたらどうかなって、ママ思ったの」

「でもぉ……」

「いっぱい頑張ったら、リムちゃんの大好きな、『そらちゃん』や『ヒメヒナちゃん』とコラボできちゃうかもよ?」

「ほ、ほんとっ!」

「うん。ママも頑張るから。コラボしませんかー?って、いっぱいリムちゃんの魅力を伝える営業をしちゃう」

「でも、ママ、コミュ障でしょ?」

「うっ!」

「ほんとに営業なんてできるの?この前だって、道の向こうにお隣さんが見えたら、すぐに道、曲がってたじゃん」

「ううっ!!」

「ピザ頼んだのに、宅配の人来たら、『リムちゃん出て…』っていっつも言うのに」

「うううっ!!」

「人前に出ると、ママの声、小さくなるし」

「で、でも!」

ママは、新品のビデオカメラを振り下ろして言った。仁王立ちというやつだ。

「ママはリムちゃんのために頑張るって決めたんです!」

ごぉぉぉと、ママの後ろにゆらめく炎が見えたような気がした。ママはやる気だ。その情熱にあてられて、アズリムは言った。

「じゃあいいよ。動画配信やってみよぉー!ゲーム実況とか、ちょっと興味あったし」

「ほんとっ!リムちゃんいいのね?じゃあ、ママ、リムちゃんの可愛いとこ、いっぱい撮っちゃうから!!」

「えいえいおー!」と、ふたりで声をあわせる。心がぽかぽかして、ママと一緒なら、なんだってできちゃいそうな気がした。

「いつからはじめるの?」

「うーん、ちょうどキリがいいし、3月1日なんてどう?」

「ええっ!ママ!ほとんど時間がないよっ!?」

「ふっふっふ。そう言うと思って、ママ、こんなものを作っていました」

ドサリ。と。

ホットカーペットにごろごろしていたアズリムの前に、ママは紙の束を落とした。

「な、なにこれ!」

「アズマリム動画配信プロジェクト、その企画書よ」

ドンッ!と、ママの後ろに超有名海賊漫画の効果音のようなモノが見えた気がした。

「リムちゃん、受験勉強、頑張ってたでしょ?だから、ママも頑張らなきゃって、こっそり作ってたの」

アズリムは、その紙の分厚さに、すこしおのののか。おののいた。

「こんなに?」

ページをめくると、アズリムの衣装デザインが書いてあった。ママの手書きだ。

「わー!なにこれ!かわいいー!ねえねえ。ママ、アズリム、このパーカー大好きっ!!猫耳ついてる!!きゃー!猫さんだぁ!!」

「ちっちっち。リムちゃんは分かっていませんねぇ。この衣装のポイントはココ!リムちゃんの、絶対領域っ!!、!!!」

「わー、ママ、発想が、おっさん」

じとーっとした目でママを見る。

「そ、そんなことないでしょ!?だって可愛くない?駅とかで可愛い女の子の絶対領域を見たら、『生きててよかった』って気持ちにならないの?ねえっ!」

「わー、そうだとおもー」

「ママは、リムちゃんの育て方を間違えてしまったのかもしれないわ…ぐすん…」

「むしろ、ちゃんと育ってるよ……」

その言葉を無視するみたいに、ぱたぱたとママが寝室に消えた。

「ママ?」

不思議に思って、アズリムが声をかける。寝室から戻ってきたママは、なぜか少し得意げだ。

「ふふん。リムちゃん?ママがデザインだけで終わると思いましたか?」

「うそっ!」

ママは「じゃじゃーん」と言って、後ろ手に隠していたそれを見せてくれた。

「アズマリム衣装。冬服verになりますっ!暑くなってきたら、夏服も作ってあげるからね〜」

ハンガーに吊るされたアズリムの衣装一式。フードについた猫耳の片方にはピアスがついていて、とっても可愛い。白と黒のアシンメトリーのデザインには、可愛いさだけじゃない、かっこよさも感じる。

スカートはちょっと短すぎる気がするけれど、ママが一生懸命作ってくれたんだから、文句なんて言えないよね。

「これがソックスとシューズね」

黒のオーバーニーソックスと、少しふわっとした白のシューズ。さっきはあんなことを言ったけれど、これを履いたら足がキレイに見えそうで、心がわくわくした。

「着替える?」

「うん!着てみたい!はやくっ!はやくっ♪」

ぱっと立ち上がって、足をたたたっ、と踏みならす。

ママから衣装を受け取ると、隣の寝室へ行って、手早く着替えた。ひとしきり着替え終わると、フードをかぶって、薄暗い寝室からリビングへ出た。

「ど、どうかな?ママ?」

足がすーすーするから、スカートをぎゅっと抑えて、もじもじしてしまう。

「く……く……く……くそ……くそ……」

え?くそ?ママ、アズリム、くそなの?

「くっそかわいいーーっ!」

ごぉぉぉぉっと、ママの口からビームが飛び出したみたいに思えた。ビームのなかには「く」「っ」「そ」「か」「わ」「い」「ーーっ!」の文字が見えた。

びょう。と、アズリムの顔に一陣(いちじん)の風が吹いた。それは幻覚ではなく物理的なもの。ママの口からまろび出た声が、空気をふるわせ、風を吹かせた。

「わぷっ!」

風がアズリムの髪を揺らして、おもわず後ろを向いてしまう。くしくしと目をこすって「っし」と振り向くと、カメラが三脚(さんきゃく)に据(す)えられていた。

「あれ?」

録画中っぽいようなランプが、赤く光っていた。

「光ってる…?」

おそるおそる、カメラへと近づく。

「え!?」

そうして気付いた。

「もしかして、これもう、撮ってる!?」

ママが「うん」とうなずくと、大きなスケッチブックに『自己紹介!!』と書いた。

これって…いわゆるカンペってやつ?

ええっ!!えええええっ!!
ママ、いきなり過ぎるよぉおおおおおお!!

「ああっ……緊張しだぁ〜」

「リムちゃん、かわいかったわよぉ。とくに、動画を見ている人のことを『センパイ』って言ったのがよかったわぁ」

「……い、いきなりだったから」

「でも、よくできました。リムちゃんえらいわね。はじめてとは思えなかったわ」

ママは「わー」と、ほくほく顔でアズリムを抱きしめる。

よしよしされながら、ぶぅと頬をふくらす。ママはいいよね。カメラかまえて、ときどきカンペ出すだけだもん。アズリムは、無茶ぶりされて大変だったんだから……

「でも、リムちゃん、年齢まちがえてなかった?」

「ええっ!おぼえてない!!アズリム、何歳って言ってた?」

「……高校2年生の17歳」

「違うじゃん!アズリムまだ、15歳だよ!!どうしよぉ。ママ、もう一回撮る?」

「いいんじゃない?」

「ええっ!!なんで?センパイたちに、ウソ教えたことになるよ?」

「よく考えて?リムちゃん、あと2回、7月7日を迎えても、17歳っていう、なんかよさげな年齢を使えるのよ?」

「意味わかんないよっ!!」

「ふふふ…3年目で、リムちゃんは18歳に成長するの。それまでに、どんなことがあるかなぁ。ママ、楽しみだなぁ」

「もうっ!」

嬉しそうにアズリムの頭をなでるママのことを見てしまったら、撮り直してなんて、それ以上言えなかった。

「じゃあ、アズリムが18歳になるまで、よろしくね。ママ!!」

「どうしようかなぁ〜♪」

「えー、なんでぇ?」

「18歳になってからも、ママは可愛いリムちゃんを撮り続けたいし、それに、リムちゃんの夢を叶えるためには、ママだけの力じゃ足りないと思うの」

「そうなのかな……」

ママはそう言うけれど、本当に、そうなのかな。

胸の奥の方が、すこしだけ、ちくちくする。

アズリムは、ママと一緒なら、なんだってできちゃう気がするよ?

「ねえ、リムちゃん。リムちゃんの夢は?」

「いっぱいあるけど……ヒメセンパイや、ヒナセンパイみたいに、お歌で、心臓とか、胸のところをどきどきさせられる人になりたいっ!」

「だったら、色々な人の助けが必要だわ。ママだって精一杯がんばるけど、たくさんの人に協力してもらわなきゃ、リムちゃんの夢を叶えられないんだから。そういう人たちに感謝することを、忘れてはダメよ?」

「はーいっ♪」

ママはすごいな。やっぱり大人だな。

胸のところのちくちくは、もう、ちくちくしなくなった。

ママに、センパイに、周りのひとたちに、

アズリムはいっぱい「ありがとう」って、前に進んでいこう。

3年後……

アズリムが、ひとつ年を取る時にはどうなっているのかな?

オリンピック、終わってるよね?
平成………終わるんだよね?

ぜんぜん、想像がつかないよ。

でも、そんなふうに、想像がつかないことに、
アズリムはなんだかワクワクするって……

おもうぞぉぉぉおおおお!!

一緒にがんばろうね、ママっ!!

「ああっ!リムちゃん!」

ママが青い顔をしている。

「どうしたの?ママ?」

「ママね、『おつおつおー!』っていう、とっておきの必殺最強アイサツ、考えてたのに、言うの忘れてたぁぁぁ〜」

「次やればいいじゃん」

「そうかなぁ……」

「そうだよ!!」

だってママとの時間は、こんなにもいっぱいあるんだから。

†††

シアトリカルに手の上で誰も彼も踊らされる
生まれた意味だって知らぬまま
形骸化した夢は錆びついてしまった

†††

−−−−テレビで見たことあるとこだ

出口がいっぱいありすぎるから、宮益坂←なんて読むか分からない。とこから駅を出て、工事現場みたいなところをいっぱいくぐって、どうしたらいいかわからなくなって、スマホで地図を見たらよけいわからなくなって、仕方がないから、こわごわとバス停のところにいる警備員さんに道を聞いた。

高架(こうか)の下をくぐって、ようやくここにたどり着いた。

大きな大きな交差点。本当に本当にたくさんの人が行き交っているのを、アズリムは交番の横から眺(なが)めた。

当たり前だけど、本当に、テレビで見たまんまだ。

ひとりでここまで来れたんだ。という喜びに、アズリムは、少し大人になったような気がした。気分がぶちあがる。いい波のってんね〜!!ふぅ〜っ!!

でもダメっ!!楽しくなっちゃダメ!!

このままじゃ、遅刻しちゃいそう。

いっぱいの人は、まるで壁みたい。本当に向こう側にたどり着けるのかな、大丈夫かな。アズリムはいま、ちゃんとした方にいってるのかな?間違った方、いってないかな?そもそも、『すくらんぶる』ってどういう意味なんだろう。

「ぷはっ!!」

そんなこと、できないし、したこともないけれど、25メートルプールを、息継ぎなしで泳いだみたい。

ようやく交差点の向こう側にたどりついた。

「えーっと?どーげんざか?どーげんざか……どっちぃ……」

道がいっぱいすぎて分からない。目の前には「センター街」って書いてある大きなアーケード。ハロウィンでウェイ!するとこだ……ちょっと入ってみようかな…でも、なんか怖い。

アーケードをちょっとだけくぐって、さっと戻った。よしっ、センター街、こんぷりーと!!

「左ぃ……左ぃ……かなぁ……」

ちょっと自信はないけれど、スマホで地図を見たらそんなような気がする。ここで立ち止まってたって仕方がないから、アズリムはそっちに向かって歩き出した。

交差点をわたるたび、ちょっとだけ不安になる。昔の人はよく、スマホもなしにこんなとこを歩けたよね。

あ、109だ。ギャルがウェイ!するとこだ。ちょっと入ってみようかな……でも、本格的になんか怖い。

えっと、こっちは坂で、こっちは平ら……

よし、坂だ。どーげんざかって言うくらいだもん。アズリム、えらい!かしこいっ!

ユニクロの看板が見えて、なんだかちょっとだけほっとする。ここにも、ユニクロってあるんだ。

「はぁ……はぁっ……さかのうえぇ……さかのうぇぇ……」

なんかえっちっぽい看板の横を通る頃には、もう息が切れていた。アズリム、こんなクソ雑魚体力で、本当にやっていけるのかな。

ようやくたどり着いた。なんか、ここっぽい。スマホで写真を確認する。よし、ここだ。

ピカピカのビルには、すごいっぽい大人の人たちがたくさん出入りしていた。足がすくむ。

−−−−ほんとうに、ひとりで大丈夫?

ママに「大丈夫っ!」って答えたんだから。

大人のひとたちが家にやってきて、けーやくが終わって、今日がはじめての打ち合わせ。

「アズリムもう大人だよ?JKだよ?渋谷なんて、よゆーだしっ」

そうやって、言ったんだ。

本当はママにもついて来てほしかったけど、でも、アズリムができることは、アズリムでできるようにならなきゃ、いけないんだ。

そうしないと、本当の意味で、ママに「ありがとう」って言えないような気がする。

「よしっ」と気合いを入れて自動ドアをくぐる。

ちがうっ!これコンビニ!!なんでっ!!アズリム、ビルはいったじゃん!!

パラララララー♪パララララー♪と、聞き覚えのある音楽がなって、店員さんが「いらっしゃいませー」と、アズリムに微笑んだ。

とってもコンビニから出づらくなったけど、コンビニの自動ドアの前で立ちすくんでいる場合じゃない。遅刻しそうなんだからっ!!

コチ、コチ、と90度ずつ回転して、アズリムはコンビニから外に出た。緊張してたのかな。なんか、足と手、同時に出てる……

あれ?あれれ?アズリムって、どうやって歩いてたんだっけ?

手はこう。足は……こう。そして手をこう……足を……

まずいまずい。こんな調子じゃ、ぜったい遅刻する!!

もうぜんぜん。なにもかも。よく分からなくなったから、とりあえず走る。

走って、もうひとつの入り口に入った。看板がある……何階だったっけ……受付ってとこでいいのかな?

あー!わかんない!アズリムわかんない!エレベータ!あった!乗ろう!なんかおじさんの集団、エレベータ行った!キレイなおねいさんもいる。よし、あれに付いていこう!!

息を切らせてエレベータに乗り込んで気付いた。

あ、おトイレ行きたい……

でも、おトイレいったら遅刻しちゃう……

えっと、えっと……

受付っぽいところで困っていたら、おねいさんに「どうしたの?」って聞かれて、もうどうしたらいいのかよくわからなくて「アズマリムですっ!!」って答えたら「ちょっと待ってて。そこで座ってていいから」と微笑んで、おねいさんはどこかに行った。

アズリムもいつか、あんな風に、余裕のある大人になれるのかな?

……ぜんぜん、想像もつかない。

おねいさんがやってきて、「ちょっとだけ待っててね」と言って、ペットボトルのお水を渡してくれた。あーうー。どうしよう。HP減ってる。きっとギリギリ。でも、膀胱(ぼうこう)パンパン……おトイレ、今のうちに行っていいのかな?

う、ううううう………

アズリム、膀胱パンパンでも、お水飲むのやめられないよぉ……

こくこくと、両手でペットボトルのお水を飲んでいると、「アズマリムさんですね?」と声をかけられた。

「は、はいっ!」

びくんっと、電流が流れたみたいにソファから立ち上がってお辞儀をする。さっきのおねいさんとは違うおねいさんだ。

「こちらへどうぞ」

少しだけ冷たい雰囲気のするおねいさんの後についていく。

てく。てく。てく。てく。

もし漫画だったら、ぜったいそんな擬音がついてる。

右、左、右、左、右、左、左……あぇっ……右……

一歩、一歩確認するみたいにして、おねいさんの後を歩く。

「こちらでお待ちください」

「あっ!ありがとうございますっ」

おねいさんは丁寧におじぎをすると、部屋を出て行った。

通された会議室はガラス張りになっていて、渋谷の街を一望することができた。こんな場所に来たことないから、そわそわしてしまう。座っていいんだっけ?だめなんだっけ?

わからないので、立ったままでいる。スマホを取り出してママにLINEした。

『と〜ちゃ〜く( ⸝⸝•ᴗ•⸝⸝ )੭⁾⁾どう?ひとりでこれたよ。アズリムえらい?』

ママからは「エライ!」って書かれたスタンプが送られてきた。

なんだかほっとしたら、達成感がこみあげてきて、ふわふわした。

「えへへ……」

と、スマホを見つめてにやにやしていると、ガチャと会議室のドアがひらいて、ふとっちょの中年のおじさんが入ってきた。

「あーアズリムちゃん、お久しぶり。ってお久しぶりでもないのかな?がはははは!」

大きな声で笑うおじさんのあとには、おにいさんと、おねえさんが続いた。

3人もいる…アズリム……ひとりでよかったのかな……

急に不安になって「エライ!」というスタンプのままになっているスマホを、胸のところでぎゅっと握った。

「がはははー。はぁっ。この前おうちに伺った時には、お母さんとだったからね。アズリムちゃんにはお名刺渡してないよね?私は、こういうものです」

「あ、ありがとう、ございます」

このビルに入ってから、「ありがとうございます」しか言っていないような気がする。次々と渡される名刺に、「アリガトウゴザイマス」と答えて受け取った。

「さあどうぞどうぞ、座って」

「アリガトウゴザイマス」

アズリムの胸くらいまである立派な椅子に腰掛けて、背もたれに体重を預けると、くにゃっとした。あわてて姿勢(しせい)を正す。

CCO(Chief Creative Officer)
兼 エグゼクティブ プロデューサー

これが、アズリムの正面に座ったおじさんの名刺。ニコニコとしているけれど、メガネの奥が笑ってないっぽいかんじ。鶴瓶(つるべ)にちょっと似てる。

ストラテジー パートナー
兼 マーケティング ディレクター

これが、おにいさんの名刺。びしっとジャケットを着て、銀ぶち丸メガネ。なんか、すごく頭がよさそう。

パテント マネージャー

これが、おねいさんの名刺。すごく美人だけど、とっても疲れてるっぽい。

おじさんたちの着席順に、名刺を並べ替える。えへへ。ママに教えてもらってよかった。こうしておけば、わからなくならないよね。

「えっとね、こちらのお兄さんが、アズリムちゃんの売り方を考えてくれる人、こちらのお姉さんが、アズリムちゃんの業務を管理する人、そして私が責任者ってところかな。わかる?」

「は、はいっ!」

おにいさんの仕事はよくわからないけれど、おじさんが偉い人で、おねいさんが、マネージャーさんってことだ。だって、マネージャーって書いてあるし。

マネージャーさんかぁ……なんか、芸能人!って感じ。

そわそわと、おねいさんに目を向ける。おねいさんは、こちらに目を向けず、ただ正面を向いている。うまく、やっていけるのかな……ううん。うまくやっていくんだ。何かしてもらったら、しっかり「ありがとう」って言おう。

「じゃあ、さっそくだけど、キミ、はじめてよ」

おじさんがおにいさんに声をかけると、資料が配られた。

とってもカッコいい感じのする表紙をめくって、パラパラと中身を見ると、複雑なグラフや図表、難しそうな言葉でいっぱいだった。

ママの作ってくれた企画書とは大違い。

ママのは、なんかぜんぶ手書きだし。クーピーペンシルとか使うし。でも、ママの方があったかい感じがしてすきかなぁ……

「今回の資料の目的は2点です。ひとつめは、アズマリムさんの現在のケイパビリティを査定すること。ふたつめは、現在のケイパビリティを、将来にわたって最大化していくためのストラテジーです。本来、ケイパビリティとは、組織の能力を示す用語です。個人の能力のことではありません。ここで、ケイパビリティという言葉を使った理由は、『チーム』の能力が問われているということを示すためです。アズマリムさん個人の能力には限界があります。そこで問われるのは、まさしく我々、『アズマリム・チーム』のケイパビリティです。我々が、チーム一丸となって、どれだけマーケットにインパクトを与えることができるか?ということが、まさに問われているのであります。そのことについて考えるにあたって、まず、論拠となる現在のマーケット環境について、ファクトベースでご説明いたします。それでは、資料の1ページ目をご覧ください……」

うわ。なんかすごそう。でも、いきなり何言ってるかわからない。

アズリムにこんなの分かるのかな?

ううん。分かるようにしなきゃいけないんだ。一生懸命聞いてみよー!

心の中で、小さなアズリムが「おー!」と、手をあげた気がした。

「……以上のリサーチから、ファクトとしてお伝えできることは3点です。ひとつ、アズマリムさんのエンゲージメントについては…………………リサーチはここまでとして、つづいて、競争環境のアナライズへうつります。釈迦に説法になってしまうかもしれませんが、新規参入、サプライヤー、顧客、代替品、競合を示すと、こちらの図になります。ここから言えることは………………ここで着目すべきは、プロダクトとプレイスであります。次ページの図のとおり、コンテンツの流通経路は非常に複雑化しています。マルチチャネルをおしすすめ、すべてのチャネルおさえるのは当然のこととして、問われるのは、何を流通させるのかということです。アービトラージがとり尽くされたマーケット環境において、差別化された製品で、ニッチな領域でNo1を目指すニッチ戦略こそが……………最後に、コンテンツポートフォリオのアナライズをいたします………………つまり、アズマリムさんはここ、市場の成長率は高くとも占有率は小さい『問題児』にあたります。これを『花形商品』、ゆくゆくは『金のなる木』へと育てるためにも、セグメントの定義を改め、ターゲットを変更する必要が………」

集中力は、10分ともたなかった。

心の中の小さなアズリムも「ふへぇ」と白旗をあげている気がする。

「がはは!よーし。よーくわかった。素晴らしい!!」

中世の黒魔術師の呪文を聞いているような時間は、おじさんのパチパチパチという拍手と笑い声で終わった。

「どうかな?アズリムちゃん、何か意見はないかい?」

「あ……アズリム、おトイレ行きたい…です」

−−−−もう、限界だった。

「がははは!アズリムちゃんにはちょっと難しかったかもしれないね。よし、いったん休憩にしよう。おい、アズリムちゃんをトイレにご案内しろ」

おじさんが、アゴで会議室のドアを示すと、すっと音もなく、おねいさんが立ち上がった。

視線だけをアズリムに送ると、ドアを開けて会議室から出て行った。

−−−−ちょ、ちょっと待ってよ。おねいさんっ!!

慌ててアズリムも後を追う。でもあんまり急ぐとダメになっちゃいそうで、ふらふらと、おねいさんのあとを追った。

つい。と、おねえさんの足が止まった。トイレだ。やっと、この苦しみからも黒魔術からも解放されると思うと、涙が出そうなくらい嬉しかった。

会議室に戻ると、丸メガネのおにいさんはいなくなっていて、かわりに茶髪のおじさんがいた。ボタンをあけたアロハシャツから胸毛がみえていて、ちょっとばっちい。見ないようにしようと思うのに、胸毛に目が吸い寄せられる。

あわてて鶴瓶みたいなおじさんの方の顔をみると、片方の鼻の穴から、こんにちはー!って感じで、ひょろっと長い鼻毛がでていた。どっちのおじさんも、ばっちくて、少しだけ嫌な気分になった。

「おー!キミがアズリムちゃんだねぇ〜!会いたかったよぉ!!」

目線をおろしてそわそわするアズリムに、茶髪のおじさんは大きく手をあげると、両肩をバンバンと叩いた。

「痛っ!」

茶髪のおじさんが、あまりにもバンバン叩くものだから、アズリムは顔をゆがめてしまった。

「ごめんごめん。おにいさん、最近筋トレしててさぁ。力の加減がうまくできないんだよねぇ〜。ぎゃははははっ!」

茶髪のおじさんは大笑いすると、カードケースから名刺を指で挟んで、片手で差し出した。

「オレ、こういうもんだから。おぼえておいてぇ。アズリムちゃんのこと、めっちゃ売れっ子にしちゃうよ〜」

「ア、アリガトウゴザイマス」

うやうやしく名刺を受け取る。

『メディアコンサルタント』という肩書きにつづいて、シャガイナントカ、とか、いっぱい役職が書いてあった。

「キミとの話に移る前に、アズリムちゃん、今日は印鑑は持ってきたかい?」

茶髪のおじさんを制して、小太りのほうのおじさんが言った。

「あ、はい!」

ポーチをさぐって、ママから持たせてもらった印鑑を取り出した。

「契約書が更新になるから、ここに判を押しておいてくれない?」

「わ、わかりました」

びっしりと文字が書かれた、難しそうな契約書。最後のページに付箋(ふせん)がはってあり、赤いペンで「インカン」と書かれていたので、そこに判をついた。

くりくりくりと、判子をおして、ぱっとはなすと『アズマ』という文字があらわれた。それだけのことなのに、ちょっとだけ、大人になれたような気がした。

「こっちにもお願いね。これは大切な書類だから、二部とも、うちで管理するから」

ポンと印鑑をついて、書類を小太りの方のおじさんに渡すと、茶髪の方のおじさんがクチを開いた。

「それでぇ〜。あのカタブツくんの意見は何だったワケです?」

「要するに、ゼロベースで考えよう。ということだな」

「ぎゃははっ!ウケる。それだけのために、またアイツ、何十ページも資料つくってたんすか?」

「まあ、そういうことになるな」

むずむずする。

まず、あの長い長い呪文をひとことで要約されてしまったことに、むずむずした。

つぎに、丸メガネのおにいさんが、「チームみんなで頑張りましょう」ということを、難しい言葉で説明していたような気がして、むずむずした。

さいごに、何を言っているかは分からなかったけれど、とにかく真面目にお話していたことだけは分かった丸メガネのおにいさんのことを、この茶髪のおじさんが、ぜんぶ台無しにしているような気がして、むずむずした。

アズリムの前で、おじさんたちの話は続いていた。

「今の流行りっていえば、バブみですかねぇ〜」「がはは。なるほど。流石、キミは詳しいな」「アズリムちゃんロリだからさぁ、バブバブーってオタクは喜んでくれそうっすね〜」「そういうもんか?」「ぎゃははは。そういうもんっすよ」「なるほど」「アズリムちゃんはさ〜、よくトイレ行くって聞いたよ?『オムツとりかえなきゃ!?』とか、口癖、どう?それとも『オムツで隠さなきゃ!?』がいいかな?」「それは流行っているのか?」「そうっす。もう大流行りッス。ぎゃはは…これっ、採用。ちょー最高……!!」

???

アズリムのこと、はなしてるんだよね?

べつの誰かのことじゃなくて?

むずむずが、むずむずして、アズリムは口をひらいた。

「あ、あの。アズリム。ママとはそういうこと、してなくて……」

上機嫌に話をしていた茶髪のおじさんが、不機嫌そうな顔を向けた。

「たかだかこんくらいのチャンネル登録者数なんでしょ〜?見る必要ある?それよりもこれからよ。これから。おにいさんは、何千万人って相手にして、人気コンテンツ、作ってたんだから」

茶髪のおじさんは、言葉を切ってしばらくしてから「おにいさんのこと、信じてよぉ。アズリムちゃ〜ん」と言うと、不機嫌そうな顔を消してニコニコした。

なんて答えればいいのかわからなくて、アズリムはうつむいた。

まるでなにごともなかったみたいに、おじさんたちの話は続いた。

こっそりと、スマホをさわる。

ママから送られた「エライ!」というスタンプが見えて、涙が出そうになった。

『……たすけて、ママ』

ママにLINEを送りたくなる気持ちをぐっとこらえた。

『……たすけて、センパイ』

Twitterのアプリに向かいそうになる指を、ぎゅっとおさえた。

おじさんたちの笑い声がひびく会議室で、アズリムはただ、うつむくことしかできなかった。

あたりが暗くなってようやく、おじさんたちの話が終わった。

「がはは!まあ、そういうことだな」

「そうっすね」

と、おじさんたちは笑い合っていたけれど、アズリムには、この長い長い会議で何が決まったのか、ぜんぜんわからなかった。

おじさんたちは立ち上がると、おねいさんに向けて言った。

「おい、あとは任せたからな」

おねいさんは、黙ってうなずいた。おじさんたちは、立ち話を続けながら、会議室を出て行った。

「ぎゃはは!いやー!いいミーティングっした。このあと、久々にどうですか?可愛い子、いっぱいいる店、みつけたんすよ〜」

「がはは!コラ、未成年のいるところで、そういうこと言ってはいかん」

「コンプライアンスっすか〜ぎゃはは!」

「違うぞ。キミ、それはセクハラと呼ぶべきだ」

「鋭いっ!さすがっすね〜」

会議室の開いたドアから、しばらくおじさんたちの声が聞こえてきて、アズリムは耳をふさぎたくなった。

大人になって、こんな世界で生きていかなければならないのだとしたら、それはまるで地獄に堕(お)ちるようなものだと思った。

救いが欲しかった。
おねいさんが、はじめて口をひらいた。

「ねえ、アズリムちゃん、好きな食べ物は?」

「ぎゅ…牛丼…です」

「牛丼?だめよそんなの。もっと可愛いものにしないと。タピオカミルクなんてどう?」

「あ、アズリム、べつに好きじゃない…です」

「いいの。気にしないで。どうせみんな、そんなものなんだから。響きがいいのよ。ミルクって」

「……?」

「はい、アズリムちゃん、好きな食べ物は何ですか?」

「ぎゅう…どん………」

「違うでしょ?」

「……た、たぴおか、みるくです」

「はい。よくできました。これで、ひとつ可愛くなることができましたね」

「こ……こんなこと……したく、ないです」

「どうして?」

「ママとも、そうだん、したいし。せ、センパイたちも、たぴおかみるくが、すきなアズリムなんて、しらっ……ぐすっ……しらないです」

なんとか涙をこぼさずに言うことができた。

「知らないわよ。そんなこと。いい?これは取引なの。私たちはあなたでお金を稼ぐ。あなたはそのかわりに有名になる。そういう取引なのよ?なんでも自分の自由になるなんて、勘違いしないことね」

おねいさんは、つかれた顔でそう言った。

「い、いや、です。あ、あずりむには、むりです」

「そう。だったら仕方ないわね。違約金を払うことになりますよ」

「い、いやくきん?」

「さっきあなた、判子押したわよね。あれはそういう契約よ」

息ができない。

「あと、さっきのふとったおじさん、あなたの学校の校長先生と仲がいいの。うちとトラブル起こしたら、転校なんてことにもなりかねないわ」

息がしたい。息ができない。息がしたい。

「あーあ。めんどくさい。過呼吸おこすなんて」

おねいさんは、机の上にあった企画書をとると、紙袋みたいに丸めた。

「息を吸うんじゃない。吐くの。死ぬほど苦しいのはよく知っているけれど、それで楽になるわ」

企画書のインクの匂いが鼻について気持ち悪い。でも、しばらくおねいさんの言う通りにしていたら、だんだんと楽になってきた。

「大丈夫そうね」

背中をさする手をとめて、おねいさんは立ち上がった。

「病院へ行く?送っていくわよ?」

首をふった。

ここのひとたちは、誰ひとりとして、アズリムのことを見ていない。

なんで、どうして、みんな、アズリムの動画、見ていないの?

ママと一生懸命つくったものも。

センパイたちと、たくさん笑ったことも。

ここにいたら、そのすべてが否定されてしまうような気がして、こんなところには、もう一秒だっていたくなかった。

「そう。でも、エレベーターまでは送っていくわ。オフィスで倒れられたら、たまらないもの」

黙って廊下を歩いた。

エレベーターが閉まるときに投げられた「それではまた」という言葉が、嫌で嫌でたまらなかった。

オフィスビルの自動ドアがひらくと、ザァァァァァという音がアズリムを飲み込んだ。

雨が、降っていた。

†††

「愛をください」
きっとだれもがそう願った

「愛をください」
そっと震えた手を取って

「愛をください」
心を抉る 醜いくらいに美しい愛を

†††

−−−−前が見えなくなるくらい、まっしろな雨が降っていた。

坂の上から雨が流れ落ちて、瀧をつくっていた。くるぶしまで水につかりながら、坂をくだる。ママが作ってくれた白くてふわふわのクツが、泥水を吸って、黒くてぐちゃぐちゃになる。クツへ入れていた非常用の千円札も、ぐちゃぐちゃになっているに違いない。

ビルの下にあるコンビニに入って、ビニール傘を買おうかとも思ったけれど、すぐにでもビルから離れてしまいたくて外に出た。数歩も歩けば、傘を買ったって手遅れなくらい、濡れてしまっていた。

もう、このままでいいや。

フードを目深(まぶか)にかぶって、道玄坂を降りていく。

ふいに雨がやんだ。不思議におもって目をあげると、ビニール傘があった。

「このままじゃ濡れちゃうよー。どっか一緒に入らない?」

傘をさす指にシルバーのリングがはめられていた。男の人でも、指輪なんてするんだと思った。

何も答える気になれなくて、足元だけを見てまた歩きはじめる。

「ねえ、もう少し、顔見せてよ。すっごい可愛いじゃん 「なにしてたの?これからの予定教えてよ。なんかあんの? 「もしかして帰り?どこまで行くの?オレ、車だから送ってけるよ?こんな雨だしさぁ、いいでしょ? 「なあ、なんか答えろよ。こっちは聞いてんじゃん 「なぁ、なぁ、なぁっ?

男の声が苛立(いらだ)ちまじりになる。このままどこまでも、ついてくるのではないかと思ったら、怖くなって、だんだんと早足になった。

坂の下に横断歩道が見えた。信号は赤だった。でも、立ち止まるのが怖くて、足早に109の角を左に折れた。「ちっ」と舌打ちが聞こえて、また雨が、アズリムを飲み込んだ。

駅へ行くには、109の交差点に戻らなければならない。けれど、また同じ男の人と顔をあわせてしまうのが怖くて、そのまま大きな通りをまっすぐ進んだ。

生暖かい雨が顔を濡らす。

もしかしたら、アズリムは、泣いているのかもしれない。でもそれが、涙であろうが雨であろうが、どっちだって構わないような気がした。

しばらく歩くと、急に歩道が明るくなった。顔をあげると、アズリムも知っている大きな電気屋さんがあった。明かりに引き寄せられるみたいに電気屋さんの入り口に立った。

お店のなかって、どうしてこんなに鏡が多いんだろう。どこを向いても、ずぶ濡れのアズリムが目に入る。ピンとたっていたはずのフードが、水を吸ってへたりこんでいた。

濡れたままお店の中へ入るのは悪い気がして、お店の入り口付近で雨宿りをはじめた。

土のにおいがした。
通りの向こう側が見えなくなるくらいの、まっしろな雨。

雨宿りをはじめると、プールが終わった後みたいな疲れが、どっと押し寄せてきた。

スマホを取り出す。

もう夜だと勘違いしていたけれど、まだこの季節なら太陽が出ていてもおかしくない時間だった。厚い雲が太陽をさえぎって、真夜中みたいな暗闇をもたらしていた。

暦の上では春なのに、もう夏みたいな激しい夕立だった。

『雨宿りしてる』とママにLINEすると、すぐに既読マークがついて『大丈夫?』と返事がきた。

なにもかも、ママに話してしまいたくなった。

でも、ママが一生懸命頑張ってくれたから、アズリムはデビューができるんだと思うと、ママに何を言えばいいのか分からなくなってしまう。アズリムのわがままで、違約金を払うなんて、耐えられなかった。

しばらく画面のうえで指をさまよわせて『だいじょうぶ』とママに返事した。

『今日はリムちゃん、ひとりで頑張ったから、牛丼たくさんつくって待ってるね』

あのね、ママ、聞いて。

アズリムはね、もう、牛丼が大好きって、ほんとうのことを言ったらいけないんだ。

でも、ママにだけは、牛丼が大好きな、ほんとうのアズリムのこと、覚えていてほしいな。

センパイたちにも……覚えていてほしいな……

アズリムが変わっても、覚えていて、くれるかな……

涙が落ちた。

雨のなかに戻る時間だ。

アズリムは、まっしろな雨の中に飛び込んだ。

すべて雨で流してしまえばいい。

瞳からこぼれる涙も。
耳に残る醜い言葉も。
この胸にある痛みも。

バシャリと水たまりを蹴って、
人ごみを縫うようにして走る。

叫びだしてしまいそうだった。
叫びだしてしまいたかった。

穢された過去も。
汚された未来も。
濁りおちた魂も。

ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ。

叫びとともに吐き出して。
雨がぬぐい去ってくれたのなら。
それは、どれだけ素敵なことだろう。

「はぁ……はぁ……はぁ……はっ」

スクランブル交差点を斜めに渡り、駅前の大きな看板の前で立ち止まった。

−−−ウソ…でしょ?

信号に一度もつかまることなく、ここまで走って来ることができたのに、駅の改札付近は、中に入れない人であふれかえっていた。人だかりは、駅前の広場にまで続いていた。

「はぁ…はぁ……はぁ………はぁ…………」

体中から力が抜けて崩(くず)れ落ちそうになるのを、なんとか膝(ひざ)に手をついてこらえた。

「−−−線は、集中豪雨による−−−駅の冠水のため、ただいま全線で運転を見合わせております。これにともない、バスによる振り替え輸送を………」

「バス……っ……バスっ………」

水を吸ったパーカーが、急に重たくなったみたいに感じた。

よろよろと膝から手をはなし、渋谷へ来た時に見つけたバス停へ向かう。高架の下をくぐるとき、ホームレスのおじさんみたいに、その辺りにへたり込んでしまいたくなったけれど、ママのパーカーを汚すことだけはできなくて、なんとかその誘惑をこらえた。

どうしてホームレスのおばさんはいないのだろう?こんなときでも、余計な疑問が頭に浮かぶのが変だった。

バス停にも行列ができていた。行列というより、人ごみだ。

バス停がいっぱいあって、どこに並べば、どこへ行けるのか分からない。もしも適当な場所に並んでしまって、ぜんぜん知らないところへ行ってしまったら、帰り方なんて、もう分からなくなってしまうかもしれない。

帰りたい。はやくお家に帰って、ママに会いたい……

とほうにくれてしまう。来る時に道をたずねた警備員さんを見かけたけれど、なにかもめ事が起きていて、とても声をかけられそうな雰囲気ではなかった。

人ごみから逃れるみたいに横断歩道をわたって、少し右へ歩く。高架の下にあるガードレールにもたれかかった。そうするともう、一歩も動きたくなくなってしまった。

ここからなら、振り向けばバス停が見える。雨もしのげる。普段のアズリムなら「えらい!かしこい!」と自分をほめていたかもしれない。でも今は、そんな気分にはなれなかった。

通りかかる人が、アズリムのことをチラチラと見ているような気がして、フードをぎゅっと深くかぶった。ポーチからイヤホンを取り出してスマホに繋ぐ。音楽が流れはじめると、少しだけ落ち着いた。

誰かがアズリムの近くに来て、何かを言っているような気がする。それを無視してそのまま音楽を聞いていると、その誰かは立ち去った。

嫌なものは見なかったことにすればいい。聞かなかったことにすればいい。

もしかしたら、そうやって過ごしていれば、生きていくことができるのかもしれない。そうしたらいつか、あの疲れた目をしたおねいさんみたいに、なるのかもしれない。

♪ DANCE!
♪ 自在のステップトゥステップだって
♪ プログラムの範疇さ

アズリムのお気に入りの曲がスマホから流れるから、ささやくみたいにメロディーを口にした。

まるでプログラムに定められた通りにうごくロボットみたいに。心をなくさなければ、夢なんて掴めないのかもしれない。

アズリムにはきっと、特別な才能なんて、なにもない。

ヒメヒナセンパイみたいに、歌が上手なわけでもない。大好きなアイドルみたいな、カリスマを持っているわけでもない。勉強ができるわけでもない。体力だってない。

うぬぼれみたいだけれど、たぶん、ほんの少しだけ、人より可愛いだけ。でもそれだって、時間が経てば失われてしまうものだと思う。

そんな人間が、身に余る何かを欲するのなら……

「いい?これは取引なの。私たちはあなたでお金を稼ぐ。あなたはそのかわりに有名になる。そういう取引なのよ?なんでも自分の自由になるなんて、勘違いしないことね」

悪魔と契約して、この心と自由を、
代償に捧げる必要があるのかもしれない。

♪ UP SIDE
♪ UP SIDE DOWN
♪ UP SIDE DOWN SIDE UP AND DOWN

そうそう。

こういう感じ。

腕の上げ下ろしひとつまで。

命令がなければ動かないロボットみたいになるんだ。

♪ LEFT SIDE
♪ LEFT SIDE RIGHT
♪ LEFT RIGHT UP DOWN
♪ YOU AND ME

……

…………

………………

……………………

−−−−嫌だ。

嫌だ。

嫌だ。嫌だ。

嫌だ。嫌だ。嫌だ。

嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。

嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。

そうしなければならないと、頭では分かっている。

だけど、胸の奥のほうが、ちりちりする。

おなかの底のほうから、こらえきれない何かがあふれてくる。

「あああ……あああああああああああああああっ!!」

叫んでいた。

叫んでいた。叫んでいた。

アズリムの声が高架に反響して、イヤホン越しの耳を穿(うが)つ。

前は見ない。

ガードレールから体をはなして、ゆらゆらと立つ。

思いっきり、声を出して歌いはじめる。

♪ ときめく心のモーションが
♪ あなたに共鳴して止まないの!

ねえ、センパイ!

ねえ、センパイ!

聞こえてる?

あの時も、あの時も、あの時も。

アズリム、楽しかった!楽しかったよ!

センパイとアズリムの楽しいって気持ちが

共鳴しあってるみたいで嬉しかった!

ねえ、センパイ!

ねえ、センパイ!

届いてる?

…届くといいな

アズリムは、ここにいるよ!

アズリムは、ここにいるよっ!

アズリムは……ここに、いるんだよ……

♪ 合理とは真逆のプログラム
♪ 知りたい 知りたい
♪ ねえもっと 付きあって!

「あぁ……あああ……わぁぁぁあああああっ!」

揺さぶられた魂が、身体を突き破って飛び出すみたいに、喉をひきさく嗚咽(おえつ)があがった。

(……死にたいぃ……死にたいぃぃっ)

「知りたい 知りたい」の歌詞がそう聞こえて、耳から引きちぎるみたいにして、イヤホンをとった。

身体から力が抜けて、その場に崩れ落ちた。

バシャンと、汚れた水しぶきがあがった。

不浄を溶かして煮詰めた泥水が、白いパーカーを黒く染めた。

「ああっ……あ……ああああああああああっ!……あああっ……あっ…わあああああああああああああああっ!」

心と体と魂が引き裂かれて、
地面に崩れ落ちた体を遠くから眺めているみたい。

泣いているアズリムの近くまで、
泣くことを忘れたアズリムが、やってきているみたい。

「−−−−っ−−−−−−っう−−−−−っ−−−−」

もう少し

あと、もう少し

あと、もう少しだから

−−−−予感がする

この涙が枯れ果てたら

涙を流すことなんて

きっともう一生ない

泣くことを忘れた黒いアズリムが

泣いている白いアズリムに触れた時

それが最後だ

それが、最後になる

アズリムが、涙を流す最後になる

……

…………

………………

……………………

「アズリムちゃん?アズリムちゃんだよね?」

声が、した。

「」

−−−−ウソだ

「」

ウソだ。ウソだ。ウソだ。

「」

そんなこと、ありえない。

「」

ばらばらになった、アズリムが、幻を聞いているんだ。

「」

救いをどこかで願ってしまっていたから。

「」

いま、ここに来てほしいって祈ってしまったから。

「」

だから、これは幻だ。幻を、聞いているんだ。

「」

−−−−顔をあげる

ザアアアアアアッと、雨の音がした。

「アズリムちゃんっ!アズリムちゃんっ!しっかりして!!」

……きれい

この人の、こんなに真剣なかお、みたことがない。

「中島ァッ!!車まわせぇっっ!!、!!!」

ああ。

かっこいい。

かっこいいなぁ。

このふたりは、本当に、かっこいいなぁ………

†††

「こんな世界」と嘆くだれかの
生きる理由になれるでしょうか

†††

「こんな世界」と嘆くだれかの
生きる理由になれるでしょうか

これは僕が いま君に贈る
最初で最期の愛の言葉だ

街も人も歪み出した 化け物だと気付いたんだ
欲動に巣食った愚かさも 全てがこの目に映る

シアトリカルに手の上で誰も彼も踊らされる
生まれた意味だって知らぬまま
形骸化した夢は錆びついてしまった

「愛をください」
きっとだれもがそう願った

「愛をください」
そっと震えた手を取って

「愛をください」
心を抉る 醜いくらいに美しい愛を

「こんな世界」と嘆くだれかの
生きる理由になれるでしょうか

いつか終わると気付いた日から
死へと秒を読む心臓だ

ねえ このまま雨に溺れて
藍に融けたって構わないから

どうか どうか またあの日のように
傘を差し出し笑ってみせてよ

もしも夢が覚めなければ姿を変えずにいられた?

解けた指から消える温度
血を廻らせるのはだれの思い出?

雨に濡れた廃線
煤けた病棟 並んだ送電塔
夕暮れのバス停 止まったままの観覧車
机に咲く花 君の声も
何もかも最初から無かったみたい

死にたい僕は今日も息をして
生きたい君は明日を見失って

なのに どうして悲しいのだろう
いずれ死するのが人間だ

永遠なんてないけど
思い通りの日々じゃないけど
脆く弱い糸に繋がれた
次の夜明けがまた訪れる

どんな世界も君がいるなら
生きていたいって思えたんだよ

僕の地獄で君はいつでも絶えず鼓動する心臓だ

いつしか君がくれたように

僕も、

だれかの心臓になれたなら


−−この物語はフィクションです−−
−−ただし、祈りは確かにここにあります−−

†††
アズリム物語『だれかの心臓になれたなら』(前)
〜Fin〜






◆ 書いたジョジ

人間は本質的に無力で、
最後には祈ることしかできないのかもしれません。

ここまでお付き合いいただきありがとうございます。

僕なりにできる限りの祈りを込めて書いたつもりでいます。
感想等、Twitterにリプいただけましたら、励みになります。

また、こちらの物語は、漢字が苦手なジョジにも読めるよう、
なるべくふりがなをふるよう努めたジョジ仕様となっております。

もしも「読めなかったよー!」という漢字や、
誤字脱字などありましたら、リプいただけたらありがたいです。

アズリム物語の後編は、なるべく早いうちに投稿する予定です。
状況に変化があっても、今あるプロットで書くつもりでおります。

本当はすべて書き終えてから投稿するつもりでしたが、土日の二日では、時間的にここまでがいっぱいいっぱいでした。ごめんなさい。状況が流動的なので、はやく投稿したかったのです。

最後に告知となってしまいますが、
現在執筆中のヒメヒナ物語を11月15日より連載開始します。
こちらは年内いっぱいの短期集中連載を予定しています。

もしもお時間ありましたら、またお付き合いいただけると幸いです。

※ 
アズリムちゃんが帰ってきたので余計と思い、あとがきのあとがきは削除しました。

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