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6/20 眠れぬ夜のあきらめ日記

最近また寝れなくなってしまった。
それはさておき、みなさんは「オバケが見える人みたいだね」って言われたことはありますか?僕はあります。

僕は生まれつきものすごく心配性でいつも何かを心配してるんですけど(笑)、その心配って「自分の将来」とか「仕事」「生活」「人間関係」みたいな現実に差し迫ったものだけじゃなくて「どこかで誰かが泣いてる気がする」っていう妄想みたいなものも同じくらいの量で入ってくるので、人にはよく「考えすぎだよ」「その泣いてる人はいったい誰なの?」って言われちゃうんですよね。まあすごくまっとうなコメントだと思いますけど。(「すごくまっとう」っていう並びを見たら「甘納豆」を思い出しました。なんとなくラッキー)

確かに見たことも、会ったこともない、というか存在するかどうかもわからない誰かとか何かを心配して寝れないってちょっと病的な気もしちゃいます。しかもひどい時には「助けてあげられなかった」って心底悲しくなったりすることもあるんですよね。それが誰で、ホントに存在するかどうかもわからないのに。というか存在しないのに。

…あなたの言いたいことはわかります。そんな人がいたら僕もだいぶ心配になるので。心配の自家発電。再生可能エネルギーってやつかな?

そしてこれは「むしろお前のほうが心配だよ」って自分自身にすら言われちゃういつものパターンでもあります。
なのであんまり人には「本当に思ってること」を言わないように気をつけて毎日過ごしてるんですよね。「人に心配かけるんじゃないか」っていう心配もすごくあるので。

っていう本当に思ってることをこの間ある人に伝えたら「なんかオバケが見える人みたいだね」って言われてなんとなくすごく腑に落ちる感じがありました。実はそのちょっと前にデザインの話しをしてたら別の方に同じことを言われたのでびっくりもしましたけど。(その時は「デザインを始めたばかりでやっと文字の扱いを少しずつ覚え始めたころは街中の看板とかレストランのメニュー表とかの文字を見るとフォントの種類とか文字の大きさとか配色でそこに込められたお店の人やデザイナーの意図が感じられすぎて歩くだけでたくさんの人に同時に話しかけられてるみたいでしんどかった」みたいな話しをしてました)

そこで思い浮かんだのは僕が大好きな映画「シックスセンス」に出てくる幽霊が見える男の子です。その子はいくらまわりにそのことを言っても信じてもらえなくて、だんだん無口になっていくんですけど、それでもずっと幽霊は見え続けてるのでひとりで苦しんでたりするんですよね。でもそれを信じてくれる人に出会うことで色々変化が訪れる、みたいな。

「聞こえない声が聞こえちゃう人」とか「見えないものが見えちゃう人」はたくさんいるのかもしれないし、中には病気で苦しんでいる方もいらっしゃると思います。そんなことを考えてたら、もしかすると僕も病院に行ってないから診断されてないだけで別に病名をつけようと思えばつけれるのかも。とか思ったり。その時は「シックスセンス・シンドローム」みたいな中学生が喜びそうなネーミングの病名がいいなっていう空想をしたり。
油断するとすぐ空想とか妄想に引っ張られるから毎日がスリリングで楽しいです。笑

でもそれって作家やアーティストがありもしない世界や情景をイメージして絵や文字にしていくこととかなり紙一重な気もしていて。
僕は普段絵本を描いたりイラストやデザインの仕事をしてるんですけど、そのどれもに共通するのが「見た(読んだ)人がどう思うか想像する」っていう要素なんですよね。その時に「その人は具体的にどんな人で、どんなシチュエーションでそれを見るのか」っていうことを想像する能力も求められたりします。

例えば一冊の絵本を描く時に僕が思い浮かべるのは幼稚園や保育園でみんながワイワイ走り回ったり、はしゃいだり、ままごとしたりして「みんなで」遊んでいる時になんとなくその輪から離れて積み木とかしてる子が一瞬寂しくなって、ふとみんなが本を雑に出し入れしてぐちゃぐちゃになった低い本棚に目をやると、そこに僕の絵本が上下逆さまに入れてあって。その子が何となく手を伸ばして表紙を見てみると何も考えて無さそうな下手くそでのんきな絵と「なにこれ?」って思うような変なタイトル。作者の名前を見てもピンと来ない。でもそっと開くと面白いんだか面白くないんだかわからないヘンテコでシュールな、でもなんとなく可愛くて優しい絵とおはなしが描いてあって。
読み終わったあとにその子が思わず「へんなの」って言ってちょっと笑うような・・・みたいな想像(妄想)をひたすら繰り返して想定する読者を増やしてます。笑
もちろん実際の知り合いやそのお子さんなど空想じゃなくて実在の人たちも想定するので年々「脳内読者」と「実在読者」は増えていってます。ありがたいですね。

これは小さい頃のひとり遊びで「空想の友達」と遊んだり「おもちゃへの感情移入」で鍛えられたものだと思います。だいたい大人になるとそういうのは卒業するんだと思うんですけど、僕は全く卒業出来ないまま大人になっちゃった。笑
元々(絵本を描きはじめた頃)は「小さい頃の自分」をリアルに想定して絵本を作ってたんですけど最近はどんどん「いるかどうかわからない誰か」とか「これから生まれるかもしれない誰か」みたいに想像や空想の飛躍は進み、その精度が上がってたりします。(妄想や錯覚、幻想とも言う)

それってクリエイターとしては何かの感度が上がってると捉えることも出来なくはないんですけど確実に自分の社会性が失われていってる感じもするんですよね。
あれ?そういえば最近「君は社会人ではないよね」って言われたのを思い出しちゃった。せっかく忘れてたのに。(よく言われるので1ミリも傷付いてないですけど。笑)

でもパッケージをデザインした時にその商品が製造者からどう小売店まで配送されて、店員さんがどう箱から出して、どんなふうに陳列して、お客さんはどんなふうにそれを見て、手にとって、購入したあと家ではどんな気持ちでその商品を使って、使ったあとどこに置いて、使い終わったらどう処分するのか、そのお客さんの年齢は?仕事は?どんな家に住んでて趣味はなに?商品を買うお店の明るさは明るい?暗い?みたいなことを想像しながら色や形、デザインを考えていったりします。

でもきっとデザインやイラスト、絵本みたいな仕事じゃなくても同じようなことは実はみんな色んな場面でやってる気もするんですよね。

誰かにプレゼントを買うときに「これあげたらあの人はどんな顔をするかな?」と想像することとか、飲食店の方が「これを食べたお客さんはどんな気持ちになるかな?」と想像することとか、どんな仕事でも人と関わる以上きっとその想像はしてるんだと思います。
「うわ~、上司に怒られそうで憂鬱」みたいなのもきっと同じことだと思う。(ちがうか。上司は実在するもんね)
そう考えていくとやっぱり「普通ってなに?」っていうことを考えちゃうし「普通なんか存在しないだろ」みたいなことを毎回言いたくなります。そしてそんな結論を出してみたあとは「オバケが見える人みたい」だった自分が別にみんなと大して変わらない人間だということにホッとしつつ「あっ、自分は別に特別でもなんでもないんだな」とガッカリしたりもするのでした。笑

…でもやっぱり僕はどこかで誰かが泣いてる気がどうしてもしちゃいます。
別に毎日流れてくる悲しいニュースを見なくたって、どこかで誰かが泣いてることくらいはわかる。声を出せない人が何も感じてないわけじゃないし、自分の視界に入らないからってその人は存在しないわけじゃない。
だから僕は見えない人の姿を見たいし、聞こえない人の声を聞きたい。

あちゃーっ、そんなこと考えてたら今日これから仕事なのに寝れないまま朝になっちゃった。ま、いっか。「眠らずに朝が来て」ってナンバーガールの曲みたいで悪くないよ。全然。
僕が好きな表現はだいたい現実と幻想と錯覚なんだよな。いや、全部の表現がそれな気もしてきたぞ。

そんな「オバケが見える気分な朝」にオススメな曲は銀杏BOYZの「人間」。
歌い出しの「君が泣いてる夢を見たよ」っていうフレーズはまさに「実在の君がホントに泣いてるかどうかわからないけど僕は泣いてる君を見たんだ」っていう「オバケが見える人みたい」なフレーズです。
そして「僕はなんにもしてあげられず」っていう歌詞で「夢で見た泣いてる君」に何もしてあげられなかった申し訳なさや罪悪感を抱いちゃうイメージも僕的にはドンピシャで大好きです。「戦争反対って言ってりゃいいんだろ」に漠然とした見えない不安と「そんなもんより現実だ」っていうなんとも言えない複雑なニュアンスを感じさせられてハッとしたりも。

そういえばブルーハーツの「NO NO NO」っていう曲の歌い出しの歌詞「どこかで誰かが泣いて 涙がたくさん出た」も「オバケ案件」だな。「君」がいないぶんよりオバケ感が増してる。でもそのあとに「どこかの爆弾より 目の前のあなたのほうが 震えるほど 大事件だ ボクにとっては」っていう歌詞でオバケ案件からちゃんと現実に帰ってくる感じがブルーハーツらしくて好きです。

どちらも大好きなので両方貼ります。あ、おはようございます。(これは全然日記じゃないですね。ただの独り言です。笑)


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