『推し、燃ゆ。』を読んで

Quiz Knockの人気コンテンツ「読書会LIVE」をリアルタイムで視聴できないので、つらつらと書いて行こうと思う。
(ここからあまりにもネタバレ)(気をつけて)

①感想
②気になるシーンの抜粋と考察

の2つに分けて書いていく。

①感想

今回の『推し、燃ゆ。』という作品は、大学の文学の授業でも取り扱った。(芥川賞作品を15作ほど読み、20人程度で感想や気になる表現を取り上げて考察するという授業)正直、一度読み終えたときはかなりエネルギーを消費する作品だと感じた。
まだ20年そこそこしか生きていないが、人生の半分以上を男性アイドル(某J事務所)に捧げてきたのだ、あまりにもダメージの大きな部分が多すぎる。

オタクなら誰でも感じるこの、「推す」ことに対する熱量の掛け方の気持ち悪さと、「うわぁ〜、やったやったこういうの。」という少しの懐かしさ、そしてあまりにも痛々しいほどの莫大な「愛」。大昔に書いた、幼気な自分の夢を語るノートを大人になってから見たような、そんな感情を抱いた。

これまでの芥川賞作品とは少し毛色の違う(そこまでたくさんの本を読んだという訳ではないが)、含みのない文章。芥川賞選者に刺さるのか?というテーマの新しさ。読みやすさ、と言ってしまえばそれまでだけれど、目新しさのない文章にも感じられる。
ここで、芥川賞の講評を見てみたい。

「残念ながら目新しさを感じないまま読み終えてしまった。文学の新人賞界隈でよく見かける少女というか、そもそも推しに依存して生きる人生の何がいけないのかが分からない。」ー吉田修一
「推した。「けざやか」という古語を何となく思い出したが、文体は既に熟達しており、年齢的にも目を見張る才能で、綿矢りさ・金原ひとみ両氏の同時受賞時を想起した。しかし、正直に言うと、寄る辺なき実存の依存先という主題は、今更と言っていいほど新味がなく、「推し」を使った現代的な更新は極めて巧みだが、それは、うまく書けて当然なのではないかという気もする。」
ー平野啓一郎
「本作に心を惹かれたのは、推しとの関係が単なる空想の世界に留まるのではなく、肉体の痛みとともに描かれている点だった。」「DVDの中で真幸は、大人になんかなりたくないピーターパンだった。その尖った靴の先で心臓を蹴り上げられた時、まず彼女の中に飛び込んできたのは、陶酔でも衝撃でも憧れでもなく、痛みだった。」「推しを通して自分の肉体を浄化しようともがく彼女の姿が、あまりにも切実だった。」ー小川洋子

『芥川賞のすべて・のようなもの』より)

吉田修一の指摘するような通り、目新しさは確かにない。少女の異常とも言える「推し事」への熱量も、依存度合いも、昨今のSNSで見かける若者(これは私もその一部)と似たものである。しかしながら、小川洋子の指摘するように、肉体の痛みと精神的な痛みがマッチする瞬間が散りばめられ、単に熱狂的なファンを描く、という言葉で表すには重すぎる表現たちは、本当に、痛々しく、儚く、脆い、そして刺さるものばかりのように感じた。

「推し」と「好き」と「愛している」の違いは何だろうか、一般のファンと一線を画しているという自負をもつ理由はどこにあるのだろう、「私」の幸せは何なのだろう、「推し事」を続けていて自分自身の未来にこんなクライマックスが待っていたとき、私はどうやって自分の人生を前を向いて歩いていくのだろう(もしかしたら絶望するかもしれない)、と改めて考えさせられる作品だった。


②気になるシーンの抜粋と考察

「推しが燃えた。」

冒頭1文の、何というメロス感。「メロスは激怒した。」偶然の一致だろうと言ってしまえばそれまでだけれど、一度そう思ってしまったらそうとしか見えない。

「成美がアイコンを取り換えるように都度表情を変え、明快にしゃべる。」

この表現は、何気ないものかもしれないけれど、特に気に入った。SNSでコミュニケーションを取る時代、言葉のみでは伝えられない感情を絵文字やスタンプで表すはずなのに、いつの間にかスタンプのみが表情を伝えるものとして使われるようになった現代の象徴みたい。


「どちらかと言えば有象無象のファンでありたい。」

これは推し方の違い、推す界隈の違いでもあるんだけど、認知されたい、あわよくばその先も、と思うオタクもいれば、私や冒頭部分の“あかり”のように有象無象のファンで推しの目に入っても応援してくれるファンの人、という大きな塊の一部として認識される程度のものでありたい、と思うオタクもいる。「有象無象のファン」という言葉の的確さ。


「彼の小さく尖った靴の先があたしの心臓に食い込んで、無造作に蹴り上げた。」

推しと出会った衝撃をこんな風に表すのが、さすが作家、オタクの独特な語彙がふんだんに詰め込まれた文章。推しとの出会いを表すならば、「星空に浮かぶ一等星を掴んだみたい。」だめだ、文才はありません。黒歴史、黒歴史。

「這いつくばりながら、これがあたしの生きる姿勢だと思う。」

四つん這い=赤ん坊。生まれなおし、という点で、全体に流れる不穏な雰囲気と、所々に登場する伏線の回収みたい。


「綿棒をひろった。」

火葬のシーン、そして綿棒を拾うラストシーン、お骨を拾うシーンと重なるのが、圧倒的伏線回収。あまりにも伏線回収。面白いなぁ、本当に。



考察

・成美の存在

登場するのは冒頭部分くらい。あのキャラクターの存在は作品にどのような影響を与えているのだろうか。あまりにも異なる推しへの感情、推しに求める像、人間としての存在の対比。同じオタクという存在でありながら、「成美」と「あかり」はあまりにも異色の組み合わせ。


・「推し」と呼ぶか、「真幸くん」と呼ぶか。

人間、まじで好きなら名前で呼びたくない?と思ったけど、私自身も「推しが〜」って話すわ、友達に。推し、と呼ぶときは推しそのものや推している自分自身のことを話すけれど、○○くんが〜っていうときは推しという人間の素晴らしさを伝えたいとき。あまりにもわかるわ呼び分けする理由。果たしてあかり自身が意図的に呼び分けているのかはわからないけど。


・ピーターパンが「真幸くん」じゃなかったら?

これは「推すこと」が目的なのか「真幸くん」が目的なのか。
行為志向なら、多分誰であっても熱狂的だったし、対象志向なら「真幸くん」じゃなければここまではまらなかったのだと思う。そうやって単純に分けられないのが「推し」であり「オタク」なのだけれど。



書き連ねていけば止まらないけれど、とりあえずここまで。
読書会、楽しみ。

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