■北綱島特別支援学校、22年度から本校に 横浜市教委が方針転換

10月6日の横浜市会で北綱島特別支援学校について新たな動きがありました。概要と解説を記します。

 横浜市立肢体不自由特別支援学校再編の一環として2019年度に上菅田特別支援学校(保土ケ谷区)の分校に移行された北綱島特別支援学校(港北区)について、市教育委員会は6日、22年度から本校に戻す方針を明らかにした。保護者らが「人口が増えている地域であり、分校化する理由は全くない」と訴え続ける中、特別支援学校に通う児童生徒が増加している現状などを踏まえて方針を転換した。

 市教委が閉校計画をまとめてから6年余り。本校としての存続を求める保護者らの反対を退けて分校化を強行した経緯があり、市教委の一連の対応のずさんさがあらためて問われる。

 同日の市会決算特別委員会連合審査会で、草間剛氏(自民・無所属の会)の質問に鯉渕信也教育長が答えた。

 国が9月、特別支援学校の児童生徒増に対応するために学校設置基準を初めて定めたことから、鯉渕教育長は「国の基準に基づく学校数としては(分校の北綱島を含めて既存の)6校が最低限必要。北綱島の4月からの本校化に間に合うように市立学校条例改正に向けて準備をしていく」と答弁した。

 北綱島特別支援学校を巡っては、市教委は15年9月、五つある肢体不自由児学校をこれ以上増やさないことを前提とした上で、児童生徒増対策として左近山特別支援学校(旭区)を新設する一方で北綱島を閉校にする方針を表明。保護者らの反対を受けて分教室として残す案などが出されるなど曲折をたどった末に、18年2月の市会で分校化案が可決された。

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■解説 ずさんな対応の検証不可欠

 横浜市教育委員会が何ら正当な理由がないまま強行した北綱島特別支援学校分校化がようやくただされる方向になった。当事者らに事前説明のない閉校計画が明らかになってから6年余り。保護者らを不安のどん底に陥れた市教委の罪は極めて重く、ずさんな対応のチェックを怠った市会の責任も問われる。

 市教委は6日の市会決算特別委員会連合審査会で、特別支援学校の児童生徒増に対応するために国が定めた学校設置基準を持ち出し、その基準を満たすためには北綱島を本校に戻す必要があると指摘したが、とってつけた理由にすぎないのは明らかだ。閉校計画をまとめた2015年度時点でも北綱島がある港北区は人口が増え続けている地域であり、閉校案も分校案もおよそ人口増地域の実態とはかけ離れたものだったからだ。分校化からわずか3年で本校に戻すという方針を示すこと自体、分校化が不要だったと自ら言っているに等しい。

 市教委が6日の答弁で保護者らの不安にまったく言及しなかったことからあらためて浮き彫りになったのは、自らの誤りを直視しない姿だ。

 この日の答弁と重なる光景がある。市教委が分校化案を市会に提案した18年2月の市会常任委員会で当時の岡田優子教育長が「閉校計画自体が間違いだったとは思っていない」と強弁した。閉校案を引っ込めてもなお、いったん決めた方針を正当化するという不遜さを見せた。

 市教委は一連の対応が誤りであったことをいまだに認めていない。北綱島を本校に戻すだけでは不十分だ。誤りを認め、なぜ誤ったのか、誤りを行政内部でただすことがなぜできなかったのかの検証が欠かせない。検証なくしては、障害のある子の学びや生活の場を軽んじる市教委の体質はぬぐい去れない。

 分校化の問題を注視してきた人たちの中には「本校に戻ることになってよかった」と受け止める人も少なくないだろう。だが、それだけでは済まない。そもそも分校化は不当で不要だったのであり、そんな政策になぜ歯止めを掛けることができなかったのか。不当な政策をいとも簡単に押し通す行政と議会のありようこそ問われるべきだ。

 取り返しのつかない何重もの過ちの末になされた分校化は、保護者らが闘い続けてようやくひっくり返される。北綱島には医療的ケアが必要な重度重複障害児が多く、夜間に何度も起きながらわが子のケアを続け、睡眠時間を削って本校に戻すための活動に取り組んできた保護者たち。わが子だけでなく子どもたちの学びの場を守るために命を賭して奔走し続けた6年間だった。

 「本校に戻す」とまるで手のひらを返したように淡々と述べた市教委。保護者たちがこの間受けてきた痛みと市教委の姿勢との落差はあまりにも大きい。市教委は自ら犯した過ちの数々と向き合う責任から逃れることはできない。

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