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過去の自分と決別するのではなく手を繋ぐ

 過去の自分のことを、過去のことをどう扱うかを最近よく考えている。
何か上手くいかないことがあると、たまにあああのときこうしていればと過去の自分を責めそうになる。もっと勉強していれば、あの時ああしていれば、あの選択をしていればもしかしたら‥と不毛な後悔ループを繰り返す。不毛すぎる。

 そう思ってしまうのが嫌で、とにかく現実の自分を少しでも良い方向に向かわせなきゃと色々と頑張っているうちに、当時の自分が何を考えていたとかどんなエピソードがあったとか段々と忘れていった。残っているのは、ネガティブな記憶ばかり。記憶の仕組みはなかなか厄介だ。

 大人になると子どもの自分はどこへいくのだろう。成長とともにいなくなってしまうのだろうか。
 私はきっと最後までいなくならない、ずっと自分の中に子どもの自分は居ると思っている。
 音楽を聴いている時、小説を読んでいる時など何か作品に入り込んでいるときにふいに昔の自分に戻る様な感覚になることがあって、忘れていた楽しかった記憶や言葉に表せない感情などがふつふつと脳内に出てくる。そんなときに私は、消えてしまった訳じゃないんだな、まだ自分の中に過去の子どもの自分もいるんだなと感じる。BUMPの歌でもこんな歌詞があったような。

 3歳のわたしも、9歳のわたしも、14歳のわたしも心の中にいる感覚がある。時々迷うときに、どうしたい?どう思う?と問いかけている。
これは結構有効な方法で、幼ければ幼いほど取り繕うということをしないから、自分の本音に近づくことができる。本当はこれが嫌なんだとか、こうしたかったんだとか。
 
 過去の自分と仲良くするのも、もういやだと決別するのも自由なら、仲良くしていたい。手を繋いで、よく頑張ったね私も頑張るよと言える関係の方が何倍も素敵だ。
 ついつい責めそうになる時もあるだろうけど、優しい眼差しを持ち続けていたい。

 過去のわたしも一生懸命に生きていた。それはたしかなことでだからこそ自分を責めたくないし、悔やむのは過去の自分を否定しているみたいで嫌だ。だから昔は良かったと振り返るような行為や言葉も好きじゃない。昔も昔でまあ 良かったし、今もいい感じよと言える自分でありたいといつも思っている。
 
 羽海野チカ先生の3月のライオン12巻の中にこんな言葉がある。

今もまだ時おり 「本当はどうすればよかったのかな‥」
なんて問いが 痛みと共によぎるけど
どっちにしたってもう 「こっちを選んで正解だった!」
って思えるようなエンディングを目指して
私たちは 精いっぱい泳ぐしかないのだ‥

 もうこれに尽きる。最高すぎる。

 


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