対話の補助線
副題「国際政治に興味を持つための思考メモ」
*今年夏のインターン(2022/06-08)終了時に提出した文章が元です。
大学に入るまでほとんどTwitterを使わなかった自分は、Twitterで世界がすごく広がったという実感があります。なので、これまで政治化されていなかった人が、Twitterを始めて意見を持っていくことはとても良いことと思っています。ですが、Twitterというのは一定程度広がると今度はエコーチャンバーを深く掘っていく方向にしか広がらなくなってしまう。そうなると非常に有毒です。私も、Twitterがどんどん醜くなっていく中、9月半ばごろからじんわりとTwitterの使い方を変えていっています。
最近では某揚げ足取り系インフルエンサーの発言がもとになって、辺野古基地移設問題への意見がTwitter界を粉々に割った例があります。その前には国葬と安倍元首相の評価、その前には参議院選と、コロナ禍以前からくすぶっていた日本の政治的分断が次々と可視化していくようです。
こうした事例に共通するのは二つ。まず、目の前の苦しんでいる人に振る視線と、国際政治が繋がっているということ。そして、リベラル保守といった陣営の内部でも愚劣な揚げ足取りと言葉の刺し合いを引き起こしたことです。それはそれはもう、聞くにも読むにも耐えません。
140字では話し合いのしようがない。それだけに尽きます。飛び道具で傷つけ合うより、接近するために補助線を引きましょう。
ところで、皆さんは大学生の政治議論を聞いたことがあるでしょうか。いいえ、東大生とかである必要はどこにもありません。「議論好き」に対するみなさんの偏見を利用したかっただけです。
議論が好きな人たちは、とてもよく喋るか、とてもよく書きます。大学のゼミでも、電車の中でも、美味しい日本のご飯を囲んでも、喋ります。自分が勉強してきたことをもとに、とにかく目の前の人の言葉と自分の言葉の間に感じた違和感に敏感です。自分が正しいと信じている人ほど議論がしたがります。ad hominemかと言われると、日本語が主語目的語を省略して話せるからギリギリ人格否定と全面戦争を避けているような雰囲気を私はいつも彼らから感じ取っています(「彼ら」です)。わら。
なんだかネガティヴな描写をしましたが、議論を全くしない人よりは少々若気の至りで熱く語ってくれた方がいいと思っています。こうした議論、もちろん「決着がつく」こともあるのですが、多くの場合「意見対立などなかった」という結論で終わります。そうなると、聞いていた私は冷めてしまった日本の美味しいご飯をどうしてくれるんだという気持ちになるのですが、一方でこれは非常に「建設的な」議論だったろうと思うのです。
例えば、異性のタイプを言うときに人種を指定した人がいて、それに対して「人種差別だ」という意見があったとします(実体験です)。ちなみに、日本は人種を暗黙の了解として指定することができる国ですが、こんなディベートはアメリカ大学あるあるです。
こういった議論は、最初に雑に放たれた言葉を「揚げ足をとる」ところからいつも始まります。特に深く考えずに使った言葉に対して、違和を感じた人が思わず突っ込むのです。ヒートアップすればするほど筋が通ってないとかエリート主義だとかアカデミアへの冒涜だとかいう話になったりならなかったりする過程で、雑な言葉がどんどんと洗練されていきます。
異性のタイプとは個人の指向なんだから、構造的な差別とは関係がないんじゃないのか?美白への憧れは、帝国主義的なものか、それとも古代日本にもあったか?人間のDNAは、人種間より人種内での多様性の方が大きい。人種で規定するのは生物学的に間違ってはいないか?そもそも外見で異性のタイプを言うのはルッキズムじゃないか。いや、就職採用の場合ではそうでも、個人の好みならばルッキズムじゃない。例えば人間は本能的に顔の対称性を好ましいと判断する生き物だ…
交互に違和感のある人が質問し、雑に一般化してしまった人は自分の言った言葉の定義を具体的に詰めていく。その結果として、いずれお互いが納得できるラインが見えてきて、「ああ、そういう場合にそういう意見をその程度持つことは許容できる」みたいな、最初よりよっぽどきめ細かい言説が完成したとき、「んだよ、最初からそう言ってくれれば反対なんてしなかった」とお互いに思うのです。
議論とは、一体どこで意見が割れているのか、という境界線を探る作業です。140字では、結局「接点=論点が分からない」のです。論点さえ分かれば、政策議論だって論争などなく単純な実務の問題になりがちです。
本稿は、最近の日本の政治界、Twitter界の世論対立における、「両者の接点」を探るプロセスに焦点を当てます。先の参院選での争点や、Twitterの各界隈でエコーしているトピックを見て、どこが分岐点になるのか、どこまで遡れば合意できるポイントがあるのか。そんなことを考えた結果です。財政・金融・外交・安保といった分野と、貧困・ジェンダー・環境といったイシューの間の対立(というか相性の悪さ?)を、どうしたら繋げるか考える手助けになれば幸いです。
元々興味の薄かった国際政治を主に扱うシンクタンクで一夏働き、私が振り返りとして提出した文章がここから続きます。ということで、副題は「国際政治に興味を持つための思考メモ」です。
まず最初に、本稿の前提をいくつか書いておきましょう(丁寧な議論のために…)。
通底構造の存在
この二つの分断構造は似通っていて同様に可視化ができ、従って前者の分断を分析することによって後者の分断も一定程度理解ができる
執筆者のバイアス
筆者はもともと「ミクロな社会問題派」であり、この記事も「ミクロな社会問題派」が「ミクロな社会問題派以外」を理解しようと歩み寄るという一方的な目線で描かれている
これらを簡単な言葉に収斂させるのはあまり良くありませんが、便宜上の概念工学として「ミクロな社会問題派」と「それ以外」と呼びましょう。前者の立場から、見えていないものを探るのが趣旨だからです。
性善説
ここに出てくる全ての登場人物が、「社会全体」(その範囲・タイムラインは不特定)を良くしたいと思っているものとします。というよりも、ひとまずそのような人と話が通じることが大事だと思いました。
分岐点を探る
さて、以上のような対立を、次の4つのレイヤーでこれを整理してみましょう。次元が増えるごとに考えている軸も増え、実際の空間や時間に問題の所在が落ちていきます。つまり、議論の接点(接戦、接地面)が抽象から具体へと論調が変化するわけです。これらを、便宜上の補助線として使ってみることを提案します。
①「保守vs革新」の1次元的対立
②(①)×「経済面vs社会面」の2次元的対立
③(②)×「マクロvsミクロ」の3次元的対立
④(③)×「短期vs長期」の4次元的対立
①「保守vs革新」の1次元的対立
まずはシンプルに直線をイメージします。右側の極に「保守」を、左側の極に「革新」を置きます。フランス革命以来の右派左派の図式を現代的にアップデートしたものができました。
線的な対立になりやすいのが、シンプルなイデオロギー間の分断です。しかし、革新は全てを変えたいわけではないし、保守はすべてを守りたいとか縄文時代に戻ればいいとか考えているわけでもない。「保守」「革新」は、家父長制の家族共同体、憲法、欧米的人権…とその対象によって政治陣営を分けます。当たり前ですが、「守りたい」は、時によって政治的にリベラルにもなりうるのです。
何を保守し、何を革新するか。
日本の「保守層」「右傾化」については数多くの研究があるのでここで網羅的にまとめることはできませんが、一つの特徴として「日本という共同体を守りたがり、国益を追求する」ことを挙げるとしましょう。
これらに共通する感覚として、保守と愛国の結びつきを問うならば保守が「身近なものを守るために、と思う当然の気持ち」から発生していることが重要かもしれません。まさに「模範を過去ではなく未来に求める進歩主義は楽天的で傲慢だとも言える。歴史や伝統には知恵や配慮が込められているし、私たちの理想通りに人類社会が発展するわけでもない」(上記記事)のです。意外と身近なところに分岐点があるということは分断を癒す上でかなり希望を持てるはずです。
ただ、線的な対立は、その単純な二分法の構造により社会分断を広げ、それぞれの陣営の極化を促すことがあります。単純に考えれば、線的な対立というものはむしろ、両側に良い顔をしたいエリートの中道化を促す作用があるはずなのですが、極化が一定程度深まってしまうと、むしろ極左・極右への猛旋回が始まってしまうようです。均衡点が左右にそれぞれある(ように見える)事態は、一つにはSNSのエコーチャンバーの影響かもしれません。
*この内容をきちんと公共選択論(Public Choice)から勉強したい人:最初の中道化はHoteling-Downs理論、左右に極化してしまう現象はゲーム理論で説明ができます。出典:Shepsle (2010). Analyzing Politics, W.W.Norton.
まとめると、「身近なものを守りたいと思う当然の気持ち」を国家に対して抱いたものが、「保守的」と政治的に分類される人々です。国政政治学は、「国家というまとまりを利用しなければ目先の戦争を避けることができない」と(非常に真っ当に)考えている点において(短期的・現実主義的な)保守と言えます。安倍氏は、概ねこのような「保守とリアリズムの政治」を行ったとされています。「保守派」が憲法を改革したがるという捻れた構造を理解するには、国際政治の教養がやはり必要なのだと思います。「保守」というのは、その守る対象が完全に過去のものなら懐古主義ですが、今あるものにアップデートされていれば現実主義です。日本の「ネトウヨ現象」は、そのアップデートがあまりに出来なかった結果として生じていると思います。
補論として、この「身近なものを守るためにと思う当然の気持ち」は先述のように色々なものに向かうわけで、その一例として、国連があります。国連が一種の理想から生まれた組織で、国連による平和は国際政治学の学界で通常リベラリズムに分類される考え方ですが、一方で現実主義的にも国連の存在自体は必要だとされています。
国際社会や宇宙空間といった無政府状態を統治するには、少しでも機能する「有政府状態」に持っていくしかありません。各国は国連や国際法のような「権威」に頼ります。だから、国際政治学にとって、肝心なときに機能しない、今ある非常に低レベルな機能だけ果たす国連は、それでも保守すべきものです。その点、国際政治学という学問は、無政府状態(無秩序)を最も恐れているが故に、無政府状態(アナーキー)での統治を考え続けるのではないでしょうか。
ちなみに、色々な慈善活動や学生団体について、私はこれと同じ意見を持っています。「完璧に機能するには圧倒的にインセンティブ不足でありつつも、今ないよりは今ある方がマシだからロープロファイルのまま保守していくのが良さそうなもの」は世界に沢山あります。
保守的というと懐古的な方のイメージだけがありますが、そういった意味では国際政治学は「なくてはいけないもの(第一に人命)を守る現実主義」の結果としての「保守」です。ここから、既存秩序が壊れることを恐れて既得権益にしがみつくまで、これもまた紙一重です。紙一重、というのは簡単に移行できるという意味だけでなく、人や見方によってどちらともとれるという意味でもあります。
②「経済vs社会」の2次元的対立
さっきは直線でしたが、今度はその直線をx軸として、y軸をとりましょう。平面ができました。x軸には経済的な「保守vs革新」、y軸には社会的な「保守vs革新」を入れましょう。x>0が経済的な保守、つまり市場原理主義、ネオリベラリズム、「小さい政府」、規制緩和といった方向になります。x<0は、再分配、「大きい政府」といった考えです。y>0は社会的な保守なので、ナショナリズム、宗教、家父長制といった意見。y<0は多様性やコスモポリタン、無宗教ジェンダー平等といったところでしょうか。まったく恣意的で包括的でない分割ですが、分かりやすくあると思います。
ちなみに、このパートの議論は、私よりも茂木誠『世界の今を読み解く「政治思想マトリックス」』に詳しいです。予備校講師の執筆なので、ニュースをたまに見る高校生であれば分かりやすいと思います。
ここで、①の単純な「保守vs革新」の直線は、ここでy=xにおおまかに対応します。また、所得はおおまかにy=ーxの直線と対応していることが分かるでしょう(貧困であればあるほど経済的には再分配を指向し、社会的には多様性を受け入れづらい)。したがって、現在の不平等な世の中では、第2象限(右下)のイデオロギーを持つ人口が最も少ないということになります。
以前大学の授業でアメリカの例を出したので、自分のペーパーから図をコピペすると、アメリカ政治が非常に分かりやすく2次元の平面で表示できることが分かるでしょう。第1象限(右上)は、共和党にお金を注ぎ込むトップ1%の億万長者を含めた白人富裕層から、ティーパーティーのような保守系論客が占めています。第3象限(左下)は、逆に民主党を支持する非白人の人口がひしめきます。アメリカの極端な選挙は、どんどん少なくなる第4象限(左上)の無党派層さえ引き込めば勝つゲームだということです。
歴史的には、ルーズベルトのニューディール政策がはまったころのアメリカの田舎の白人は民主党支持者でした。そのころの選挙の論争は、経済面(x軸だったのです。ところが、80年代のレーガンあたりから、共和党が社会面(y軸)を押し出し始めます。公民権運動に嫌気が差してきた白人層を取り込みにかかったのです。ポリコレ文化が進んで、「教養のある富裕層とマイノリティ」vs「教養のない白人」図式が顕在化し、黒人やヒスパニックが選挙権を獲得したとき、民主党は左下の支持層から離れられなくなりました。人口分布と、富の偏りとともに両陣営が「極化」したというのは、実際には下図のような動きだということです:
つまり、ある特定のものを「守るか変えるか」の図式だった1次元から発展して、ここではその対象を経済面と社会面に分けています。複数のイシューに対して、二人の意見がどう異なるのかを可視化することができます。「これを守ってこれを変える」「両方守る」みたいな意見の在り方を可能にしたとき、分断が広がってしまうとともに、「保守」「革新」の意味がもはや実際の人口分布と対応しなくなってしまいました。
③「マクロvsミクロ」の3次元的対立
次に、さきほどの平面を黒板に書いて、その黒板から飛び出す立体を考えます。飛び出るz軸は「狭いvs広い」です。「全体最適」「部分最適」とかいう言葉を使ったときに、どのレベルで「全体」を設定するか。という対立が、3次元になります。「ミクロな社会問題派」が一つ一つの社会問題に対して個別にアプローチしていくような思考回路を辿るのに対して、国家運営をするならば「すべては同時にできない」点に限界があります。「ミクロな社会問題派」はマクロが苦手です。マクロで結論を出すと、一つ一つのミクロな社会問題が軽視されてしまうからです。マクロというのが、ミクロに優先順位をつけて一つの意思決定に集約することを指す以上、本質的で仕方のない問題です。
前節までで、「何を守るか」が決まりました。この意見が同じ人でも、「どの範囲でそれを同時に守るか」という分断が生じます。日本の女性の権利が大事ですか?台湾の民主主義が大事ですか?限られたリソースの中で、これらに優先順位をつけられますか?あるいは、守りたいものは一致している!教育と育児の公助を守りたい!みたいな合意があったとき、大学教育を無償化するならば待機児童問題に十分にリソースが割けない、みたいなもどかしさから分断が生まれるみたいなことです。少しずつ、イデオロギーが実務に近づいてきたことが分かるでしょう。どれだけ全体主義的に考える(べき)か、それが3次元での対立の根本です。
参院選の非常に大きな論点の一つ、安全保障論争は究極のマクロvsミクロです。ミクロスケールで困っている人に大きなエネルギーを投じるか、マクロスケールで全体が「困っている人」にならないように大きなエネルギーを投じるか。一方では、護憲・軍事費削減で国内に財政出動、といったマニフェストがあり、他方では、憲法改正・軍事費をGDP2%に引き上げるといった政策提言がありました。左派の論壇に多いのが、「日本をふたたび戦争をする国にしてはならない」的な論点です。しかし、右派に言わせれば「日本は戦力を持たなければ戦争に巻き込まれる」わけで、この間の溝にある分岐点が「守りたいものの範囲」です。
安倍政権がやったことの一つは、日米同盟の強化です。国際政治を学べば、安倍政権を評価せざるを得ません。死後、海外メディアが日本の国内以上に安倍氏の功績を讃えるのは、彼らが日本政治をよくわかっていないからではなく、日本が国際政治をよくわかっていないからだと言うこともできるでしょう。
東側諸国(中露)の脅威と、アメリカをはじめとする西側諸国での自国至上主義的ポピュリズムの隆盛という背景の下では、「日本が戦争できる状態に近づける」(e.g., 集団的自衛権を容認する、特定秘密保護法を通す、憲法を改正する)ことが、西側諸国が日本と共に闘うインセンティブを高めて、逆説的に「日本を戦争から守る」ことになる(場合がある)ということです。
軍事安全保障(地政学)だけでなく、経済安全保障(地経学)も同様です。安倍政権は輸入依存の日本社会を守るためにTPPを推進し、アメリカが脱退した後も中国を巻き込んでなんとかCPTPPまで漕ぎ着けました。「自由で開かれたインド太平洋」は日本発としては史上初と言えるレベルで世界的に浸透した国際政治の概念です。
なぜ、これは「ミクロな社会問題派」の理解を得られないのでしょうか。ミクロな社会問題派は、マクロができません(自戒も込めて)。防衛費を増やさず外交で解決しますみたいなのは、国際政治どころかミクロ経済学のインセンティブ構造をまったく理解していなさそうで非常な危うさを感じさせます。現状では、防衛意識を高めずに日本(が自力でミクロな社会問題を解決をするプロセス)を守ることは不可能ではないかと思っています。
結果、日本で一番、政権運営能力が高いのは自民党です。これは一つにはただの経験量の差であって、戦後2度しか下野したことがないのだから当たり前だと思います。世界史を紐解いても、民生移管直後に文官の政治運営能力がなさすぎて軍政に戻った、みたいな例が無数にあるように、民主的(分権的)な組織でうまく意思決定力を持つには時間がかかります。もう一つは、政策ができる人が自民党に行く、という選択の問題です。政策が作れる人は自分の作った政策を実装したいと思うのが当たり前ですから、ずっと与党である自民党にいくインセンティブが強い、ということです。どちらの意味でも、野党の政権運営能力を上げるには、野党を野党ではなくして政権を運営してもらうしかありません。
3次元に補助線を引いて分かることは、社会全体の「マクロな安全を保障」しつつ、ミクロな社会問題に取り組むことは両立できるし、しなければいけないということです。守りたいものの中で、最低限守らなければいけない領域(政治秩序と人命と経済)と、集中的に守っていく領域(性的マイノリティの権利など)を区別することが必要です。そして、ミクロな社会問題に対処するような形で、国際政治経済に取り組むようなアプローチも、ある程度では可能だということです。その「ある程度」をミクロな社会問題派は到底許容できませんし、その批判的な態度を持ち続ける一方で、どこが全体最適と部分最適がぶつかる限界点かを探る必要があるでしょう。
③「短期vs長期」の4次元的対立
3D空間に時間(t)軸を入れると、さらに問題が複雑化します。端的に言えば、同じ「日本社会」という空間範囲をとっても、「いまの日本社会にとっての全体最適」と「5年後の日本社会にとっての全体最適」は違うからです。
例えば経済面。短期的な救済vs長期的な持続的成長、はあらゆる場面で論争のもとです。2022年の参院選でもマクロ経済政策は論点でした。簡単に言うと「消費税を(時限的にでも)削減するか否か」という争点があり、円安・物価高対策という括りでも語られることが多かったものです。これは国家予算という有限資源をどのように分配するのかという問いであると同時に、財政健全化に向けて動かなくて大丈夫なのかという時限的な問いでもありました。左派に言わせれば、短期的にシングルマザーへの手当を増やしながら長期的に自然エネルギーに転換していくのは「当たり前」なのですが、右派に言わせれば原発と火力発電なしには「この冬停電する」のであり、長期的に手当を削減していかないと社会保障が持たないのです。これらがすべて両立することを理解する必要があります。
安全保障はどうでしょうか。社会問題の解決には時間がかかります。現実問題としては、ジェンダー平等を達成するまでの間に、隣国が攻めてきてそれまでの進捗をすべてパーにするかもしれないし、エネルギー資源がなくなって停電するかもしれないわけです。停電してもいいからジェンダー平等を目指すべきと言う人がいれば、その間に経済活動がとまって財が不足し、シスヘテロ男性に優先的に資源が回るでしょう。要は、外的要因、つまりジェンダー平等にとって完全にExogenousな要因によって、ジェンダー平等を目指す道のりが長くなったり、進捗が破壊されたりするということを意識する必要があります。
では、そもそもなぜ隣の国や民族が攻めてきたり、エネルギーがなくなったりするのでしょうか。それは一つには、「短期的には国家を主体的なアクターと見做さざるを得ないから」かもしれません。
国民国家という国家モデルが主流であった時代、つまり戦前では、国家が実質的に単一の意志を持つものとして捉えることができました。その後、世界大戦が終わり、植民地の独立や国内の動乱の時代となり、国家内部の多様性に注目が移りつつも、冷戦構造の中ではまだまだ多くの人々の意志は国家を源とし、重なるものだったと言えます。その点、ソ連崩壊後に「歴史の終わり」が訪れ、資本主義・民主主義という分権的原理に基づいて世界中のほとんどが動くようになった結果、国家は多くの人々の意志を集約するものではなくなっていると思います。経済的には多国籍企業のような超国家主体の影響力が強いですし、社会的にはWeb2.0(あるいは3.0)という分権の権化のような媒体とともに国家をこえたコミュニティ形成が進みました。
これからは、国家に規定されない多様性の時代だと言っていいのでしょうか。ウクライナ戦争を見ればすぐに否定できます。国家が戦争を起こし、国家一丸となって経済制裁をして、多数の相手国の市民を貧困に落とすことができます。これは明確に「歴史の終わり」を否定する現実です。長期的に欧米式の分権によるリベラル・インターナショナル・オーダー(LIO)が実現するということは定まった未来ではなく、また望ましい未来ではないかもしれません。自由主義とグローバル化は、いろいろなものを破壊してきました。
護憲派などが気になっているのは、日本が「がんこに平和」路線を採用した場合どうなるのかです。短期的な結果と、長期的な結果は大きく異なります。ミクロレベルでかなり長いタイムラインで考えれば、例えば中露との地べた社会には日本社会には共通点が多く、国家が介入しなければ対話で平和構築ができるかもしれません。だって、完全に日本の近隣諸国は「異物」なのでしょうか?グローバルな文化圏で言ったら(アメリカ在住から見れば、笑)同じようなもんですし、お互いの細かい差異を尊重することはできます。政治体制で言ったら、コロナ対応で分かったように専制主義と民主主義はグラデーションで繋がるものであり、「理想の民主主義」を「現実(ないし過去)の専制主義」と比べるのは不適切です。つまり、極端な例で、もし日本列島が中国政府の傀儡になって統治を受けたら、それは30年後の我々にとってどれだけ別の社会なのでしょうか。別だとして、より良い社会なのでしょうか、今より悪い社会なのでしょうか。そうなってみないと分からないところがありますし、そうなってみたところで、意見は分かれるでしょう。
つまり、脱主権国家体制の長期的な未来に向かって動き出すのはとても大切ですが、短期的には③までの議論に部があるでしょう。短期的には、国家と人は「一vs多」の構図ですから、長期的な脱国家と、短期的なマクロレベルの国防と、短期的なミクロレベルの貧困対策は、すべて同時にやらなくてはいけません。しかも、短期というのは「3年」のように終わりのある目線ではありません。3年後も短期的に考える必要はありますし、「このタイミングで長期に移る」的な考え方はナンセンスです。短期は連続的な期間です。これは元々興味を持っている人にとっては極めて自明なことなのですが、安全保障は短期的な領域でありながら、極めて長期(持続)的なのだと分かります。
おわりに
与党を支持している人、リベラルと言われる人、ツイフェミと呼ばれる人。Twitterにはいろんな人がいますけれど、彼らの主張を一つ一つインターネット(と人格)から引っ張り剥がせば、4次元空間の中での点としてその位置を確かめることができるでしょう。そうして眺めると、ある人の主張は直線でも、集合でもないと思います。きっと誰だって、ねじれて分散した点々がパターンなく散らばっているだけ。全く意見が違うと思っていた人と、あるイシューに関しては近い位置にいるかもしれません。人が内部に多様性(≒一貫しないもの)を持つことを理解しないと、揚げ足取りを繰り返して日が暮れてしまいそうです。
いま沸騰している辺野古基地移設問題であれば、短期的にマクロレベルで沖縄を含む日本全体の安全を守りつつ沖縄から移せる負担は移して、中長期的にはミクロレベルで沖縄と「本土」の格差を革新していきたい、みたいな主張を「とりあえず両サイドがしておく」ということは必要だと思うのです。実務レベルでは落とし所が一意に定まらない問題です。ただ一方で、そこに補助線を引けば、相手のところまで頭の中で行けるようになります。そして、その努力を、より大きい権力=Bargaining powerを持っている側が率先して多めにやる。四次元ポケットの中で絡まり縺れた議論から、自分と相手の立場が点と点で見つかったならば、落とし所はその2点を結ぶ線上のどこかです。イシューレベルでそれができれば、こちらのイシューでは30%譲るから、こっちは50%こっちの点に近づけてね、みたいな交渉が可能になる。それが適正な政治だと思っています。
ここまで書いて、あまりにも単純な結論だと思いますが、汚い言葉で罵り合っている人たちでも、分解してみると意外と目指す未来には大差がないんじゃないか…という淡い期待を持って、ここまで辿りついた思考メモでした。
まだまだ荒削りのまま出すので、これから磨いていきたいと思います。
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