自分嫌いをやめられない

何個か記事を書いていましたが、どれも初めから載せるような内容ではなくここから書くことにしました。

今年26歳になります、まゆと申します。もし誰かの目に留まり、この文章を読んでいただけるのならばとても嬉しいですが、これは他者へ向けての文章ではなく私自身に向けての文章です。

私はよく、自分の考えや感情と向き合う時間を作っています。ですが、もっと上手く自分の考えや感情を理解するにはアウトプットが必要だなと常日頃思っていたため、ここに文字として書き込みながら、自分の気持ちと向き合っていこうと思った次第です。

人に自分の考えを話すと、どうしても話の着地点が変になってしまいます。というのも、相手の反応を見ながら、相手の反応が良い話の着地点を選び話すと変な文章になってしまうんです。自分のボキャブラリーが乏しいために。なのでnoteでは言葉を選びながらゆっくり文章を書いていきたく思います。



まず第一、私の中の根本には自分への劣等感と嫌悪感がとても深く根付いています。というのも、自分が小さい頃に身の回りの人からのフィードバックで得られる自分の像が、とても酷く醜くそれが自分への劣等感や嫌悪感を徐々に作っていきました。しかも学生の頃って学校生活が全てと言っていいぐらいでしたし、自分の知識や常識も今より少なく自分を肯定する術が無かったんですよ。だから身近な人から返ってくる自分の像というものが、私を証明するものであり全てでした。他で自分の価値を見出す手段も知らなかったのも事実です。けどそれが当たり前だと思ってました。

そしてそこで生まれた自分の像、『容姿的醜さ』『コミュニケーション能力の低さ』『女らしさの欠陥』『服のセンスのなさ』『頭の悪さ』は自分の外見にも内面にも影響を出すようになってきました。

こうやって文字に起こせば、1つずつ解決すればそれで嫌悪感から開放されるのでは?とも思いますが、そうではなく。一つひとつが複雑に歪みあい、様々な所で心に影響を出してきます。正直なところ、じゃあそれは何に影響をしていて、何を正せば治るのかは今でも分かりません。それが出来ていれば今はもう、自分嫌いから解放されているでしょうし。だから私は自分の気持ちを解体して一つひとつを知りたいと思っています。この自分嫌いから開放されるには、自分の気持ちをよく知ることが大事なのだと考え、結果このnoteを書くことになったのです。


次に、先程書いた自分への嫌悪感は実際何に影響を出したかですが、大きくわけて【醜形恐怖症に伴う美容整形】【対人恐怖症】【異性や性への執着】の3つです。



まず1つ目は【対人恐怖症】です。

人の前に立てない、人の前でなにかする事が出来ない、相手の目を見て正面からコミュニケーションをとることが出来ない、自分の意見を伝えることが出来ない。あげたらキリがない数あります。

自分の醜い顔を見て欲しくないんです。自分の意見を相手に評価されたくない、怖いって思ってしまうんです。これ以上自分の気持ちを否定される、自分が考える自分の像を否定されるのが怖いんですね。それに気持ち的部分だけではなく、物理的にも。もしかしたら口臭がするかもしれない、それで不快にさせたくない嫌われたくないと思い一年中ミントのガムを噛んでいたりしたこともありました。

この対人恐怖症、本当に自分の行動できる範囲を狭めるんですよ。誰かと接点を持つと自分を否定されそうという気持ちが、自分の中でどんどん強くなっていってしまいました。それはもちろん今でもそうです。今現在進行形で人の前で自分の意見を伝えること、というのは怖くて怖気付きます。


次は2つ目の【醜形恐怖症に伴う美容整形】です。

まずこれに関して、私自身は醜形恐怖症だとは自覚していません。そもそも醜形恐怖症というのは、普通又はそれ以上の顔の人が生活に支障をきたす程の自分への過小評価な訳で、私は別に自分では自分の顔を普通ともそれ以上とも思っていません。普通にブスだし醜いと思ってます。そこら辺歩いている子の方がよっぽど可愛いし、自分より可愛くてスタイルいい子なんて沢山いるし、芸能人なんてあんなに顔が整っているのに私は全然整っていない。

高校卒業後、上京をしてメイドカフェでアルバイトをしたんです。ブスなのに。というか、心のどこかで自分は可愛いのかもしれないという期待を抱いていて、期待通りになって欲しいと思っていた自分がいたのかもしれない。そして、可愛いと自分で認められれば対人関係が今よりも良くなるのでは、と思ったんです。

私が働いていたメイドカフェでは、顔で選ばれる世界が広げられており、その世界の中で自分はブスでありブスだから選ばれないとしっかり体感しました。淡い期待が見事に砕け散りました。

そしてそれをきっかけに20歳になった時美容整形に手を出し始めました。初めは簡単な涙袋のヒアルロン酸から始まって埋没手術。顎の調整に歯列矯正(現在進行中)、歯列矯正終えたら人中を調整しようと今は考えています。

これは少しこの記事とは内容が離れてしまうけど、美容整形はすればするほど、余計自分の醜さが際立ってしまい気持ちが落ち込んでいってしまうんですね。整形をする前はワクワクするんです、もちろん。自分の伸び代を信じているので。けど実際に施術を行うと、「あぁ、やっぱり自分の伸び代なんてものは元々無く、お金をかけてもブスのままなのか。」って思うわけです。そして私は契約書にサインする時毎回泣いていました。自分がブスでなければこんなお金を払うことも悔しい思いをすることもなかったのにって。自分がブスであることを知りたくなかったって思う反面、整形をしたら可愛い自分の理想像になれるかもしれないっていう期待の高低差が激しくて心の負担が大きいんです。それはもちろん今もそうで、可愛いという言葉や褒めてくれる内容を私なんかに掛けてくれても、もう響かないんです。自分で自分を可愛いと認めるしか、自分を許せなくなってしまっています。


そして3つ目の【異性や性への執着】に繋がります。

自分の価値を見出したかったんです。異性を通して。私が1番劣等感や嫌悪感を自分に抱いたの時期って中学の頃なんですよ。その時期以降に初めて異性と関係を持ったからこそ、そこに自分の価値を感じるようになってしまったんです。例えそれが体への価値だろうが何でも。むしろ体を求められる方が私の欲求は満たされていました。外見にコンプレックスを抱いていたからこそ、外見である体を求められることが嬉しかったんですよね。内面以外のものを求められるのが楽しくなりました。だからとにかく色々な方法で男性と交流しました。ネットの出会い掲示板を使ったり、バイト先の人と関係を持ったり。そして風俗を始めました。みんな好きでしてる仕事では無いと言っていますが、私は別でありすきな仕事でした。普段からしてる性的行為がお金になるんですよ。自分を肯定する行為でお金が入る。それって究極に自己肯定感を高めてると思うんです。だって、1番嫌いな外見でお金を稼いでるとイコールになりませんか?もちろん厳密にイコールにならないことは理解しています。けど私がここまで書いてきた文章から考えると、きっとイコールになるのでは?と思います。

だから楽しかったんです。風俗も出会い系も。自分の価値が物やお金として見えるとそれが楽しくて。自分にはこんな価値があるんだって簡単に脳に入ってくるんです。それをもっともっともっと…!ってなってしまうんです。だから余計執着してしまい、やり続けてしまうようになりました。



じゃあ今書き出した3つの事柄が、結果として何だと言うと、3つが連なって連なった時、本当の自分を認めて欲しいと求める相手に、自分のSOSが出せなくなってしまったんです。それは何故か。目に見えるものが自分の価値だと思うようになってしまった故、自分の望んだこうあって欲しいと期待をする物(自分が商品とした場合の目に見える対価)が手に入るように、自分を相手に合わせ作ってしまう様になったからです。

この相手はこういう子が好きだからこうした方がいいだろう。この人に私はこう映ってほしいと思うからこう演じようって思い、演じた結果本当の自分の気持ちの苦しさを言えなくなってしまったんです。いや、言えばいいじゃんって思うかもしれませんが出来ないんです。自分の悩みや苦悩を伝えたい、理解してもらいたいって相手に思う時ってもう既に結構親交が深まっている時であるんですよ、私の場合は。既に仲が良くなっている状況って、私が相手に合わせて演じた人物として仲良くなってる状況なので、そこに私本人の悩みや心の話って辻褄が合わなくなってしまうんですよね。そこまで仲良くしていた私は、認めて欲しいと思っている本来の私ではなく、この人からは『私の理想の私への価値』といった得たい価値を実際に得られるように演じている私なのです。逆算しちゃっているんですよね。だからこそ本来の自分の気持ちってもう言えないんです。

それに何だか、自分の本当の苦悩や悩みって口に出してしまうと価値が下がってしまう、本来の苦しさや葛藤が相手に何割か減った形で伝わってしまいそうだな、とも思ってしまいます。安易に自分のこの気持ちを口に出したくない、そんなに軽い気持ちじゃないって思ってるフシもあるのかもしれません。だから気軽に相手に助けを求められる人がとても羨ましく感じてしまうんです。

辛いと言葉にできる人、自分以外に言える人が強いとは言ってません。自殺未遂をする人もいるし、自傷をする人もいます。けどそれを誰かに見せたり報告したり、助けてと言える人ってとても羨ましいんです。それが出来ない、弱さを見せられない意地を張ってしまうんです。そりゃ自分の弱さを相手に伝えた方が、相手は私に『こういう一面を持つ性格をしている』と把握することが出来るので、気にかけるきっかけを作ることが出来ますしね。そもそも自分の弱い面を伝えない限り、相手はその面を『心配する対象だ』とも認識しないでしょうし。それは辛いと言葉で言う以外にも、自傷をしている等の行動の報告も同等だと私は考えいます。

けどそれが出来ない、そもそも認めて欲しいけど、わかるって言って欲しくないんです他人に。めんどくさいですよね、自分が一番よく思います。けどわかるって言葉って相手の言葉や経験の価値を下げてしまう気がするんです。相手が抱く物事への感情って、相手がそれまでに経験してきた事から得られている感情であり、その感情が大切かどうかもそれまでの経験してきた感情と比較した結果だと思うんです。だから安易に分かるよなんて同意したくないんです。それは私に対しても同じで、簡単にわかるよなんて言って欲しくないんですよね。貴方は私がどれだけ苦しんできたか知らないでしょって思ってしまうんです。


きっとだから自分嫌いから離れられないんです。

きっと自分が理想とする人(ほかの記事でまた書きます)に私を認めてもらうことが、この自分嫌いから開放されるのに大切なことなんだと思います。

けど、それにはまず私は自分の顔に納得できない、頭の悪さに納得できないんです。

自分が自分の見た目と頭を認められた時、同じくそれらを元々持っている人からも認められたらこの苦しみは終わるんだなってこの文章を書いてて思いました。

私を認めて欲しい人、居るんです。とても頭が良くて言葉が綺麗で顔もとても綺麗な人が。でもなんでその人に自分が執着しているのか分からなかったんです。けどそれはきっと自分と向き合いたくないって気持ちの現れだったんででしょうね。嫉妬心、羨望、羨ましい存在だからこそ目が離せなかったのかな。

自分が初めから持ってないもの全てを持っている人であり、それを無意識に自分と対比し続けていたんでしょうね。そしてその対比をしなくて良くなった時、きっとこの自分嫌いの気持ちが無くなっていくんだなって少し分かりました。

この気持ち、集団生活のカーストとも関係あるのかもしれないなと、この文章をあとから見返してて思いました。学生の頃や集団生活を共にする近しい存在の人って、自分の鏡のようでした。同じような雰囲気を持ってる人が固まってつるんでいたし、相手のカーストが自分のカーストであったように(あくまでも私はそうでした)、自分が憧れているあの人に認めて欲しい、あの人の仲間に入れて欲しいという気持ちもあるのかもしれません。カーストなんて無くなればいいけど。

まずは自分自身で満足いくように、整形やダイエット、知識を得ることをとことんやってみるのが良さそうです。でもそれは、根本的な解決にはなっていないけど、でもまず自分が出来る所までは自分の力で動き、自分を可愛くしていきたい。初めに自分を認めるのではなく、自分を認めるために動いてみる、今の私にはそれが必要なのかもしれませんね。





長々と書きましたが、本当にこれは自分と向き合っていくためのnoteです。他の方が読まれても何も面白くないと思います。だけどもし最後まで読んでくださった方が居るのであればありがとうございました。

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