無意識の言葉の壁

まゆです。前回、自分がnoteを綴っていく中でベースとなる感情を書きました。誰かのためにではなく、自分の為に。私のnote内の文章も全て、私が私の為だけに向けて打ち込んでいる言葉です。自分の考えを整理したい時に書き出しています。ですが、もしそんな文章でも目を通して頂ける方がいらっしゃるのであれば嬉しく思います。


前回の記事にて、自分の弱さをつらさを人に伝えられないと書きました。今回はそれに加えたいことがあるので打ち込んでいます。自分でも分からなくなってしまうので、前回の記事を抜粋します。

【それに何だか、自分の本当の苦悩や悩みって口に出してしまうと価値が下がってしまう、本来の苦しさや葛藤が相手に何割か減った形で伝わってしまいそうだな、とも思ってしまいます。安易に自分のこの気持ちを口に出したくない、そんなに軽い気持ちじゃないって思ってるフシもあるのかもしれません。だから気軽に相手に助けを求められる人がとても羨ましく感じてしまうんです。

辛いと言葉にできる人、自分以外に言える人が強いとは言ってません。自殺未遂をする人もいるし、自傷をする人もいます。けどそれを誰かに見せたり報告したり、助けてと言える人ってとても羨ましいんです。それが出来ない、弱さを見せられない意地を張ってしまうんです。そりゃ自分の弱さを相手に伝えた方が、相手は私に『こういう一面を持つ性格をしている』と把握することが出来るので、気にかけるきっかけを作ることが出来ますしね。そもそも自分の弱い面を伝えない限り、相手はその面を『心配する対象だ』とも認識しないでしょうし。それは辛いと言葉で言う以外にも、自傷をしている等の行動の報告も同等だと私は考えいます。

けどそれが出来ない、そもそも認めて欲しいけど、わかるって言って欲しくないんです他人に。めんどくさいですよね、自分が一番よく思います。けどわかるって言葉って相手の言葉や経験の価値を下げてしまう気がするんです。相手が抱く物事への感情って、相手がそれまでに経験してきた事から得られている感情であり、その感情が大切かどうかもそれまでの経験してきた感情と比較した結果だと思うんです。だから安易に分かるよなんて同意したくないんです。それは私に対しても同じで、簡単にわかるよなんて言って欲しくないんですよね。貴方は私がどれだけ苦しんできたか知らないでしょって思ってしまうんです。】


長くて申し訳ありません。何故今回その事で自分の気持ちを整理したくなったのか。それは、前記事に記載しました、『私を認めて欲しい人』との会話でとあるモヤモヤが生まれたからです。その会話内では自分の気持ちを解消しきれなかったので、アウトプットしながら一つひとつ自分の気持ちを知りながら解消していこうと思い、今回のnoteを書き始めました。


まず初めに、この話をしておきます。《現在私は結婚し愛娘を1人授かり、3人家族です。ですが、現状旦那との関係は良好とは言えません。理由として結婚後、我が子の親として1人の大人のしての責任を負い、養っていかなければいけないという覚悟が旦那には見えなくなってしまったからです。子どもの責任を負うって、ただ金銭面的に支えるということだけでは無いと思うんです。家庭を作り上げる言う事は、人としてのなにか大切なものが無ければならないと、私は結婚当時から感じていました。ですが私の旦那はどこか人任せな面があると最近よく感じることが増えてきました。そして、その不満に拍車を掛けたのが、結婚後に黒だと分かった旦那の発達障害です。特に学習能力が乏しく、家族になって以降発生する外部との契約や話し合いは、主に私しか理解できないという状況になりました。正直私だけが責任を負っているようで負担が大きいです。私は2人で家庭という基盤を造り、娘の成長により良い環境を提供したいと考えていましたが、それが本格的に難しいということが最近になってハッキリとしてきました。そしてそれが発端の喧嘩の回数が増え、明らかに娘への影響として悪いものになってきている。というのが現在の私の状況であり、つらいと感じている内容です。》


さぁ、ここで先ず思うことがあります。私の口から旦那との関係が良好では無いと発した場合、実際にどの程度の関係性であるのかって、本人以外にはあくまでも想像内での話でしかないんです。今、もしこの文章を読んでくださっている方がいたとして、私自身の今のつらい気持ちを何割理解してくれているなんて私にはわからないんですよ。

みんなどこもそんなもんでしょ、と思う人もいれば同意してくれる人もいる訳で。だからあまり自分のつらい気持ちって人に言いたくないんですよね。抜粋した通り、自分が想定している半割も伝わってないことが大半なので。だから私は、言葉を使って何かを説明をする時、なるべく感情で測らなくて良いように説明をします。例として、わかりやすく同じ状況のものを例えに出したり、固有名詞があるもので説明したりです。もっとわかり易く言えば、実際に実在する物を出して説明をするということです。ですがいくら気を付けていても、気持ちに関してはどうしても言葉だけで形容できません。

そして私も人間なので、つらいと言葉に形容しなくても、自傷行為をしなくても、この辛い気持ちをわかって欲しい故、所謂『愚痴』というのをこぼす時があります。面倒くさいですよね。分かってもらいたいのだか、分かってもらいたくないんだか。私の本当の気持ちとしては、辛いと体現していなくてもつらいであると、私の気持ちそのままを100%の割合で通じて欲しいなと思っています。しかし今のところそれが出来たことはありません。むしろ逆で『貴方は全然不幸では無いよ。』と言われることが増えてきました。



では、何が言いたいか。自分のつらさを自分なりに表現しているつもりが、結果として逆効果であり、『貴方は全然不幸では無いよ。= 貴方は今幸せだと思うよ。』って相手から見えてる私の像が、私にフィードバックされているんです。私の気持ちに蓋をされているようなものではないのでしょうか。そもそも私は私の世界線でのつらいの基準で話をしているのであって、私のつらいなんですよ。そこに相手の世界線のつらいは求めてはいないのです。アドバイスを求めている訳では無いのです。私の世界での事である以上、相手の世界の中での価値を被せてくる事をそもそも求めてないんです。

私は、私の今の状況が幸せなのかそうでは無いのかが知りたい訳では無い。むしろ、その当事者である私がつらいと感じているのだから、それはつらいのです。誰がなんと言おうと。自分の気持ちはこうであるって決まっているんです。答えが出ているから、この気持ちを伝えようとしているんですよ。だから、そんなフィードバックは余計に私を苦しめるだけであり、相手への期待値が大きい分落胆してしまうことになってしまうんです。



じゃあ例え話です。先程の文章の問題点を、暴力的DVに変えてみて下さい。《結婚後、愛娘を授かり順風満帆に見えたが旦那から継続的な暴力のDVを受けている。それがとてもつらく、娘の成長にも影響が出ている状況だ。》

暴力という理解しやすいつらさが入ると、どういう気持ちのつらさであるのかが理解しやすくなりませんか?これはDVというものが悪いものであり、痛いものであるという認識が元々知識として頭に入っているからだと私は思っています。そしてDVや暴力という言葉自体の意味を知っているからこそ、気持ちの形容が安易になるのではないでしょうか?

上記理由に合わせて、目に見える、物理的行為が含まれているからだと私は考えます。目に見える行動(ここでは暴力)というのは、痛みなどで五感が刺激される情報があるため、自分に反映して考え易くなるのだと思っています(当社比)。仮に殴られた経験が無くても、殴られれば痛いというのは、人間大体の人が想像つくことだと思いますし、物理的行為は心理的行為よりも同じ経験をしていると、共感してくれる母数が元々多いのではないでしょうか。というのはただ数が多いということではなく、先程話したように気持ち的な共感は形容しにくいため同じ気持ちである人を探すことが難しいです。ですが物理的行為は“暴力”のように痛さなどの共感できる一定のラインがあるのではと考えます。【この強さは一般的に痛いと感じる→だからこの強さで人を叩いたり暴力をふるってはいけない】という、“痛さ”のボーダーライン的気持ちは少なからず大抵の人が持っているのではないでしょうか。

そんなの、つらいと言葉に言える人や自傷を報告できる人が羨ましくなりますよね。自傷などは行動的要素で、目に見えるつらさの部分であり、それを聞いた相手がつらさを認識しやすいと思うから。


だからこそ形容できない心の話を、聞いた相手が自分のものさしで測った不幸か不幸じゃないかに当てはめられるのは違う気がするんです。それは時として相手の意見や価値観を尊重せず、自分の意見や思想を押し付けているだけでは無いでしょうか。それって会話ですかね?もはや聞き手側が仮定した話の中での会話に過ぎるなと、私は思います。


相手の気持ちを尊重する、相手の感情や状況下を考慮する。それだけでまた少し相手への見え方って変わってくるのではないでしょうか。私はそう思います。自分のものさしって、それまで自分が経てきた人生から作られてるものさしであり、相手の人生を測れるものさしじゃないと思うんです。だからもう少し相手のものさしをわかって欲しい。これに尽きます。だから私は、話相手に少し配慮が足りないなと感じて不満を抱いていたんですね。








上記までの話で、モヤモヤしたである相手の行動への疑問がある程度まとまったと思います。では次は少し離れて、実際の感情的な話をします。少しタイトルとは別物だと思ってください。

じゃあ何故上記内容に配慮が足りないといった不満を抱くことになっているのか、なぜ配慮をして欲しいと思ったかです。


私は、私のこの辛さを貴方の想定している範囲で決めつけて欲しくない。貴方の思う型に当てはめて『貴方は不幸なんかじゃない』なんて、私の辛い気持ちが貴方に伝わらなくなってしまう壁を作って欲しくない。私は言葉にしたり行動に移したりできる気持ちは、弱さじゃないと思っているから。自傷をするのは弱さ故かもしれない。けど自傷したという事を伝えるのは弱さだと言い切るのは違う気がするんです。だって助けを求められているような気がしているから。でも残念ながらそれを弱さだと認識をして、心が傷ついてる人が欲しい言葉をかけてくれる人が多い。しかしこれは、あくまでも私が人間的好意を寄せた人に関してはの話。目に見える行動以外の気持ちを否定して欲しくない、そんな相手に見せられる弱さを出せる人よりも、私に目を向けて欲しいって。何がどう、ではなく私はそんな弱さを表現出来る人が羨ましくて、憎らしい。私が相談相手の事を人間的に好きであれば好きであるほど言えなくなってしまう、つらいと言葉に出来なくなってしまう。こんなにも私が憧れを抱いている相手に、私の知らない誰かはあたかも簡単に、つらいって自分の気持ちを伝えられてしまう。貴方の関心を奪ってしまう。自分より頭が良く素敵な貴方はそんな“弱さ”を気にも留めて欲しくない。…本当はこれが本心です。

けどここまで書いてわかった私の気持ちは、ただ単に私は自分が1番つらいんだと思っている部分があること。だから、自分から発信する強さを持ってる人よりも心配して欲しい。本当の私は強くなんてない、不幸なんだって認めて欲しいと思っている。だから今のモヤモヤは嫉妬や妬みといった感情から来ているものでもある、と分かりました。

そしてこのモヤモヤ自体は、自分が憧れている人からしか出てこないことも分かりました。




この文章を通してわかった感情。それは憧れを抱いている人から、私だけの気持ちの大変さをわかって欲しいと思っているということ。そしてそういった相手に抱く期待と、その期待が外れて欲しくないという感情の面が基準となって心が動いているということ。

こうして欲しいという行動的要素と、気持ち的要素が一緒になってしまってごちゃごちゃになってしまっていたみたいです。でも、気持ち的には欲的感情から来てる割合がかなり高いみたいですね。醜いです。自分の心が。



では結果、自分に目を向けて欲しいという欲を認識した上でどうしたら良いのか。

・自分発信で心の弱さを出して、相手が【この子は心が弱い生き物だ】と認識させることなのか?

・弱さという部分をこちらから意図的に発信するのではなく、あくまでも自分の状況の説明のみで、どれだけ自分が大変な状況下にいるのかを伝え、相手発信の心配心を引き出すのか?

両方違いました。

私はこれだけ頑張ってるんだよ、つらいけど必死に耐えているんだよって私の行動でくみ取って欲しい。そして、貴方発信で心配してもらいたい。

だから結果として私はやっぱり弱さを出せない、だから嫉妬をする。嫉妬とつらさを天秤にかけると、貴方に言えないつらさがあまりにも重すぎる。そして憧れである貴方に、貴方基準で出来た壁を私に向けて欲しくないと。それ故にきちんと私の心のつらさを感じて尊重して欲しいと思っているみたいです。だから相手に不満を抱く結果になったんですね。


でも結局、行き着くところは自分を許せない気持ちが根源なんですね。自分を許せない限りこの話の結末はきっと出せないんだなと思いました。自分の気持ちを整理すると必ず自分を許せない心に行き着いてしまう。自分なんかがそんな悩みを持ってるなんて、知られるのが恥ずかしいって。『自分なんかが』自分を認められない故にでてきた言葉が自分の自信を根こそぎ奪い、弱さを出せなくなってしまった。

けど、どの話も元を辿ればそこに行き作って、そんなの分かっているんですよ。でもそこに行き着くまでにどういう経由があるのかを考え、言葉に起こすという時間が私の私である時間になっていくんです。だからnoteを始めたと言っても過言ではありません。




今回は結果答えがふたつになりました。相手の行動的疑問の解決と、自分がその際に得ていた感情への理解です。

ここまでもし目を通して頂いていたのであればとても感謝致します。話の着地点が今回はおかしくなっているので、あとから自分で目を通し次第修正に入るかなと思います。そして何度も書きますが、これは私のための私の文章です。本文でもあった通り、私の気持ちは私にしか分かりません。だからこれを読んでも何も思わないでいてくれるととても嬉しいです。




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