地図

 隣の男が立ち上がるとき少し肘をぶつけて、それで彼は目を覚ました。トンネルをいくつもくぐり抜けるうちに眠ってしまっていたようだった。アナウンスが終着駅の名前を繰り返し、彼も軽い鞄を手にホームへと降りた。
 聞いていた通り駅は混み合っていた。やって来た人々と帰って行く人々がどの通路にもひしめいていた。
 彼は人の間を泳ぐようにして歩き案内所の前の列に並んで、ほかの旅行者たちと同じように、扉付きの棚の、山になった地図から適当に一部を抜き取った。

 裏面の簡単なコピーが色あせていたほかは皺も食べこぼしの染みもなく、彼はひとまず安堵した。これまでこの地図を手にした人々は、皆概ね丁寧に扱ってきたらしかった。
 駅を後にし、人混みを避けあてもなく歩き出してすぐ図書館にぶつかったので、彼は今閲覧用の机の上に地図を広げていた。館内は静かで、司書の足音がひかえめに響いていた。
 元は簡単な輪郭線だけが印刷されていた白地図に、何人かの筆跡で、あちこち矢印を引っ張っては目印になるものが書き込んである。
 彼も自分のペンを取り出して、今いる図書館の場所を探しながらそれらの書き込みを流し読みした。
 例えば川を渡る広い通りから脇へ入ったところに「駐車場で三輪車が錆びている」と矢印が引いてあった。あるいは入り組んだ路地の一か所に「女の叫び声」と書いてあった。ここまでの道で遠くに見えた大きな立体駐車場には、「屋上から下る坂の途中につばめの巣が落ちている」と記されていた。
 図書館はすぐに見つかった。
 彼はちょっと考えてから、矢印を引っ張って地図に短い書き込みをした。「司書の足音を読まれない本が聞いている」。
 席を立ってぐるりと回ってみる最中、棚の間に隠れて真剣な顔で本を開いている司書を見つけた。重そうな本を抱きかかえるようにしている腕の下に、崩れかかった石造りの城の写った美しい表紙がちらりと覗いていた。

 仰々しい名前のついているホテルの室内は、まるで一回り大きく作ってから押し潰したようだった。狭いベッドと傾いた机と固い椅子と小さな冷蔵庫とが窮屈に置かれ、もうそれで部屋はいっぱいだった。彼の居場所もないほどだったので、ごく浅い眠りから覚めると、彼は早々に街へ出た。
 「ようこそ、と端の破れた横断幕が掲げられている」アーケード街に、「錆びたシャッターの文字が消えていてもう読めない」と付け加えて歩いた。旅行者たちがまばらにいた。彼のと同じ地図を手にしているので、見分けるのは簡単だった。店の前でカメラを構えたり、手帳に何か書き付けたり、思い思いの観光を楽しんでいる。
 自分の地図と周囲とを交互に見やって、足早にここを立ち去ろうと決めたとき、不意に声を掛けられた。
「偶然ですね」
 振り返ると、どこかで見たような男が立っていた。やはり手には地図を携え、にこやかに彼の方を見ている。
「ごめんなさい、よく眠ってらしたから覚えておられないでしょうね、こういうところに来ると少し見知った顔でもすぐずかずか声を掛けてしまって」
「ああ、あの」
「ここまで来る列車で」
 そう言われてみると、確かにあのとき彼にぶつかっていった男のようだった。
 ぎこちなく彼が挨拶を返すと、男はますます笑みを深くして寄ってきて、やや興奮気味にこの街のすばらしさについて語った。なにもかも話に聞いていた通りで、と男は言った。本当にここはいいところですね。
 そして彼に向かって、あの店にはもう行ったか、展望台へはのぼったか、樹齢何年のあの木、古い家並みの続く通り、橋の下に集まる若い音楽家たちの演奏は、と矢継ぎ早に尋ねた。そのどれもに彼が首を振るのを見ると、たちまち目を輝かせて、自分の手帳を破ってそれらへの道順を書いてくれた。
「もう一度くらい、どこかでお会いできるといいですね」
 この短い滞在の間に、と続けて手を振って去って行く男を、彼は曖昧に微笑んで見送った。

 短い滞在にはならなかった。
 二週間が経とうとしていた。彼は毎日、明るいうちには地図と、親切な男がくれたメモを手にして歩き回り、日が落ちて地図が読めないほど暗くなると狭い部屋へ帰って、自分の家へ戻る旅行者たちを乗せた列車の出て行く音を聞きながら寝返りを打った。
 男のメモはあまり役に立たなかった。メモにはこんな風に書いてあった。
 「昼寝する犬のいる四つ角」を右に折れ、「制服の少女が子どもたちと絵を描いている路地」へ入って西へ進む。もしくは、「晴れていればドアだけが宙に浮いて見えるビル」と「雨が降ると二階の窓辺にてるてる坊主がずらりと並ぶアパート」の間を抜ける。
 彼の地図にはメモにある目印がひとつも載っていなかったので、自分で探さなくてはならなかったが、あるひとつを見つけるためのひとつを、また別の目印によって探し当てなくてはならず、これはとても気の遠くなる作業だった。
 彼はやみくもに歩き続けた。
 左右を油断なく見回しながら歩いて、そうしているうちに彼の地図は書き込んだ言葉で真っ黒くなっていった。
 そしてペンのインクが切れたとき、とうとう地図は、一文字も読み取ることができないほどになってしまっていた。
 彼はその場に立ち尽くした。古びた店の前で。見覚えのあるような景色だった。以前、この景色について地図に書き込んだ記憶がぼんやりあった。何か悲しいことがあったのだ、辛いものを目にしたと思った。
 自分のいるところ、ホテルまでの道筋、何かひとつでも目印を見つけようと地図に目を凝らしたが、自分がいまこの地図のどこにいるのか分からなかった。彼は途方に暮れてしまった。これ以上どこにも行くことができない。もう、ここからどこにも行けない。
 読めない地図を広げたまま、呆然として彼は立っていた。
 ふと、声がした。
 自分を呼んでいるとは思わなかったが、彼はただ反射的に声のした方を向いた。
「またお会いできてよかった」
 知っている顔が、店の奥で手招きしていた。

 呼ばれるままに店に入ると、外観の古さから予感した埃っぽさはなく、それほど広くない店内には、彼のふるさとでも見掛けるような民芸品が整然と並べられていた。
 カウンターのそばにはビニールのクロスの掛かったテーブルと、プラスチックの椅子が二脚据えてあり、男はそこに腰掛けて、店主である老女と談笑していたらしかった。
 彼が歩み寄っておずおずと挨拶すると、男は目敏く彼の真っ黒い地図を見つけた。
「あちこち歩かれたんですね」
「ええ」
「熱心に見て回られましたねえ」
 男は感心したような口調で言った。
「それでこの店にいらしたんですか」
 その言葉の意味が分からずに黙っていると、しばらく返事を待っていた男は頷き、店主と少し話をしてカウンターへ硬貨を出して置いた。すると店主は一度奥へ引っ込み、脚立を持ってきて、棚から何かを下ろしてテーブルの上へ広げて見せた。
 まだ何も書いていない、まっさらな白地図だった。
 男は彼に椅子を勧め、自分の鞄からがさごそと地図を取り出して広げて、彼にペンを出すように言った。ぼんやりペンを取り出してから、彼はインクが切れていたことを思い出したが、それを伝えようと口を開くより早く男は次々地図のあちこちを指して目印を読み上げ始めた。
 言われるまま書き込んでいったものの、ペンの通った跡がうっすらつくだけだった。
「さあ」
 男は最後に、胸ポケットから自分のペンを取り出して、今彼らのいる場所にちょんと印をつけた。

 彼らは店の前で別れた。
 今夜帰るのだと言って、男は彼の家のある方とは正反対の方角にあるという、聞き慣れない地名を教えた。またお会いできたらいいですね、と言い、彼はそれに笑みを浮かべて、それならきっとまたここで、と答えた。
 遠ざかる背中が並木の向こうに消えてすぐ、店に付けた印の横に、彼はつかないペンで今聞いたばかりの地名を書き込んだ。文字は書くそばから見えなくなった。
 彼は、日の光に地図をかざしてみた。書き込んだところが明るく透けている。
 そのうちこの地図はますます白くなるだろう、と彼は思った。ますます明るくなり、それは彼が自分のいるところを探し出して指し示すことを少しも妨げない。
 三人連れの旅行者たちが、ぴかぴかの貸自転車で彼を追い抜いていく。路地裏から布団を叩く音がする。確かにここはとてもいい街だった。
 彼はどこから回るか考えながら、道に迷うたび上を向いて歩いた。

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