ガラス瓶

広口のガラス瓶を持って彼は歩き回った。
友人のいなくなった家の物置を片付けていて見つけた。
ガラス瓶はほとんどそこに存在していないように透明で、そうやって始終手にしていなければ、置いた途端になくしてしまいそうだった。きっと前の持ち主もそれで置いていったのだろう。

歩き回っていると時々、彼のと同じくらい透明なガラスを見掛けることがあった。
ずっと前から忘れられていたのだろうそれらは小さな球の形をしていて、草むらや川底、ポストの影やアスファルトのヒビに、隠れるように転がっていた。
彼はひとつずつ拾っては日に透かしてみたり、耳元で揺すってみたりした。
そうすると、ガラス製の球体たちは、それぞれ違った色にきらめいたり、異なる音を立てたりするのだった。
さざなみの聞こえるものもあったし、どこかで耳にしたようなオルゴールが聞こえるものもあった。夕暮れの空の紫も見たし、シャボン玉の緑と黄色が溶け合うのも見た。
彼は見つけたものを残らずガラス瓶へしまったが、そっと落とすとそのそばからどれもみんな溶けてしまって、たぷんと波打ち光ったきり見えなくなるのだった。

一日中、ほとんどの時間を彼は外を歩き回って過ごした。
朝のひとびととすれ違い、昼のひとびとの後をついて歩き、夜のひとびとを遠巻きに眺めた。
混み合った電車の中で、あるいは日の落ちた歩道橋で、ガラス瓶を振ってみることもあった。
彼の手の中でガラス瓶は複雑に発光し、ぼんやりと様々な音が混じり合って響いた。
そんなときざわめいていたひとびとは一斉に口をつぐみ、わずかなあいだ、この、突然どこかから届いた色や物音の中に見知ったものがあった気がして、懐かしい思い出をなんとか探り当てようと目を凝らすのだった。
彼はひとびとの神妙な面持ちを眺めるたびに、幸福な気持ちでいっぱいになった。
彼には彼らにはない透明なガラス瓶があり、透明なガラス瓶は日を経るごとに重たくなっていき、いつかはあらゆるものを持ち歩けるようになるはずだった。

毎晩、同じ夢を見ながら彼は眠った。
夢の中で彼は、急な坂道を延々とのぼっていた。空は青く高く、海の匂いの混じる風が襟元からうなじを撫でて吹いた。
坂の上からだれかの歌う声が切れ切れに届き、聞き取れないにも関わらず、彼には自分を呼んでいるのだとはっきり分かった。
毎晩同じように坂をのぼり、見えないその先とそこにいるはずのひとの顔を見ようとして、毎朝同じように、濡れた頬で目を覚ました。
そして見た夢のことは毎朝同じように忘れてしまった。

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