件の娘

 山道を抜けると、さっきまでがうそのように晴れていた。
 土砂降りの雨音が取り除かれて、四人乗った車内はいっそう静かだった。窓ガラスの、次々後ろへ流れていく水滴を眺めてついたため息が思ったよりも大きく響いて、助手席から母が振り返った。母は驚いたようにわたしの顔を見つめ、起きていたの、と尋ねると返事も待たず早口に、もうすぐ着くからね、と続けた。
 ゆうべもよく眠れなかったのに、二時間ほどの道のりで少しも眠ることができなかった。妹は出発してじきに寝息を立てはじめ、首をほとんど真横へ倒した苦しそうな格好のまま熟睡しているようだった。
 不意に、あ、という父の声のあと、妹の頭がわたしの肩にずしりとのしかかってきた。急にハンドルを切った車は大きく揺れたけれど、妹はほんの少し身じろぎしただけだった。
 そっと振り返って確かめると、道の真ん中でなにかが千切れて死んでいるのが見えた。

 久しぶりの祖父母の家は、あいかわらず不思議な匂いがした。
 にこにこと迎えてくれた祖母は、難しい顔で黙っている両親と祖父をちらりと見たあと、お線香あげたらどちらの部屋にするかふたりで決めておいで、と言ってわたしたちを追い立てた。
 二階は綺麗に掃除されていた。
 以前はどちらの部屋にも父や叔母の持ちものが置かれて、いつでもカーテンが閉められて薄暗かったけれど、ふた部屋ともすっきり片付けられて、カーテンも真新しい明るい花柄のものに替えられていた。
 どうしようかと言い出す間もなく、妹は和室のほうへ駆け込み、さっそく畳に横になって目をつむってしまった。
 仕方なくわたしも残った部屋に入り、叔母が使っていたという学習机の引き出しを確かめてみたり、クローゼットの中を覗いたりした。なにもかもなくなっていて、面白そうなものは見つからなかった。
 ただひとつ、今まで気が付かなかったけれど、ベッドの横の高い位置に窓があり、外から格子が取り付けてあった。むき出しになっているマットレスに上って外を見てみると、祖父の畑が一階の屋根越しに見えた。
 シーツを持ってきてくれた祖母に格子について尋ねると、それは窓から屋根へ出られないように昔祖父が付けたものだと教えてくれた。

 きゅうきゅうに食卓に座って夕食をとるあいだ、祖母と妹のほかにはだれも口をきかなかった。みんな黙って、お互い目を合わせないようにしているようだった。
 荷物を解いてしまうのを手伝ってくれたあと、両親は帰っていった。
 見送りに立ったわたしたちを母は抱き寄せて、しばらくはおじいちゃんおばあちゃんの言うことを聞いてね、妹の面倒をよく見てね、と言い、父は祖父に長いお辞儀をしていた。

 一週間が過ぎても、両親は迎えに来なかった。
 母から毎晩電話が掛かってきて、元気にしているか、妹はどうか、今日はなにをしたのかといつも同じ質問をされた。わたしはその度に、元気にしていること、妹も元気だということを報告し、毎日祖母に送り出されて、朝から晩まで近所の子どもたちと遊んでいることを伝えた。
 それは嘘ではなかったけれど、まるきり本当のことでもなかった。
 祖父母の家の周りには妹と同じくらいかさらに小さな子どもたち、あるいはわたしよりずっとずっと年上の子どもたちしかいなかったので、わたしはいつも、妹がさっそくできた友人たちとごっこ遊びをしたり、少し離れたお宮まで自転車で走ってみたりするのに付き添って過ごした。
 そんなことの繰り返しで、楽しそうにしている妹や、嬉しそうにしている祖母はわたしを不安な気持ちにした。
 いつの間にかわたしの顔を覚えて、あらあの子のお姉ちゃん、と声を掛けてくる知らない大人たちもそうだった。
 ほとんどなにも言わず、いつでも不機嫌そうな祖父のほうがずっとよかった。祖父は、わたしが窓を開けた廊下に座ってぼんやり祖父の畑仕事を眺めていても、なにも言わなかった。なにかいるものはあるかとか、妹はどこにいるのかとか、どこか遊びに行っておいでというようなことも言わなかった。
 でもそうして過ごしていると必ずだれかがわたしを探しに来てしまうのだった。
 毎日そんな風に過ぎていった。
 妹の散らかしたものが家のあちこちに目立つようになって、その妹は祖母の買ってきた新しい上着を身に着けていた。子どもたちは遠出の許可をもらうためにわたしのことを両親に言うようになって、大人たちは顔を見ればわたしの妹の名前を呼んだ。わたしは彼らのうちのだれひとり名前を覚えられないままだった。
 カレンダーの写真が、笹の葉で作った舟から入道雲に変わっていた。

 お宮へ行ってみるか、と言ったのは祖父だった。
 もう何度か妹たちと出掛けたことがあったのでそう言うと、違うと言われた。
 祖母が妹を連れて買い物に行っていて、珍しくわたしと祖父は同じ部屋でテレビを観ていた。古いドラマの再放送で、面白くなかった。ただ静かな部屋を埋めるようにつけてあった。
 今から行くの、と聞くと、祖父は首を振った。
 明後日の晩にお祭りがあるからこの辺りの女の子はみんな集まる、本当はここに住んでいる子どものためのお祭りだが行きたいなら連れて行ってやる、ただし特別だからおばあちゃんにも妹にも内緒にしなければいけない、それが約束できないなら駄目だ。
 祖父は怖い顔をしてわたしの返事を待った。
 知らない子どもたちに交じってお祭りに参加するのは不安だったけれど、ここに来てからこんなに長く祖父が話すのをはじめて聞いたし、特別に参加するという言葉がくすぐったくて、わたしは深くうなずいた。
 そうか、とつぶやいて、それっきり祖父はまた黙ってしまった。やっぱり怖い顔をしていた。

 朝からそわそわしていた。
 お祭りがあるということ自体、家の中でも、子どもたちのあいだでも話題に上がることはなく、それがなんだか秘密めいていてますますわたしを緊張させた。
 祖父は夜と言ったけれど、夕食を食べ、お風呂に入り、母からの電話を切ってもまだ祖父はいつも通り過ごしていた。妹と並んでテレビの心霊番組を観て、部屋へ戻って横になって、そのうち下から聞こえていた物音もしなくなった。
 肩を揺さぶられて目が開いた。
 祖父が立っていて、身振りで、着替えて降りて来るよう言われた。
 言われた通り急いで洋服を替え、わたしは部屋を出た。妹の部屋の前を通るとき、そっと踏んだ床がきしんだけれど、妹が起きて来る様子はなかった。

 家の周りは真っ暗だった。
 ところどころにある外灯もぼんやりとしていて、どの家も明かりが消えていて、祖父の懐中電灯がぽっかり明るくて夢の中の景色のようだった。
 どこを歩いているのかもよく分からないまましばらく歩くと、高い生垣の向こうから光がもれていた。
 ざわざわとひそめた声が聞こえ、門をくぐると大人たちがそれぞれ懐中電灯を手にして立っていた。
 祖父が黙ってお辞儀をしたのでわたしも慌てて真似をした。みんな言葉すくなで、何度かいった近所のお祭りのような、お酒や爆竹の匂いもしなかった。ひっそりとしていて、どの顔も祖父と同じように怖かった。
 お宮も、思っていたものと違っていた。
 三階建てで、なにひとつ変わったところのない、普通の家だった。
 祖父のほうを見ると、祖父は黙ったまま玄関を指さした。ドアが開けてあり、たたきには子どもの靴が何足も並べてあった。
 周りの大人たちもいつの間にかじっとわたしを見ていた。
 だれもなにも言わなかったけれど、わたしは背中を押して進められるようにお宮の中へ入った。

 玄関から廊下が奥へ伸びていて、行き止まりの、明かりの見えている部屋以外にドアは見当たず、ただ白い壁が続いているだけだった。
 ひとがすれ違うのにも不便そうな狭い廊下を進んでいくと、ドアが開いた。中に立っていた母くらいの歳の女のひとが、わたしを見ると少し微笑んで部屋の隅を手で示した。
 部屋の中には様々な歳の子どもたちがいた。
 みんな女の子で、友人同士らしくこそこそと話をしている子どもも、眠そうにしている子どももいた。
 椅子がひとつ空いていて、わたしが最後のようだった。すぐ隣に座ったまだ小さな子はときどき頭を振りながら、必死に眠気をこらえているらしかった。
 わたしが腰を下ろすのを待って、さっきの女のひとが、入ってきたドアとは反対のほうへ歩いていった。明かりが届いていないせいで薄暗く気が付かなかったけれど、よく見るとそちら側にもドアがあった。
 女のひとはドアをノックして細く開き、しばらくなにか話しているようだった。それからわたしたちの前に来て、静かにしているように言うと、玄関のほうへ出ていってしまった。
 子どもたちは、わたしと同じように落ち着かない様子だった。みんな、なにが起こるのか分かっていないらしかった。
 まただれかが内緒話を始める気配がしたけれど、そのとき、奥からだれかが出てきた。
 そのひとは暗がりからゆっくりと歩いてきた。
 みんな、息を飲んで彼女を見ていた。
 女のひとだった。黒いワンピースを着て、のっぺりしたお面をつけていた。目のところに小さな穴があけられている以外は、なにも彫られていない、なにも描かれていないお面で、色さえ塗られず木の肌そのままの色だった。
 泣く子はいなかった。不思議と怖い感じはなかった。
 彼女は一歩一歩確かめるように進みながら、わたしたちの顔を慎重に眺めているようだった。
 長い時間を掛けてぐるりと部屋を回ると、彼女は立ち止まった。
 しばらく、変な間があった。
 それから、やっぱりゆっくりした動きで腕を持ち上げ、ひとりの子どもの頭に手を置いた。
 わたしの。

 そういえば、祖父はどうしたのだろうと思った。
 ほかの子どもたちはみんな帰され、わたしはお宮の、三階の一室で横になっていた。ここまで連れてきた大人は一言もしゃべらず、なにも説明してくれなかった。
 ただこの部屋に通されたとき、照明器具が取り外されていたので、真っ暗では眠れないと言うと、カーテンを開けておいてくれた。
 窓を見つめているうちにだんだん目が慣れてきて、ますます色々なことを考えた。
 そっとノックの音がした。
 返事をして、起き上がって髪を撫でつけているあいだに、だれかが静かに入ってきた。さっきのお面のひとだった。
 カーテンを閉めるうしろ姿を、わたしはぼんやり眺めた。それから彼女はわたしの前へ来ると、目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。どこにも影のできていないお面が、ほんの数センチ先からわたしを見つめた。怖くはなかった。ただ、なんとなくさみしい感じのするお面だと思った。
 彼女は小さな咳払いを一度したあと、ごめんね、とささやいてわたしをぎゅっと抱きしめた。
 そのまま何度かわたしの頭を注意深く撫で、しゃがれた声で何度も同じことを言い聞かせるように繰り返した。
 大丈夫、分からない、でも大丈夫、あなたにも分かる、あなたにも分からない、でも、大丈夫。
 気が付くと部屋にはだれもいなくなっていた。わたしは眠っていたらしかった。どうやって横になったのか、枕に頭を乗せ、薄い毛布をきちんと掛けていた。
 カーテンは元の通り綺麗に束ねられていた。窓の外はもう明るくなりかけて、新聞配達のバイクの音が近付いて遠ざかっていった。
 ふと見ると、枕元に、お面が伏せて置いてあった。
 のっぺりとしたお面の内側にはひとの顔が、たくさんの細かな線で彫られていた。唇が赤く塗ってあって、女のひとのようだった。よく知っているような、はじめて見るような顔だった。
 立ち上がって窓から下を見ると、大人たちが大きな箱を運び出すところだった。箱は数人がかりで荷台に積み込まれ、車は門の外へ走り去った。
 大人たちはいつまでもその場に残って、車のいなくなったほうを見ていた。
 わたしはお面を顔に当てて、紐をきゅっときつく結んだ。がさがさした木の凹凸がきりきりと皮膚に食い込んで、どうしようもなく痛かった。

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