宛先が見つかりませんでした

1. 

 あなた宛てに緊急の連絡があった、と机の上に書置きが残されていて、それを読んで慌てて席を立ったので私は仕事を失った。
 手紙以外のものがチューブから吐き出されるのを初めて見た。後任の者を遣るから説明をして速やかに部屋を出るようにというその薄い紙一枚を読み終わるかどうかという内にはもうノックが聞こえ、私と似たような、しかしやはりどこかが決定的に違うような雰囲気の女が所在ない様子で立っていた。
 お互いいくつか単語を並べてみたが通じず、なんとか身振りで仕事については理解したようだったが私は彼女に何も助言をしてやることができなかった。
 前任者はずっと暑い国のうまれだった。
 ここに来るまで転々としたという国の名前の長いリストの中には私の母国の名前もあった。彼はおぼつかないながらも私の国の言葉を話すことができたので、引継ぎの合間にはもう誰も笑わないほど懐かしい故郷の冗談さえ聞くことができた。
 彼は手本を見せながら根気強く私に練習をさせ、この一文の他には言葉を覚えるな、と繰り返し忠告した。
 この他には覚えるな。手紙に何が書いてあるのか理解するな。何を書くべきなのかを考えるのはお前の仕事ではない。一通に返事を書く。次の手紙が流れてくる。どの手紙にも同じ言葉を、全く同じように書け。

 席を譲って部屋を出た。持ち出すものはなく身軽だった。
 左右に同じ形の扉がずらりと並ぶ長い廊下を通って外に出たが、その間誰ともすれ違わなかった。結局最後まで、ここでは誰ともすれ違うことはなかった。
 私はバス停の傾いだベンチに腰を下ろした。
 今まで一度もバスを待ったことはなかったが、どこか自分の知らないところへ行きたいと思った。

 毎日同じ時間に出勤し席について、壁を伝って机まで伸びる透明なチューブから次々吐き出される手紙に、赤いインクで返事を書いた。柔らかな紙に透かし模様が入った封筒もあり、カップの底の丸い跡が残る葉書もあった。
 一日も例外なく、信じがたいほどの数の人々が信じがたいほどの数の手紙を誰かに送っていて、その内のいくらかが、結果的には私宛の手紙となった。
 不思議な形の文字の列に、私は母からの手紙を読んだ。早くに死んだ歳の離れた従兄からの手紙も読んだし、厳しい恩師からの手紙も読んだ。ある日ふらりといなくなってしまった友人からの手紙も。
 そして私はたくさんの返事を書いた。たった一行の、代わり映えもなく簡潔なとりとめのない返事。

 バスは、私の時計で30分近くも遅れて着いた。
 扉が開くとぎしぎしと軋む大きな音がした。不思議なことに、乗り込んだ人だらけの車内の匂いは私の故郷のバスのものと全く同じようだった。
 車内にはてんでばらばらの、しかしどこか似たような人々が前を向いて座っていて、変わった記号の印字された整理券を少し眺めていた私も、刷毛を滑らせたようにすぐに紛れてしまった。
 バスはゆっくり出発した。 


2.

 かたん、という音で目が覚めた。
 夢の中で流れていた音楽の続きがぼんやりと視界を横切っていく。そのままちょっとのあいだ、小包や、招待状や、笑顔で写った友人の写真のことを想像した。
 パジャマのままのぞいたドアポストの中には、朝刊と一緒に、見覚えのあるポストカードが入っていた。

 来るときはきれいに晴れていたのに、夕方になって急に雲行きが怪しくなり、部屋の中にいても分かるくらいの土砂降りになってしまった。
 カウンターにはあっという間に行列ができて、応対しても応対しても途切れそうになかった。
 誰かの忘れていったものの中で、傘だけがとびぬけてぞんざいに扱われていることに、未だに慣れることができない。こうやって貸し出した傘が戻ってくることは一度もなかったけれど、他のひとはそれを気にする様子もなかった。
 どっちみち、次の雨では貸し出した数以上の傘が忘れものとして届けられたし、忘れた傘を取りに来るひとはいないのだ。
 だって全部返ってきてみなよ、もう傘なんか置くところなくなっちゃうんだから。そう言って、わたしより少し流暢に話す同僚は笑った。

 わたしの国は、雨の多い国だった。
 姉はよく四つ折りにした色画用紙をいろんな形に切り抜いて、窓辺に飾った。雪の結晶みたいに。
 わたしの家の窓はどの家のよりも明るく華やいでいて、そこから見える景色はいつも薄暗くじめじめしていたけれど、わたしたちは窓の近くで過ごすのが好きだった。

 雨は一時間ほどで止み、わたしが着替えて家路につくころには、まんまるい月が空にも路肩の水たまりにも光っていた。
 切符売り場で慎重に路線図の駅名を数えて、売店で新しいポストカードを買った。構内の書店に寄って、表紙にチョコレートとひまわりの絵のある本を選び、膝の上でめくりながら電車に揺られた。一定のリズムで並んだ活字は、姉の作った結晶に似ていた。

 慣れれば暮らしやすいところ、と、部屋を譲ってくれた友人は言った。ちょっとごみごみしてるけど、窓を開けておくといろんな匂いがして退屈しないし、それに洗濯物がよく乾くし、ほら、わたしもちょっと日焼けしたでしょ。

 熱すぎるコーヒーを冷ますあいだに、空っぽのドアポストを確かめて、わたしは机に向かった。
 音量を絞ったラジオから、ノイズ混じりのピアノが聞こえる。結末は忘れたけれど静かな映画の、森の奥で子どもたちが朝を迎えるシーンで流れた曲だった。大きな眼鏡を掛けた子と観に行って、帰りにおそろいの、おもちゃみたいなバッグを買った。
 自分の名前と住所は、もうすっかり覚えて何も見なくてもすらすら書けた。友人がくれたメモを見ながら何度も真似しているうちに、手が覚えてしまった。
 目を閉じて開いた新聞の紙面から、なるべく字の大きな記事を切り抜く。
 どのくらいの手紙を書いたのだろう。どれだけ書いても、わたしは全然何も書けるようにならなかった。
 切り抜きを一文字ずつ丁寧に書き写していく。これは宛名、これはあいさつ、これはわたしの今日あったこと、これは、これは、これもみんな。

 切手を貼り終えて、今日一日鞄に入れっぱなしだった手紙を、やっと取り出す。
 蜂蜜を入れすぎてほとんど香りしか残っていないコーヒーを飲みながら、短い手紙を何度も何度も読んだ。いつもはまっすぐ引かれている、文字と同じ赤い色の枠線が、今日は少し歪んでいた。何かに気を取られたみたいに。
 書き上げたばかりのポストカードを脇によけて、飲みかけのカップを置いた。
 ラジオはぼそぼそ宇宙について話し始めていた。
 今日選んだ記事が、明るいニュースのものならいい、と思った。

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