見出し画像

小康状態ってやつだと信じたい

こんにちは。母が入院をしてから三日目となります。

昨日面会に行ったところ、入院初日に比べて呼吸が落ち着いていて少し安心しました。まだいつ容体が急変してもおかしくない状況ではありますが、このまま一旦安定することを願います。しかし、身体のあらゆる数値を正常値に戻すためとはいえ、たくさんの管やその他医療器具がついているのを見るのはなんというか、違和感を感じます。数分単位でどこかしらの機会から警告音が鳴るのはどうしても不安になってしまいます。ただ薬が切れそうですよっていう知らせなことが多いのですが。

もしも自発呼吸が困難になった時に人工呼吸器をつけるかどうかといった話が今の一番の悩みどころです。今現在は通常よりも少し自発呼吸の機能が落ちた状態ではありますがなんとか自発呼吸を続けている状態です。これがもう少し機能が落ちると人工呼吸器をつけなければ生命維持が困難な状況となります。しかしながら、この状況に陥った時点でもう意識回復はおろか、自発呼吸が再び回復することは考えられないそうです。というのも、呼吸を司る中枢の部分の細胞が損傷したことによるものなので一時的現象ではないからです。

このような時に人工呼吸器をつけることは「延命措置」でしかないことは論理的に考えれば理解できることではあります。実際人工呼吸器をつけないほうがいいのかもしれません。しかしながら、理解ができても感情が邪魔をして納得ができません。人工呼吸器をつけないという選択をすることで、家族たち自身の手で殺すようなものに感じてしまったり、自発呼吸が止まっていてももしかしたらまだ少しだけ考える機能や外界の情報を取り入れる機能が残っていて、今もかすかな意識の中で闘っているかもしれないと(希望的に)考えてしまいます。人はどうあっても感情的な生き物なんですね。しかもまた50代半ばなんですよね。「早すぎる」って。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

母は専業主婦だったため、基本的に軽い家事の手伝いをする以外は全て母に任せっきりだった家族三人は今日常生活で苦労する場面が多くなっています。ゴミ出しの周期・1日3食の食事・たくさんある家事の分担などにてんやわんやです。浪人時代以降母親への感謝はいつも伝えるようにしていたのですが、改めて母親の存在の大きさに気づかされている毎日です。もちろん家事をしてもらっていたという意味でもなのですが、やはり母がいることで家庭が明るくなっていたんだなぁと。いつもちょっとしたことで絡んでくるような人でしたが、その面倒くささも今となってはまた感じたいくらいです。毎日の買い物も三人で行くようになりました。少しでも家族と一緒にいた方が安心するのかもしれないですね。

あとは、特別に許されている面会なので時間が指定されてしまっています。これによりバイトやら授業課題などを時間変更をしながらこなしていかないといけないのがなかなか大変ですね。ほとんどの授業がオンデマンドだったことにマジで感謝です。笑 早く授業終わってくれーーーー

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

今回のようなことは必ずこの世界のどこかで常に起こっていることだと「情報」としては知っていましたが、やはり当事者意識を持つのは難しいものでした。漠然と、2-30年後には親にそういうことがあってもおかしくないけど今はまだ自分の将来について集中していればいいや、自立して生活が安定してきてから親孝行しようと考えていました。それが悪いことだとは思いませんしそれで良かったと思います。しかし実際にこうなってしまってはこれまでのあらゆることに対して「後悔」という感情が湧き上がってきてしまいます。親との関係は家庭によって様々ですが、自分が感謝を感じることのできる親であれば今のうちから親孝行してあげるといいかもしれません。ちょうど新型コロナでの自粛生活が続いているので、いい機会なのでは。

このような記述をするたび「客観的に見たら少しイタいのかもなぁ」とか考えますが、そのような冷めた考え方は今は捨てて置こうと思います。自分自身も過去にこういった発言に対してどこか冷めていましたが、それは当事者意識の欠如が要因だったので。

自分自身が心身ともにこれまで通りに過ごせるようになるのはもう少し時間がかかりそうですが、いつまでもうだうだしてても何も始まらないので少しずつルーティン的生活も戻していけるようにしたいです。では今回はこれで。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?