ある女性の話

その女性は3月4日の午後眠るようにこの世を去った。
94歳3ヶ月11日
今年に入ってからはもう食事もあまりとれず常に寝ていたそうだ。
彼女には二人の息子と一人の娘がいる。
彼女が暮らしている施設から3人の子供たちに最後の処遇について
相談があったそうだ。子供たちは自然に任せることにした。

私が知っている彼女の話
彼女は昭和の初めに山梨県で農家の二男五女の長女として生まれた。
想像ではあるが小作農家ではない感じだ。
彼女の実家に行ったことがあるがその昔は養蚕もしており
二階はお蚕小屋だったそうだ。
戦争中は若い男手も少なく大人に混じって農作業をしていたと聞く。

戦後彼女は親戚の伝手で横浜に。
何がきっかけで横浜に出てきたのかは不明。
昭和20年代半ば同じく山梨県出身でシベリアから復員してきた男性と
知り合う。彼は身寄りのない親戚の女性と養子縁組をするのだが数年後
解消する。これもなんでかは不明。
数年後その男と彼女は結婚する。夫婦は洋品店を開店する。
まだ大型店舗のない時代でどんどん復興が進んでいく時代である。
夫婦の店は繁盛したそうだ。特に年末年始は繁忙期。人々は正月前に衣服を新しくし、お年賀にタオルなどを用意するそんな習慣だったからだ。
夫婦には結婚翌年から娘、息子、息子3人の子宝に恵まれる。

夫は器用な人で何でもこなす人、料理も得意だったと聞く。
町内会のまとめ役もして町内会館建設にも尽力したそうだ。
彼女は店中心、仕入れに長男を連れていくことが多かったそうだ。
人当たりが大変よく社交的だった。

やがて子供たちも成長していく
長女は高校卒業後働いていたが知り合った男性とすったもんだした挙句結婚
夫婦は早くもおじいちゃん・おばあちゃんになってしまった。
長男は高校卒業後国鉄に入社し青春を謳歌していたそうだ。
次男は大学卒業後郵政公社に入社。二人は自慢の息子だったようだ。
そのころに店から徒歩10分くらいの場所に自宅を新築する。

夫婦は長女夫婦が働きに出ているので店で孫たちを預かっていたようだ。
時には彼女は長男と孫と3人で旅行に行くこともあったそうだ。
それは夫が店を守ってくれていたからだと考えられる。

60代次男が結婚。少し間は空いたが孫が誕生
ただ近所に住んでいるわけではなかったので嬉しいけれど
なかなか会えない事情もあったようだ

夫婦が70代に入ると夫が癌を患ってしまう。
その後パーキンソン病から認知症を発症。徘徊を始めるようになる。
彼女と長男は仕事をしながらも夫の介護をするようになっていく。
彼女は自宅から店に夫を連れて出勤するようになる。
夫が無くなる1年前長男が婚約者を連れてくる。
彼女は長男より一回り以上若い婚約者に不安はあったようだ。
そして長男結婚。夫不在の披露宴となったが3人とも所帯を持ち安心したのではないだろうか。

その年の夏、夫死去享年78。人望にかなった葬儀であった。
ただ悩ましかったことは死後の相続である。夫は晩年認知症を患っていたこともあり、何も整理ができていなかった。
とりあえず彼女が相続したが子供たちはもめることを恐れ何も対策を講じてこなかった。

それから80歳中ほどまでは彼女もその年なりに店を空けつつ過ごしてきた。
その間に弟や妹がこの世を去っていったが淡々と日々を過ごしていたように感じられた。だが徐々に彼女にも目に見える老いや認知症を思わせるような行動が現れるようになった。
そしてついに彼女も自宅がわからず迷子になり保護されるということになった。主に彼女の世話は長女が行っていたがいよいよ判断が必要となり弟たちは呼び出される。次男は妻の両親の面倒があるといい、長男夫婦は長女に世話をすることを要求されるが共に仕事をしていることもあり相続放棄を盾に長女に一任することを伝えた。
実は長女は彼女の世話をしている名目でこの家の資産を食いつぶしている疑惑があるからだ。そしてそのことについて疑いを持っている長男と裏では敵対している。
それはさておき、彼女は施設の空室を待ってその年の冬に施設に入居した。

そのあとの4年3ヶ月彼女はゆっくりといろんなことがわからなくなっていった。真っ先に長男の妻のことはわからなくなった。
妻は自分の祖母がそのような状態になっていたので驚きはなかった。
悲しいが仕方ないと思った。
だんだんいろんな人のことがわからなくなり、どんどん物が食べられなっていった。最後に皆で会うことができたのはコロナ前の年の秋
長男は行くことができなかったので妻が行くことになった。
判らないながらも歓談していたが突然長男の妻に向かって彼女は怒りを表した。妻もどうしたらよいかわからなかったが周りがなんとか彼女の怒りを
収めた。妻は悲しかった。最後の思い出がこれになってしまうのが。

昨今のコロナ禍の中家族は面会がずっとできずにいたが
昨年の秋、長女より本格的に最後の時が近いと連絡があり長男と次男が施設で面会を果たす。なんとなく息子たちはわかったようだ。
ここでいったん容体が持ち直し94歳を迎えることができた。
そしてこの冬、2月の終わりに再度子供たちが施設に呼び出される。
いよいよ終末を迎えるにあたっての処遇を。

私が聞き実際に体験した”彼女の歴史”である。

今週末彼女は荼毘に付された。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?