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114.やらない善より、やる偽善
世の中偽善じみたことが多いですよね。
テレビもそうですし身の回りでも多くの偽善があります。
困っている人のため、とか、感謝を伝えましょう、とか。
昔は私も偽善ぶったことは嫌いでしたし、今でも得意ではありません。
しかし最近偽善に対する価値観が変わってきました
人の為と書いて偽り
偽善の”偽”は”いつわり”という字ですね。
つまり偽善とは、”人の為にする善”と言う意味になるので、誰かの為に何かをするということを偽善、それをする人を偽善者と呼びがちになるのかもしれません。
先ほども書いた通り昔は偽善、それをする偽善者が苦手な感覚だったのですが、今はどう変わったのか。
そのきっかけとなったのは、まだ島田紳助さんがされていた頃の「行列の出来る法律相談所」での話を聞いたことです。
「偽善者と言われてもいい」
その時は、カンボジアに学校を建てるために有名人に絵を描いてもらい、それをオークションした金額を学校建設に充てるといったイベントでした。
その時に島田紳助さんが言っていたことを要約すると以下のように覚えています。
「カンボジアに学校が1つだけできても意味はないのかもしれない。我々のやっていることを見て偽善者と思われるかもしれない。けど、学校は1つでも、無いよりあったほうがいい。偽善者と言われても、やらないよりはやったほうがいい。」
この話については非常に強い共感を感じました。
偽善者と言われても、やらないよりはやったほうがいい。
もちろん学校のような継続性・持続性が求められるものについては作って終わりではないのでその難しさがあり、作る以上にどうやって地域に根付いた施設にするのか、教員などスタッフの持続可能な確保はどう考えるのかなど問題はあり、悪く言おうと思えば簡単にできた事案です。
しかし逆に言えば、”やらない善”って意味がないなと感じた瞬間でもありました。
やらない善は意味がない
この話をきっかけに、私は少しでも良いことをしようという心構えになりました。
日本の価値観は非常に美しいと思うのですが、私の主観としては”善いこと”とは「見返りを一切求めることなく、完結した行いであるべし」という感じなのかなと思っています。
なので人の為に何かをするということは敬遠されたり指を差されがちになりますが、むしろ日本的な”善”を貫き続ける方が世の中何も変わらないのかもしれません。
それに、”善”の立場は居心地がいいものです。
誰かに対して「偽善者!」と言っても自分は傷つくことはないし、真っ当な正論を言うこともできる。
そんな中で偽善と言われてでも、誰かの為に何かをするということの重要性が私はあるなと感じ日々を過ごしています。
今日の話も何かのお役に立てば幸いです。
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