うみだす、いきる

うみだす。

そんなことをしていたのは、いつのことだったんだろう。

高校生の頃、すべては鋭敏で、鮮烈だった。いやになるほど甘ったるい不幸と、味気のない幸福の中にいた。からだの芯からぐわっとわきあがるような思考の源泉に、自我がおしだされながら、そして溺れながら生きていた。それはいま考えれば、所謂『厨二病』だったのかもしれない。けれど、そんな自分は、今よりはすきだのきらいだのとは縁遠いところにいた。むせかえるような日々を、延々と咳き込んで、或いは嗚咽をもらしながら、ただただこなしていた。

高校生の頃の私にとって、うみだす、はほとんど反射だった。

煙たくまとわりついてくるオトナの都合や正義に対しての自己防衛。「ちがうんだ。そんなもので押し込めるな。侵すなら、はねかえす。」そんなギラギラとしたにぶい光みたいなものがあって、来るものすべてを反射していた。うみださなければ、という意識なんかどこにもなかった。あふれでるエネルギーを、侵入者に向かって解き放つ!そんなSFの戦闘員のような、浮き足だった毎日だった。

いきる。

いつから、この言葉にいやな重りがついたんだろう。

「いきるって重いよ。いのちって重いことなの。」そういうことじゃあないんだ。そんなことは脳の溝のすみずみにこびりつくほど聞いてきた。それでも私の芯には効かなかった。ただ、鎖でがちゃがちゃと鉛がつながれていく。いきるということは、うみだすようなあの愛おしい怠惰な営みだったのに。いつからか、擦り切れ、目をつぶりながら、やり過ごすような陰鬱なものに変わってしまった。

だんだん。だんだんと、泉が枯れていく。そんな感覚に支配されている。

なにかをうみだしたい。そんな意識なんてなかったあの頃は、息をするたびになにかをうみだしていた。それは、愚痴や不平不満の類だったことも多かったけれど。それでも、日々なにかに反射をして、今日という代替のできない日を生きていた。それがいまはどうだろう。昨日も、今日も、多分明日も。私は、このままでは擦り切れていくだけだ。同じ日々の中で、すこしずつすこしずつ、消費されていく。なにを生み出すこともなく、自らにわずかに残された貯蓄を切り崩しながら。代わり映えのない日々に怯えつつも、大きな(ことさら不都合な)変化を遠ざけて。きっと、大根おろしみたいに少しずつ削られて、ケバだって、みっともなく小さくなったら、穴にひょいっと落ちてしまう。

このまま無抵抗でフルボッコ、サンドバッグとしてズタボロにされて廃棄されるんだろうか。

おいおい、そんなタマか?

あんた散々嫌われてきたじゃない。引っ掻きまわして、傷つけて、傷ついたふりもお手の物になってきたじゃない。

あんた本当は、じぶんを曝け出すのが怖いのね。じぶんの芯は、どこかで高尚だと思っていたいのね。芯を白日のもとにさらして、比較されたり揶揄されたりするのをまだ恐れているのね。うみだしたいなんていいながら、あなたはじぶんをまだ守っている。赤子のように、まゆにくるんで、ゆりかごの中でぬくぬくとしていながら、擦り切れていくなんて、つまらないことを言っているのね。じぶんがつまらないのは、あなたがなにも与えようとしないからなのかもしれないね。

完成された、キラキラした、価値のあるもの。そんなものを創れるのは、きっと限られたにんげんだけ。そして、それを受け取ってくれるのも限られたひとたちだけ。そこに選ばれないことを思い知るのが怖いから、スタートラインにも立たずに二の足踏んで、野次をとばしている。

いつまでそんなことやってんだ。

みんなが思うより、世界はあっけなく壊れる。ひとは表面張力のようにこの世界に関わっていて、ぷつっとひとつきすると、ぽたぽたとこぼれ落ちる。この世界にしがみつける時間には限りがある。わたしなんてなんの価値もないにんげんなら、いっそうのこと。

それでもまだじぶんで終止符を打っていないのはどうして?

なにかに期待してるはず。この芯は、まだなにかをうみだそうと、うずうずしているはずだ。それが有益かどうかなんて知ったことか。共感されるかどうかなんて知ったことか。知らないものをたくさん食べて、吸収して、排出して。そうしてまた新しいものを食べられる限り食べつくす。もっと傲慢で、自由に。傷つけることと、傷つけられることをもっと深く。与えることと、請うことを、身が引きちぎれるほど。

まだ、できるはず。

まだ見ぬあなたに会えますように。そして、見えていなかったあなたにもまた会えますように。

手を振り合って背を向けて歩き出してしまえば、きっともうお目にかかれないことでしょう。

それが貴方にとって、救いでありますように。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?